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【社会】歴史の寄り道 弥生~飛鳥①編

みなさん、こんにちは。LITのノスケです。今回は、「歴史の寄り道」シリーズの第一弾として弥生時代から飛鳥時代に起きた教科書にはあまり載らないことをお話していきます。


「歴史の寄り道」に込める思い

 みなさんは歴史が好きですか?
歴史の勉強がめちゃくちゃ好きだ!という人は多くないと感じます。歴史が好きな人が少ない原因は、
①歴史を勉強する意味が分からない
②誰が何をしたかしか習わず、面白くない
が、考えられます。
  私の考えですが、これらの根本には、「偉人たちが身近ではない」という原因があると思います。
  例えば、あなたの隣に住んでいる、おじちゃんが殿様だったらどうでしょう?
「あんなおじちゃんでも殿様になれるんだ」みたいなと噂話から、そのおじちゃんに興味を持つと思います。
  しかし、教科書だけでは歴史上の人物の実績や功績などに目が行ってしまい、人となりがわからないため、親近感がわきににくいから、歴史好きが生まれにくいと思います。
  歴史上の人物が「本当はどんな人だったのか」、「噂話」などから、その人の実績、功績をまとめ、人となりから知ってもらい、歴史に興味を持つきっかけになればいいなと思っています。

卑弥呼ってどんな人?

・卑弥呼って誰?

  卑弥呼は邪馬台国を治めていた女王で、皆さんも教科書で、一度は見たことがあるのではないか思います。卑弥呼は現代的に言うと副業で巫女をしており、銅鏡などの道具を使い、占いや呪術を行い、政治をしていました。

・実は、卑弥呼は〇〇だった!?

  占いや呪術で国を動かしたことは教科書でも書かれていると思います。しかし、卑弥呼には意外な一面があったのです。
  実は、卑弥呼は弟LOVE だったのです。まず、弟LOVEが止まらない卑弥呼は、弟としか会わなくなります。また、卑弥呼は結婚せず、弟に身のまわりの世話をさせます。このことから、卑弥呼は、占い好きで、禁断の恋とかに興味のある乙女だったかしれませんね。
  ちょこっとですが、身近に感じませんか?

・そんな卑弥呼は何をしたの?

  だいぶ、弟LOVEな卑弥呼が実績は、二つです。
①占いや呪術によって国を動かし、邪馬台国を作った
②魏(現在の中国)に使いを送り、親魏倭王の称号をもらった
(親魏倭王という難しそうですが、魏に親しくしてくれている倭(日本)の王というだけです。)    もしかすると、卑弥呼は、愛する弟(ついでに国民)が安心して暮らせる国を占いや呪術、魏との交流によって作ろうとした、いいお姉ちゃんだったのかもしれませんね。
  ちなみに卑弥呼が亡くなると、男性が王になり後継者になるのですが、国が荒れてしまい、卑弥呼の親戚である壱与(いよ)が王になり邪馬台国を統治していきました。愛の力は、偉大ですね!

空白の期間

  卑弥呼がなくなって次に出てくる歴史上の人物は推古天皇や聖徳太子です。しかし、この間は約300年程空いています。この間に日本にとって重大なことが数々起きます。しかし、当時の日本は起こったことを紙に残す文化がなかったので、この期間のことはわかりません。

  しかし、なぜこの期間より前の卑弥呼のことはわかるのでしょうか?

  それは魏(中国)が記録を取っていてくれたからです。しかし、卑弥呼の死後、魏は隣国の呉と蜀との戦い(いわゆる三國志の時代)になってしまい、日本の記録を取っている場合ではなくなってしまいました。
  そのため、中国の文献にも残らず、この期間に日本で何があったか、詳しいことはわからなのです。

推古天皇ってどんな人

・推古天皇って誰?

  推古天皇は日本で初めての女性の天皇で、甥の聖徳太子とともに、様々な改革を行った人です。

・実は推古天皇は〇〇だった

  こんな推古天皇にも意外な一面がありました。実は、推古天皇は、仕事ができる女社長やキャリアウーマンみたいな感じでした。
  聖徳太子が仕事ができるといった話を聞いたことがある人も多いと思いますが、聖徳太子を摂政という役目を任せたのはこの推古天皇です。
  蘇我氏などの有力な豪族が政治に口を出してくることがうっとうしかったのでしょうね。聖徳太子と協力して、天皇中心の政治を取り戻そうとしました。また、推古天皇は仏教の保護にも尽力し、仏教を保護する命令を出しました。推古天皇が仏教を保護したおかげで、飛鳥文化が生まれたといっても過言ではありません!

聖徳太子ってどんな人

・聖徳太子って誰?

  聖徳太子は推古天皇の摂政であり、推古天皇とともに天皇中心の政治を目指し様々な改革を行った人です。

・実は聖徳太子は〇〇だった!

  そんな天皇中心の政治を目指していた聖徳太子ですが、実は聖徳太子なんて人は存在しなかったんじゃないか?という噂があります。


聖徳太子の肖像画

出典 Wikisource 作者:聖徳太子
作者:聖徳太子 - Wikisource

 この聖徳太子の自画像は、聖徳太子がなくなってから、100年以上経過したのちに作られたものではないか?と言われています。そのように言われている理由は二つあります。

①この肖像画の聖徳太子の眉や冠の形が8世紀ごろに流行したものに似ている
②聖徳太子の髭の部分が筆質や筆圧から、付け足されたものなのではかという疑惑がある

 これらの理由から、この肖像画は8世紀ごろに、書かれたもので、聖徳太子の肖像画ではなかった可能性が高いですが、これだけでは、流行を先取りしてただけかもしれないですし、誰かのいたずらかもしれないので、聖徳太子が存在しなかったとは言えません。
  ではなぜ、聖徳太子は存在しなかったといわれているのでしょうか?簡単に言うと胡散臭いからです。
どこが胡散臭いかについて説明していきます。
「聖徳太子は一度に十人分の話を聞き、正確に答えて見せた。」←こんなことできるわけありません。2~3人なら可能かもしれませんが…

  また聖徳太子は天皇中心の政治を目指すうえで様々なことをしました。
・冠位十二階の制定
・十七条の憲法の制定
・法隆寺の建立
・遣隋使の派遣
  こんなにもすごいことを果たして一人の人間ができるのかも疑問です。これらのことから聖徳太子は存在しなかったんじゃないか?と言われています。

まとめ

今回もご覧いただきありがとうございます。今回は卑弥呼、推古天皇、聖徳太子の学校では教わらないような隠された一面を見ていきました。このようにみると、偉人達でもイメージとは違いおかしいところなどがあったと思います。
このように歴史を見ていくと、
「あんな変な奴がこんなすごいことしたんだ~」みたいな感じで、歴史への興味が出てくるのではないかと思います。次の「歴史の寄り道」では蘇我氏、中大兄皇子、中臣鎌足について意外な一面を一緒に見ていきたいと思います。
ぜひ次回もお楽しみに!

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