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雑感記録(80)

【残響的MOROHA】


唐突な話だが、僕は仕事の行き帰りには必ず音楽を聞いている。最近Bluetoothの良いイヤホンを買ったので、それを使うのが楽しみで聞いている。音楽を聞くことが目的なのか、そのイヤホンを使うことが目的なのかどちらか分からない状況である。しかし、こんな些細なことにまで目的意識を持っていたら疲弊してしまう。ただ、単調な毎日に音楽が彩を与えてくれていることは紛れもない事実である。

はてさて、僕は以前の記録でHipHopにご執心であるということを僕の音楽遍歴を辿りながら書いた。

今も相も変わらずHipHopを毎日聞きながら通勤している。ここ最近はチルい曲を自分の中でディグっておりChop The Onionというアーティストのトラックが非常に心地よく集中して聞いている。ちょうど昨日の記録の最後に前嶋貫太郎の『抱きしめて眠る』を載せたのだがこれもChop The Onionのトラックであり非常に心地よい。

また以前の記録でも残したが、『ひとり feat.15MUS』も物凄く好きでこれもずっとリピートして聞いている。歌詞も非常に良いうえにトラックもまた最高なのだ。

そしてこれまた最近、MOROHAが新曲を発表した。これを聞いた時に衝撃が走った。なんだこの曲は!?と良い意味で驚いた。MOROHAの曲は聞いてもらうとよく分かるのだが、メッセージ性というのか?そういったものが激しくて苦しくなることが少なくはないのだが、しかしこの新曲は何というか不思議な感じがしたのだ。これまた以下にリンクを貼るので聞いてみて欲しい。


しかし、何故だろう。不思議なものでMOROHAは聞いていると疲れてしまうから一通り聞き終えたあとしばらく距離を置くのだが、戻ってきてしまう。そういった魅力がMOROHAにはある。この源泉を紐解いてみようとMOROHAを聞きこんでいる。何故こうも引き込まれるのか。

僕なりに考えてみるのだが、中々いい表現というか、そういったものが思いつかない。頑張って表現してみると、MOROHAには他のアーティストにはない現実の極地がそこに存在していること。そして単純に演奏の技術これらに尽きるのではないだろうかと考えている。

演奏の技術に関しては僕は音楽に詳しい訳ではないから、具体的にどこがどう良いということは語れない。だけれども素人でも分かる言葉と音の一体感というのは他の曲にはない唯一無二な感じがするのだ。

これは何度も書いていることだが、ラップは言葉の音を駆使したものであり、言葉の音を信じる人たちの飽くなき探求心の賜物であると僕は少なくとも思っている。簡単に言えば、韻を踏みつつ意味も合わせ、整合性を持たせたストーリーを組み立てていくその点に魅力がある訳だ。

しかし、これが難しいところで韻を踏むという技術に固執してしまえば物語性というか音としては愉しいのだけれどもそれは単純な"音"のみの世界感である訳で。音だけを合わせるなら、韻を踏むだけならその曲で通して言いたいことなんてのは何でも良くなってしまう。つまりメッセージ性というかそのアーティストの固有性はただの言葉のチョイスだけの問題になり、そのバックグラウンド、言葉の背景にあるものは意味を持たなくなる。端的に言えば「空のパロール」の極地である。

例えば、この曲なんかは本当に音だけ合わせに言ってるんだなと感じる。

勿論、これはこれで心地いいという観点からすればいい作品であるとは思う。それに言葉自体に意味を持たせない何というか反抗心すら感じとれてしまう。ある意味で挑戦的というか、言葉そのものに対してではなく、言葉の音にフォーカスした作品である訳で。だからと言ってこの作品が別に悪いとかそういうことを言いたい訳ではない。こういう作品もあっていいと思う。

というより、むしろこういった作品の方が言葉そのものを疑うという意味では面白いのかもしれない。実は言葉にはさして意味はなく、言葉は音として道具としてあるんだよと考えている感が新鮮である。以前の記録でも書いたが、人間は言葉で何でもかんでも伝達できる、ある種の言葉に対する至高性を感じている訳だがそこを挑発するようなところがまた面白い。純粋な音楽としての言葉と考えるならこちらの方が良いのかもしれない。

とはいえ、やはり言葉を使って生活している我々にとって「言葉には必ず意味が含蓄されている」と言葉をどこか神格化しているから、聞く側としてはそこに意味を求めてしまいがちだ。僕もご多聞に洩れずそういった人間であり、歌詞に言葉に何かしらの意味を求めてしまいたくなる。

そういった意味でMOROHAの曲は他愛ない話(=空のパロール)な訳なのだが、曲全体の言葉が音との整合性を保ち尚且つ曲全体のストーリーとも整合性を保つ。曲全体が1つの意味として眼前に現出してくる。つまり、曲全体そのものが言葉なのだ。言葉の連なりとしての曲ではなく、曲のものが言葉として現れるのである。


そうして何よりMOROHAの凄いところは現実の極地であること。これに尽きる訳だ。まずは聞いてもらった方がいいだろう。

僕はMOROHAの中ではこれが結構好きなのだ。この曲はギターの音色もさることながら、歌詞が凄く良い。何より僕らの生活に近しいことにある。これは以前の記録でも触れたことだ。その時は僕の友人の曲とAnalogfishを引き合いに出した。

ただMOROHAの場合は徹頭徹尾、生活感溢れる歌詞なのだ。ファンタジックな歌詞でもないし、言葉を煌びやかにしている訳でもない。何というか泥を塗りたくった言葉の数々。これに僕は心打たれる。

さらに言えば、現実の良さ悪さ全てに向き合って紡ぎ出される言葉の数々にやられる。何というか人間味あふれる生の言葉という感じなのだ。ストーリー的には大体がMOROHAの経験が殆どなのだろう。普遍性がある内容なのだけれども、そこがより現実味を増している。なんだろうな…うまい言葉が見当たらないのだけれどもMOROHAの言葉には現実と向き合わざるを得ない、つまり充溢したパロールそのものなのだ。

僕らは現実社会に生きてきて、辛いことも良いことも色々なことを経験する。それでもそこから目を背ける瞬間というのは数多くあるように思う。いや、目を背けるというのは妥当な表現ではないな。忙殺される日々の中で見落としてしまう現実という表現がいいのだろう。そういったことを極限まで突き詰めていくとMOROHAの歌詞になる。僕はそう感じている。

僕らが見落としている現実に真っ向から言葉で立ち向かう。言葉という音と道具を利用してその現実と向き合わせてくれる。そういった意味でMOROHAの歌詞はやはり現実の極地であると考えてしまう。ここがMOROHAの良さでもある。MOROHAを聞くと疲れてしまうのはこういったこともあるだろう。しかし、それでも定期的に聞きたくなるのは僕が見落としてきた現実を再確認するという意味合いも含んでいるのだろうと感じられる。


MOROHAの曲は残響的だ。聞いた後も僕らの生活そして現実に響き続ける。だからこそ僕にはMOROHAが必要である。これは大げさな表現でも何でもなく、本当にそう思う。

今日も今日とてMOROHAを聞いて自分の見落とした現実と向き合う。ぜひオススメなので聞いてみて欲しい。

よしなに。


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