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【社会】歴史の寄り道 飛鳥②編

 みなさん、こんにちは、LITのノスケです。
今回は、前回の続きで「歴史の寄り道」シリーズの第二弾として推古天皇や聖徳太子が亡くなった後に出てきた偉人たちの意外な一面や素の部分を紹介していきます。

 前回の「歴史の寄り道」では、このシリーズに込める思いと卑弥呼、推古天皇、聖徳太子の意外な一面について話しました。前回の記事をまだお読みでいない方は、ぜひ以下のURLからお読みください!

【社会】歴史の寄り道 弥生~飛鳥①編|LIT-notes(Light up your TORCH)


蘇我馬子ってどんな人?

・蘇我馬子って誰?

 蘇我馬子は日本に仏教を広めた第一人者です。また、聖徳太子とも協力して、朝廷のために働きました。

・実は蘇我馬子は〇〇だった。

 仏教を広め、朝廷にも尽力した馬子でしたが、意外な一面がありました。実は、蘇我馬子は、ガキ大将だったのです。これから、そんな馬子のガキ大将エピソードを話していきます。

エピソード1 意見が合わない人をぼこぼこにする

 先程、蘇我氏は仏教を広めたという話をしましたが、仏教を広めるときに反対していた物部守屋という人がいました。守屋のことをうっとうしいと思った馬子はすぐに守屋と戦い、守屋をぼこぼこに倒します。(正確に話すと、この戦いで馬子は物部氏を滅ぼしました。)

エピソード2 天皇でさえも…

 物部氏というストッパーがいなくなったことで、蘇我氏は朝廷で様々なことに口を出せるようになりました。例えば、次の天皇に誰がなるかなどにも口を出せるようになります。馬子は崇峻天皇という人物を推薦し、天皇にしました。しかし、崇峻天皇と意見が合わなくなってくるとすぐに暗殺してしまいました。
ちなみに、この次に馬子が推薦して天皇になったのが推古天皇です。

 これら二つのエピソードから馬子はガキ大将だったといえます!
仏教を広めた偉人もこんなに子どもっぽかったなんて少し拍子抜けしてしまいますね!

さらに寄り道:馬子、蝦夷、入鹿について

 馬子には蝦夷という子どもと入鹿という孫がいました。この二人は馬子が築いた地位を悪用して生活をしていたのですが、中臣鎌足と中大兄皇子に暗殺されてしまいます。
 こんな運命を歩んだ蘇我氏ですが、皆さんは馬子、蝦夷、入鹿の名前で疑問に思うことはありませんか?

 まず、分かりやすい馬子と入鹿について考えていきましょう!
馬子と入鹿、日本人っぽくない名前ですね…何かおかしいと思いませんか?

馬子のと入鹿の鹿合わせると馬鹿(バカ)になりますね!

また、この当時、日本で朝廷に従っていない地域がありました。朝廷の偉い人達はその地域の人々を馬鹿にして蝦夷(えみし)と呼んでいました。蝦夷?なんか聞き覚えがありますね~…すみません、白々しかったですね。つまり蘇我氏は結構ひどい名前が付けられているということです。
 でも皆さん想像してください、自分の子どもにこんなひどい名前を付ける親なんていますか?そんな親はいません!!。ではなぜ、蘇我氏は3人ともこんなひどい名前なのでしょうか?
 この問いに対する私の回答は「歴史とは勝者の物語だから」です。おそらく、蘇我氏の3人には元のちゃんとした名前があったのではないかと思います。しかし、645年大化の改新(乙巳の変)にて、中大兄皇子と中臣鎌足によって倒された後、「こいつらは敗者だよ!」と後世に語り継ぐときにわかりやすいようにこんなひどい名前を付けたのではないかと考えます。
 「正義は必ず勝つ」なんてという言葉がありますが、歴史的に考えると、当たり前なことで、この話ように勝った方が正義になるということ歴史を深掘りすることで学ぶことができます。

中大兄皇子ってどんな人?

・中大兄皇子って誰?

