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真夜中の逃避行


休日前夜。

無条件に心地のよい、この響き。

それが“嬉しいもの”であることについては、今も昔も変わりはない。

しかしながら、訳もなくわくわくするような、まるで休日前夜のその時間にはちょっとした魔法がかけられているような、そんな非日常的な感覚というものは、随分前にどこかに忘れてきてしまった気がしている。

今はただひたすらに、身体と心を休める日としての休日を、待ち望んでいるだけのような気がしている。


現実ばかりと向き合う日々に、身体も心も疲れていた。

ほんの少しだけ息抜きを、と思い、久しぶりに夜道に車を走らせていると、カーステレオからCorinne  Bailey  Raeが流れてきた。

その瞬間、車内に過去の空気が流れ始めた。



社会人になりまもない頃は、金曜日の夜を楽しみに仕事をしていた。

何か決まった約束があるわけではない。

ただ、1週間仕事に励んだ自分や仲間を労る時間としてのいわゆる“華の金曜日”を謳歌することで、社会人としての一歩を歩み始めた自分に少しばかり浸っていたのかもしれない。


そんな華の金曜日であるが、私はお酒を嗜みたい、という気持ちを抑えていた。

それにはもちろん、理由がある。


時計の短針が10時を教える頃。

今からどうかな。

前触れもなく忘れた頃に、しかしながら定期的に送られてくる一行。

大丈夫。これから行くね。


シンプルなやりとりだけを交わすと、車のキーとスマートフォン、お財布だけを手に、エンジンを回す。

そして、いつもの場所へと車を滑らせる。


到着すると、彼はいつも通りガードレールに腰掛け、こちらに向かって左手を挙げた。右手にはコンビニの袋をぶら下げている。

彼が助手席に乗り込み、シートベルトを締めるのを確認し、車を再び走らせる。


彼は袋からおもむろにペットボトルのレモンティーを取り出し、蓋を一度開封してから私に差し出す。

別にどちらかが決めたことではないが、助手席に座る方が飲み物を用意することが、私たちのお決まりのルールとなっていた。

お礼を言い受け取ると、車は高速道路へ誘われる。


煌びやかなビルの間を抜け、神奈川方面へ。

高速道路を降りると、おもむろに屋根を開放し、外の空気を味わった。

海の香りがした。



私たちのドライブでは、もう一つ、誰が決めたでもないルールがあった。

それは、目的地を決めないこと。

ただただあてもなく、自分の思うように車を走らせるだけ。

そのため、カーナビも使わなかった。

車内を流れるのは、彼と私の声と、エンジン音と、助手席の彼が流すBGMだけだった。


彼と私は音楽の趣味も近すぎず遠すぎず。彼の流す音楽は知らないものもあったが、そのどれもが、私にとっても心地のよいものだった。

Corinne Bailey Raeも、彼のプレイリストによく顔を覗かせていた。

時には静かに音楽に浸りながら、時には2人で歌い合い、リズムに乗りながら。そんな風にして気ままに車内の時間を楽しんだ。


途中、海が見えれば、海を眺めるために、星が輝いていれば、流れ星を探すために、度々車を停車させ、何も考えずにぼんやりとする時間を楽しんだ。


たまにどちらからともなく口を開き、仕事のこと、恋愛のこと、将来のこと、過去のこと。どうでもよい話から、少し真剣な話まで共有した。

そして、他の人には話さないような内容も、打ち明け、受け止めた。

非日常的なその空間、まるでこの世界には2人しかいないのではないかとさえ思えるその時間が、そうさせたのかもしれない。


そのまま車を走らせていると、県境が見えてきた。静岡県だ。

ああ、魔法が解ける時間だ。今日のドライブもここでおしまい。


その理由は、最後の暗黙のルール。走行範囲は隣の県まで。


ここで終わりだね、そんな風に頷き合うと、私たちは来た道を引き返し、現実へと帰ってゆく。


家に帰り、ぱたりとベッドに倒れ込む。

次のドライブは、彼の車だ。

BGMを探しておこう。

薄れゆく意識のなか、そんなことを考えながら眠りに落ちた。




彼も私も見事に現実社会に組み込まれ、現在はそれぞれが家庭をもっている。

現実と向き合ってばかりの毎日を過ごしていると、たまに、あの非日常的な空間を恋しく思う私がいる。

叶うことはないとわかっているが、またいつか、真夜中の逃避行を楽しめる日がくることを願い、今日もまた帰途につく。



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