見出し画像

絶望した先生に救われた話

1年生から5年生までずっと女の先生だった。男の先生は、厳しいというイメージがあったし、なんといっても私の苦手なスポーツを何かとするという、勝手なイメージを抱いていた。

6年生になって「名前を呼ばれなかった人はみんな3組、村田先生です」と言われた時、多分、私は絶望的な顔をしていただろう。

男の先生だ。
新卒2年目で噂もあまり聞かない、想像のつかない先生。でも、夏には真っ黒に日焼けしてるから何かスポーツに熱心なんだろう。それに頬に漫画に出てくるヤクザのようなキズがある。当時は管理教育真っ只中。体罰は普通の時代。どんなに体罰されるんだろうとゾッとしていた。

村田先生は、毎日、学級通信を書いてきた。そこにクラスが決まって「絶望的な顔をした子」がいたと書かれていたが私のことだっただろう。見られていたかとますます怖くなった。

村田先生の専門は社会。社会の1番最初の授業で
「木を降りたサルが人間になった」
と黒板の真ん中に書いた。もし、無人島に行く時、何か一つ持っていけるとすれば何を持っていくか?と、問いかけたのである。ライターやマッチ、釣り道具など様々なユニークな答えが出てきてその理由を、先生はニコニコして聞いていた。私は手を挙げるような子ではなかったのでお蔵入りとなったのだが、先生は、何が正解で何が不正解かということは言わなかった。後日、学級通信で、どの答えも正解でどの答えも間違っているというようなことを書いていたような記憶がうっすらある。
ちなみに私は大きめのナイフを持っていくと思っていた。

村田先生の学級文庫は、灰谷健次郎と宮城まり子が満載だった。私はそれにのめり込み、そこで得た考え方は今の私の根幹になっている。

さて、本題の村田先生は、最初は怯えていた私も、体罰はしないし、女の先生と変わりないとわかってきてほっとしていた。

ある時、先生が明らかに不機嫌な時があった。でも当たり散らすわけじゃなく、特に生徒が迷惑を被ったことはなかった。
翌日の学級通信。先生からの謝罪がつらつらと述べられていた。「ごめんなさい」と、生徒に頭を下げる先生は初めてだった。この時、私の村田先生を見る目が変わった。

先生と生徒とは毎日交換日記をしていた。40人の生徒の日記を朝提出して帰りまでに返事を時にはハンコだけの時もあったが、長い時にはノート1ページ返事を書いてくれた。どの子にも向き合ってくれる信用できる大人に初めて私は出会った気がした。

1番最後の学級通信は1人に一言ずつ言葉をかいてくれた。

「さとさんは心の中に素敵なものをたくさん持っています。これからはそれを表に出していくときじゃないかな」

これが最後に先生がくれた言葉です。この言葉のせいで、試行錯誤して、痛い思いもいっぱいするんだけど、その話はまた後日。

でも、私は自己肯定感がとても低かったのでこの言葉は一生忘れられないものとなった。何かにつけて思い出し、40代に鬱になるのだけど、死なないですんだこと、思いとどまったのはこの言葉があったおかげだと思う。

のちに校長先生になられたと風の噂に聞いた。先生の理想とする学校運営ができていてほしいなと遠くの空の下から祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?