 中大兄皇子は中臣鎌足と協力し、645年大化の改新を起こし、天皇中心の政治を取り戻しました。

・実は中大兄皇子は〇〇だった

 こんな中大兄皇子にもある一面がありました。
実は、中大兄皇子はゲームやアニメの主人公のような人でした。中大兄皇子は、推古天皇の次の天皇の子どもとして生まれます。幼少期の中大兄皇子には兄のような存在がいました。その兄のような人物は次の天皇になるのではないかと言われていました。しかし、蘇我入鹿に目をつけられてしまい暗殺されてしまいます。
 兄のような存在を殺された中大兄皇子はこう思ったことでしょう。
「あいつら(蘇我氏)、駆逐してやる…」
 蘇我氏への復讐を誓った中大兄皇子は仲間を集めます。そんな時に、現在の政治体制に疑問を持っていた中臣鎌足と出会い、一緒に蘇我入鹿、蝦夷を暗殺し、蘇我氏によってハチャメチャになっていた政治を立て直すため、政治の改革を行います。ちなみに、中大兄皇子が中臣鎌足と協力して蘇我氏を倒したことが大化の改新と理解している人も多いですが、これは間違いなので注意が必要です。実は、中大兄皇子が中臣鎌足と協力して蘇我氏を倒したことは乙巳の変と呼びます。大化の改新とはこの乙巳の変とその後の公地公民などの政治改革を含めて大化の改新と呼んでいるので注意してください。 
 また、大化の改新後も中大兄皇子は、百済(朝鮮の国の一つ)を助けるために戦うなど、主人公ムーブをしています。このことから、中大兄皇子は根っからの主人公体質だったといえます。

中臣鎌足ってどんな人?

・中臣鎌足ってどんな人

 中臣鎌足は蘇我氏の思うままに動かされている政治について危機感を持ち、中大兄王子と協力し、蘇我氏を倒しました。

・実は中臣鎌足は〇〇だった

 こんな勇敢な中臣鎌足にも意外な一面?がありました。実は、鎌足は意識高い系の一面がありました。鎌足は中大兄皇子と出会う前、役人として働いていました。別に位の高い役人ではありませんでした。先ほど、鎌足は蘇我氏によって動かされる政治について危機感を持っていたとお話ししました。
 意識高い系の鎌足はこう思います。
「俺がこの国の政治を変えてやるぜ!!!」
 そう思った鎌足は中大兄皇子に出会い、蘇我氏をたおしました。鎌足の意識が高くなければ、中大兄皇子と出会うことはなく、蘇我氏を倒せなかったと考えると、鎌足の意識が高かったおかげで、天皇中心の政治を取り戻せたといっても過言ではないのかもしれないですね!

さらに寄り道:大化の改新後の中臣鎌足

 大化の改新で大活躍をした鎌足は、その活躍が認められ、天皇から「藤原」の姓(苗字)を与えられます。鎌足はその後、何かをするわけではありませんが、その息子、藤原不比等は大宝律令(法律)を制定したり、自分の娘を天皇に嫁がせたりしました。このようなことをしていく中で、藤原氏は天皇からの信頼を得ていきます。そして平安時代に栄華を極めます。そう藤原道長、藤原頼通の時代です。つまり今後出てくる道長、頼通は鎌足の子孫ということになります。
 不比等によって飛鳥時代の後半から平安時代の中頃まで藤原氏が政治の実権を握ることになります。蘇我氏が政治の実権を握る時代が鎌足によって終わり、息子の不比等によってこれから藤原氏が政治の実権を握る時代になるなんてなんとも皮肉なことですね。

まとめ

 今回は蘇我馬子、中大兄皇子、中臣鎌足の意外な一面や人間性について話していきました。こう見ると、意外に人間味があるなという感じがしますね!今回はお読みいただきありがとうございました。次回は奈良時代から平安時代初期にかけて、聖武天皇、桓武天皇、などの人間性や意外な一面について話していきます。ぜひ次回もご覧ください!

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