身近だけど知らない異言語・異文化の「手話」を文化人類学者が紹介する本『手話の世界を訪ねよう』亀井伸孝著
文化人類学者として手話に興味を持ち、専門であるアフリカ地域などで手話の調査・研究をし、ろう者の女性と結婚した著者が、手話の文法、手話の文化や歴史、手話と共存する社会について、分かりやすく紹介。
日本手話は日本語とは異なる言語体系を持つ「言語」
私が手話に興味を持ったきっかけはいくつかあるが、一つは、手話の講座で「日本語では~。手話では~」という説明をしていたことだ。
そのとき、日本で使われている手話を「日本語の一部」のように捉えてしまっていた自分の浅はかさに気付いた。
そうではなく、「音声言語」である日本語や英語etc.と、日本手話、アメリカ手話、イギリス手話、韓国手話etc.は、それぞれ異なる言語体系を持っている。
日本手話と日本語の文法は、日本語と英語の文法が違うように、全く異なるのだ。(手話では、眉の動きなど顔の表情で文法の要素を伝えたりするそうだ)
ろう者にとって、日本語の文章を読み書きすることは、手話とは異なる日本語という別の言語を習得した結果なのだ、ということにさえ、無意識だった。
ろう者である子どもたちが、学校で日本語を学んでいる映像を見ると、その大変さの一端を感じる。外国語や、(聴者が意識的に)手話を学ぶ場合の大変さと同じだろう。
ろう者は手話で独り言や寝言を言う
これも言われてみれば当たり前のことなのだが、本書を読むまで、「手話の独り言や寝言」について、自分が想像したこともなかったことに衝撃を受けた。
自分が生まれたときから、近所のどこかに暮らしていたはずの人たちのほんのちょっとした日常について、こんなにも何も知らずに生きてきたのか、と。
英語のように学校の義務教育で手話の授業を必修とすることはなかなか難しいとしても、せめて一度くらいは、成長する過程で、ろう者の話を聞いて手話に触れる機会があっていいのではないか。
機会があったら、文部科学省の人にこのことをぜひお願いしたい。
視覚言語である手話による思考とは?
本書の著者は、考えるときに、日本語と手話が交ざるのだという。
手話で思考するとは、手の動きや顔の表情がイメージとして頭の中に浮かんでくることなのだろうか?
英単語の意味を思い浮かべるときに、日本語訳ではなく、その単語が持つイメージや「感じ」で捉えることが私はあるのだが、それに少し近かったりするのだろうか?
日本中の人が英語学習に関心を持つのに、手話は?
英語などの外国語や海外に興味を持つのもいいが、身近な異言語・異文化である手話やろう者たちの文化にも触れてみたい。
きっと面白い発見や楽しい体験ができそうだ。
手話と芸術、芸術としての手話
手話と芸術の関係にも関心がある。
フランスのレティシア・カートン監督によるドキュメンタリー映画『ヴァンサンへの手紙』で、ろう者の俳優がパリのエッフェル塔を背景に手話で語る姿に魅了されてしまった。
もちろん、その手話はある「意味」を語っていて、その言語を理解できないまま、視覚的に美しいと思ってしまうことはあまりよくはないのかもしれない。
しかし、その動きの美しさから始まる興味があってもいいと思う。全く意味を理解できない音声言語の発音を聞いて、その音の響きに引かれて、言語を学び始めることがあるように。
手話はジェスチャーではないが、手話には造形的な美しさの側面もあるのではないだろうか。
それとはだいぶ違うかもしれないが、文字(もじ)は、書道やカリグラフィーという芸術になっている。実用的な面から言えば「読みづらい」かもしれないが、それらの芸術は、文字が表す意味を、音として認識される文字だけでなく、造形的なイメージや印象も使って、豊かに広げていく。
手話ポエム(詩)なども、ほんの少ししか見たことがないが、面白そうだと思う。
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