さと

54歳でADHD、自閉と診断された私の反省と思い当たる点、そしてこれからのことや、今を…

さと

54歳でADHD、自閉と診断された私の反省と思い当たる点、そしてこれからのことや、今を徒然に書いていきたいと思います。

最近の記事

濡れたパンツを入れたの だーれだ⁉️

今の時代では考えられないことだろう。50年前の保育所の話である。 プールなんて立派な設備もない木造校舎。大きなスノコが並べてある下駄箱、大きな脚立がなければ届かないような天井に蛍光灯という、古い建物が保育所だった。 夏の楽しみといえば、大きなビニールプールに入って、先生が外からホースで水をかけてくれること。その時の服装は、男女ともパンツ一丁❗️ 今なら大問題である。 その日に履いて行ったパンツで水浴びをして、 あらかじめ綺麗に洗ったパンツをしっかりと記名してカゴに入れて

    • 病気なんだけど?

      弟がインフルエンザになったのは、確か私が年長さんの時か小1の時だったと思う。家族みんなで枕元に正座をして、往診の先生が聴診器を当てるのをじっと見ていた。先生が帰るのを、母も祖母も仰々しくお見送りをし、私は、そこに座り続けているのもなんだかで席を外した覚えがある。 その程度なんだけど、かなり、たいそうな扱いを弟は受けていた。 保育所を通所拒否しても許されていたし、私は「おなかいたい」と言っても「ちょっとの事は我慢しなさい」と行かされていた。 忘れもしない小学4年の時の夏休み。

      • 我が家の当然

        誰にでも、その家流のやり方があるように、我が家にもそれがいくつもあった。 まずは【母は不機嫌】 共働きだった母は5時半頃、家に帰ってきた。 その途端に不機嫌になるのだ。ついさっきまで近所の人とにこやかに話していても、家に帰ると眉間に皺を寄せたような顔で、冷たい言葉しか出てこない。 テストでいい点数を取るのは当たり前。手伝いも当たり前。更にもっと機嫌の悪い時に、手伝いしようものなら 「そうすれば機嫌が良くなると思ってるんでしょ」という言葉を投げられる。 同居の祖母とは実の親子

        • ピアノ習ってみない?

          小学一年生に上がる春のことだった。つくし取りにでかけた近所の畦道で、知り合いに会ったのか、母は誰かと話を始めた。私は聞き耳を立てながら、にょきにょき生えてるつくしを取っていると、その声が聞こえてきたのである。 それは、明らかに私に向けられた言葉だった。逆光で眩しいけれど、声の印象は柔らかな人だった。その隣で母は、困ったようなどうしようというような顔をしていた。そこだけが神経が張り詰めていた。「これは『良い子』のお返事をしなければならない」そう思った私は、「いいよ」だったか「

        濡れたパンツを入れたの だーれだ⁉️

          わからないけどいやなの

          2年生の担任はとても可愛らしい金城先生だった。みんなが「きんぎょ先生」と呼ぶに相応しい愛らしさと笑うと下がる目尻がとても愛嬌のある先生で、私も一目で好きになった。 あれは冬だったと思う。なんの時間だか、みんなで伝言ゲームをすることになった。先生が、1番前の席の子に何かを伝えて、2番目、3番目…と伝えていくゲームをした。 その時に先生がその日休んでる子を名指しで 「◯君はぶちゅぶちゅうんこで学校を休みました」 と伝言したのである。 今になれば、それがどんないけないことか

          わからないけどいやなの

          やり方はスケープゴート②

          ある時、いつものように電話応対をしたので、メモをし、帰社した支店長に伝えました。すると「いちいち言わなくって、おいとけばわかる‼️」と怒鳴られたのです。それ以降、口頭で伝えるのは辞めました。 ところが、ある一本の電話…それだけは、特別な存在だったそうで、伝えなければならないお客様だったようなのです。そんな事、入社して半年の社員にはわかりません。 そこから標的は私に変わりました。 電話に出るな 接客するな 他の人が忙しくしていても、コピー一枚、私に頼むこともなくなりました。

          やり方はスケープゴート②

          やり方はスケープゴート①

          さて、前述の会社は、やはり倒産してしまいました。計画倒産というのか、売上の良い支店を買ってくれるところがあったので、「私以外の全員」が、その会社に移籍できました。 私が移籍できなかった理由はわかりません。とにかく、先方から断られたということで、倒産1週間前に急遽、言われたので、解雇予告手当を支給してもらいました。 そして、失業者となった私は、ありとあらゆるネットの求人情報に登録し、ハローワークに毎週通いました。なんせ、我が家は、旦那の収入が少なく、私と二本柱で成り立っていた

          やり方はスケープゴート①

          適応障害になった経緯

          私が鬱になった経緯を軽く書いておこう。 最初は学習塾の本社に勤めていた時。もう倒産するんじゃ無いかと傍目にもわかる状態の時に、以前、セクハラ、ストーカーをしてきた人を再雇用すると決まった時に適応障害を発症。 その人が在職中は、深夜に長々としたメールを毎日のように送られ、帰りは一緒に帰ろうと追いかけられ、朝は駅で待ち伏せされた。子どもの同級生の父親だったので、無碍にできなかったのが裏目に出たらしい。決めては 「子どもは作らないんですか?私はもうできないようにしてありますから

