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地上を歩いた神(31)

(2006年6月4日 初版公開)

イエスは弟子たちに、自分が去らなければならないことを伝えた。そして、助け主である聖霊がやがてやってくることも告げた。彼は弟子たちに伝えておきたいことをすべて伝えたかのようだ。

その後、イエスは天を見上げて、祈りを捧げた。十七章の最初から最後まで全二十六節がイエスの祈りとして記録されている。実に長い祈りである。今までにヨハネの福音書は幾度となく読んできたはずであるが、不思議なことに今まで深く考えたことのない章であることに気付いた。今、自分の聖書を開けてみたが、何の印も付けられていない。やはり、ある意味「素通り」されてきた箇所なのだろう。

イエスの祈りを読んで見ると、彼がこの世界にやってきた目的、子なる神と父なる神との関係、彼の私たちに対する思い、この世における私たちの立場…そういった福音書に書かれていることが凝縮されているかのような印象を受けた。聖書を通して神が人々に伝えんとしていることのほとんどが、この箇所を読めば分かるのではないかとさえ思われる。難しい譬えも何もない。

その長い祈りの中で、イエスはこの世に来た目的について告白している。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため…その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

イエスはこの世界にヨセフとマリアの間に赤ん坊として誕生し、ひとりの大工として生活し、やがて時が満ちると神のことばを人々に伝え、数々の奇跡を行うようになったのである。そして、このように祈った後、弟子のひとりに裏切られて、処刑されてしまうことになるのであるが、それもすべて人々に永遠のいのちを与えるという目的のためなのである。また、神のことばを伝え、奇跡を行うことは、この世界において神の栄光をあらわすことでもあった。

またイエスは後に残さねばならぬ弟子たちや信仰を持った者たちの行く末についても案じている。人々に神のことばを伝え、病に苦しむ人々を救い、最後に人々の罪の身代わりとなることで、イエスはこの世での役目を果たしたということになるのだが、それで満足してしまうお方ではなかった。残される人々を慈しむ思いから、このように祈っている。「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。…彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」

しかし、イエスは祈りの中で、必ずしも信仰者が俗世界から単純に解放されることを望んではいないと告白している。神は死者さえも復活させることのできるお方であるから、苦悩や困難の中にある人々を救い出すことは容易なことであろう。しかし、それは本当の意味での善には結果としてならないのである。

なぜなら、信仰者には信仰者としての役目があるからだ。神のことば、すなわちキリストのことばと行いを伝えることは、永遠のいのちの所有者をさらに増やすことにつながるのだ。それこそが、本当の意味での善なのである。イエスはそれも鑑み、目の前にいる弟子たちのためだけに祈ってはいない。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」

イエスはすべての時代に生きるすべての信仰者たちのために祈っているのである。言葉としてはそれだけのことかもしれないが、その意味は重い。イエスは今ここにいる一人ひとりのためにも祈ったのだ。我々も祈ることはできるが、救い主であるキリストを除いては、神に対して完璧なまでの信仰をもって祈る者はいないだろう。

我々が喜んでいる時でも悲しんでいる時でも、元気な時でも疲れている時でも、神は我々を忘れることはないのである。救い主であるキリストその人が、我々のためにすでに祈って下さったのであるから。

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