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セミのお客(短編小説)

玄関の前に、羽が片方もげたセミがいた。

ジジジとひっきりなしに羽音をたてている。

まだ梅雨も終わっていない初夏、雨の日に挟まれた貴重な晴れの日だった。

美しく濃い水色の空に、薄く漂う雲。

太陽の光は強く、梅雨の終わりを錯覚させた。


ドアを開けると、セミは行儀の良いお客のようにドアの横にちょこんと座っていた。

「すみません、飛べなくなってしまったんです。

まだ梅雨も終わっていないのに、困ったものです。ほら、この通り。」

そう言って、ジジジと片方の羽で飛ぼうとして見せた。

細い足がゴソゴソ動いている。

「それは大変ですね。何かお手伝いできることはありますか?

例えばほら、あちらの桜の木に移して差し上げるとか。」

玄関先のタイルよりもずっと、木に掴まっている方が快適なのではと思ったのだ。

「それは言えないのです。悟ってください。

どうするのが私にとって良いのかを。私がどうして欲しいのかを。」

セミは諭すようにそう言った。

ふたつの黒いつぶらな丸い瞳が、下からじっとこちらを見上げている。


僕はどうしたものかと思った。

「けれども言って頂かないと、どうしたら良いか分からないですよ。

このままではあなた、食べるものもなく弱ってしまいます。

タイルもつるつる滑って動きにくそうだし・・。」


「言えないんです。

だって私はセミで、あなたは人間でしょう。そもそも言葉が違います。

私たちの言葉は、ミーンミーンとかジャジャジャとか、そういうのです。」

僕は分からなくなって口をつぐんだ。


「だから感じ取ってください。

想像し、繋がれると信じる事でしか、私たちは分かり合えないのです。」


禅問答みたいだ。

僕は腕を組んでしばらく考え、緑の生い茂る庭を一周した。

何かヒントがあるだろうか。

レモンの葉に、逆さにぶら下がるカマキリを見つけた。

おかしな姿勢で、葉に擬態したまま寝ているようだった。

僕はちぎったローズマリーの一枝の葉で、ふわりとカマキリの背中に触れた。

寝ていたはずのカマキリは、姿勢は少しも変えず、三角の顔だけをカッと勢いよくこちらに向けた。

そのまま少しも視線を外さない。


僕はすごすごと玄関に戻った。

セミはまだ、両手両足をじたばたさせてこちらを見ている。

僕はしゃがみ込んで考えた。

相手の気持ち。セミの気持ちを。

汗をかきながらじっと考えた。

セミは言った。

「大丈夫、焦らないで。あなたなら出来る。時間はたっぷりある。

だってまだ、夏は始まったばかりじゃないか!」



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