          適応障害になった経緯

          来られて迷惑

          新しい支店で総務課の仕事。既に2人総務課の人員がいるので、どのように仕事の割り振りをされるのかが、不安だった。 その予感は的中した。 月に一度、午前中に終わる仕事を振られただけで、後は全く仕事を回してもらえない。2人は忙しく仕事をしている。3ヶ月待って6月に直属の上長の支店長に時間をもらい、お伺いを立てた。 「私をここに配属されたのは、どのようなおかんがえとかビジョンとかあってのことですか?」 答えは意外なものだった。 「知らん。人事が勝手にやったから」 なんと無

          来られて迷惑

          突然、仕事が干された

          40代前半に長く勤めた会社が倒産。大した資格もない事務員の私に働けるところはなかなか無かった。ネットの求人にはあちこち登録したし、週に何度もハローワークに通った。 ある月は70通も応募して全滅だった。年齢的にも難しいところがあったのだろう。 次に決まったのは半年後だった。正社員として迎えてくれた会社だったが、この会社で鬱病を発症し、辞めることになる。この話は後日。 その次に勤めた会社は、マンガに出てくるようなお局様が罵声を飛ばす会社だった。ほぼ同時期に入社した女性は、半年

          突然、仕事が干された

          恵子ちゃんの誕生日②

          ②由美ちゃんが呼んでたから 部屋遊びにも飽きた私たちは公園に遊びに行った。広い公園だが遊具は錆びかかっていて、乗り捨てられたバスがあり、それがいちばんの遊び場だった。そこで、たぶん、鬼ごっこなどのたわいない遊びをしてたと思う。 「さとちゃん❗️」 呼ばれて振り向くと、何やらカッコいい服を着た由美ちゃんがいた。そういえば、由美ちゃんは「ガールスカウト」とやらがあって、お誕生日会には来られないってみんなが言ってたのを思い出した。 「由美ちゃーん‼️」 当時、由美ちゃんと

          恵子ちゃんの誕生日②

          恵子ちゃんの誕生日①

          ①欲しかった銀のキョロちゃん編 小学生になるとお誕生日会などと洒落たものをやるようになる。片田舎で、農家がほとんどの私の集落にも、恵子ちゃんと言う子が引っ越してきて、お誕生日会が開かれた。 新築の綺麗で広いお家に招かれて、母が買ってくれた何かしらのプレゼントを持って行ったと思う。 トランプなどのゲームをして、お昼をご馳走になり、おやつまで振舞われた。その中にチョコボールがあった。金や銀のキョロちゃんが出れば、おもちゃの缶詰がもらえると言う、あのチョコボール。 そこで、

          恵子ちゃんの誕生日①

          絶望した先生に救われた話

          1年生から5年生までずっと女の先生だった。男の先生は、厳しいというイメージがあったし、なんといっても私の苦手なスポーツを何かとするという、勝手なイメージを抱いていた。 6年生になって「名前を呼ばれなかった人はみんな3組、村田先生です」と言われた時、多分、私は絶望的な顔をしていただろう。 男の先生だ。 新卒2年目で噂もあまり聞かない、想像のつかない先生。でも、夏には真っ黒に日焼けしてるから何かスポーツに熱心なんだろう。それに頬に漫画に出てくるヤクザのようなキズがある。当時は

          絶望した先生に救われた話

          注文の多い料理店がわからない

          発達障害だと言う言葉もまだ無いような時代。おとなしめで、真面目、あまり融通が効かない私は、それでも何とか、普通学級で過ごしていた。 当時のことを幼馴染に聞いたら「気づいたら1人でいる」印象があったらしい。 そのとおり、誰かと遊んでいても、大勢になってくると、自分の居場所がわからなくなって、その仲間の輪からぽいっと捨てられたような気持ちになっていた。 だから、授業の合間の休憩時間は、図書館や学級文庫の本を読んでいることが多かった。 そんな時、4年生の頃だったろう…に国語の教科

          注文の多い料理店がわからない

          寿子ちゃんを守りたかった

          小学校校区内に養護施設があった。事情があって親と住めない、親のいない子が住んでいると聞いたことがある。 4年生の時、寿子ちゃんという、ボーイッシュな髪型の子がそこに入って、同じクラスに転入してきた。なんとなく気が合った私たちは、よく一緒に遊んだ。授業の時の「誰かと組んで」という先生からの指示も怖くなかった。だって、寿子ちゃんといつも組んでいたから。 そうして、遊び友達や、先生の指示に悩むことがなく過ごしていた。多分、肩の荷を下ろして過ごしていた「短い春」だったのだろうと思

          寿子ちゃんを守りたかった

          先生という理想が崩れた日

          という事で、私がそこそこおとなしい部類の子どもであった事はわかっていただけたと思う。6年生になって、ある先生に出逢い、先生という理想像にますますハマっていったのだけど、それはさておき。 小学校を卒業して中学に入るまでは、長い春休みがある。友達と会うこともあり、その中で、小学校の先生に会いに行こうという話になった。 小学校も春休みの時期なのでどの先生がいるが分からないが、そこは考えなしの子どもである。10人も集まれば勢いで向かってしまう。 行ってみると河村先生がいた。5年

          先生という理想が崩れた日