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我が家の当然

誰にでも、その家流のやり方があるように、我が家にもそれがいくつもあった。

まずは【母は不機嫌】
共働きだった母は5時半頃、家に帰ってきた。
その途端に不機嫌になるのだ。ついさっきまで近所の人とにこやかに話していても、家に帰ると眉間に皺を寄せたような顔で、冷たい言葉しか出てこない。
テストでいい点数を取るのは当たり前。手伝いも当たり前。更にもっと機嫌の悪い時に、手伝いしようものなら
「そうすれば機嫌が良くなると思ってるんでしょ」という言葉を投げられる。
同居の祖母とは実の親子だけれど、祖母にお小遣いでも貰おうものなら、烈火の如く怒って、
「もう、これから服も何にも買ってやらん‼️全部、お婆さんにやってもらえばいいわ‼️」と怒鳴って背中を向けてしまう。

なので【実の親子でも母と祖母は仲が悪い】という法則があった。祖母はとても可愛がってくれた。でも、それは、母の気を引くためだった。
こっそりと「お母さんには内緒だよ」となにかをくれても母が帰ってくると
「さとさ(私のこと)にやってやったでな」とすぐ言ってしまう。と母が怒ると言う無限ループに陥る。

夕方5時半から寝るまでは、毎日、顔色を見ながら過ごす時間だった。

【祖母はトラブルメーカー】
悪い人ではない。けれど多分、短絡的だったんだろう。近所の人が母に泣きながら「何でこんな事を言われなあかんの」と訴えてきているのを見たことがある。
その上、母は5人姉妹。1人は私が生まれる前に早逝されて知らないが、跡取り娘の母の事を、祖母から姉妹が聞けば、やいのやいのとうるさいので、叔母が訪ねてきたり、電話があった後の母は、プンスカプンスカしていてそれこそ煙がでているようだった。もちろん、祖母とのバトルも凄まじいものだった。

【父はおとなしい】
養子だったせいか、父はおとなしかった。母と祖母が喧嘩を始めてもだまーって黙々と食事をして、さっさと部屋に行ってしまう人だった。助けてもくれない、空気のようだった。
一度だけ、部屋に行く父について行ったら
「女は、ああだからいかん。カッカッしておさまらん」と吐いて捨てるように言った。私は何だか悪い事をしたような気持ちになって、部屋を出ていった。熊本生まれの父は芯が通った人でその後は、仕事に没頭していった。家から逃げたかったんかな…と子どもながらに思っていた。

【母と娘は相容れない】
祖母と母が常にこんな状態で、私もそんなに出来が良い子では無かったから、何かと重箱の隅を突くには好都合なネタをたくさんもっていたから、四六時中叱られていた。
土日に家にいるのも叱られた。遊びに行きなさいと。行かないでいると
「あんたみたいな“ヘボ(腰抜けの様な意味)”、だーれも誘ってくれんわなー」と揶揄してくる。
だから私は靴を隠して、押し入れの中で隠れて昼寝をするようになった。
ある時、
「あんたの笑い方、変。気持ち悪い」と母に言われた。以来、声を出して笑えなくなった。どう笑ってもニセモノみたいで。だから、長年の付き合いの友達も、私が声を出して笑うと、目を丸くして「珍しいね」って50年以上の付き合いなのに驚く。

たぶん、私は
アダルトチルドレンで、
精神的に虐待されて育ったのだと思う。その上、うつ病まで発症し、よくよく調べてみたら、ADHDに
ASDだったという…
なんか、いろんなもののオンパレードだなぁと、今を何とか『普通』に生きてる不思議を思う。

この法則も、私が嫁ぎ、祖母が亡くなり、母がパーキンソン病で自由がきかなくなった今は、見る影もなく、誰も想像がつかないだろう。それについては、また今度。

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