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雑感記録(67)

【思うまま書きたくなった1】


ただ思うままに書きたくなった。何にもトピックもないのだけれども、こういう日もたまにあっていいのではないかとも思う。

書きたいことがある。それはそれでいいことだ。でも、書けない時にこそこうして書きなぐることで生まれてくる何かというものも僕は信じて疑わない。「何もない所から書き始める」ことで見えてくる何かがあるはずだと。それは、言葉でうまく表現出来なくても構わない。どんな拙い文章でも構わない。ただ、その「何か」を掴もうとあがくことに意味があると僕は考えている。

以前、保坂和志の『「30歳までなんか生きるな」と思っていた』を読んで、保坂和志自身「自分にとって書くことは考えることである」というような趣旨のことを書いていたように思う。僕もそれは非常によく分かる。noteやInstagramを始めて文章を書くようになってから非常にそれがよく分かる。


「何かを文章にして残したい」「読まれるような文章を書きたい」と思って書く文章は大抵つまらないものが多い。それは自分自身で身に染みてよく分かる。ある種のそういった言葉に対する邪な感情で以てして書こうとするときは筆が、タイピングが思うように乗らない。

「自分の思考を固めたい」「ふわふわとしているものを言葉で掴む」という趣旨で書く文章は自然と手が動く。何とも不思議なものである。しかし、これは当然の帰結のようなものでもあるだろう。

言葉は伝達するための手段であると昔、誰だかに言われた記憶が定かではないがある。勿論、伝達するための手段であることは十分承知の上ではあるが、そういう考えを持っていると言語の構造に僕ら自身が操られてしまっている感じがしてならないと最近では思うようになった。

言葉に自由を!というやつは馬鹿だ。そもそも言葉を使っている時点で不自由であり、自由なのではない。究極言ってしまえば、この世に生を受けた瞬間から僕らは自由を奪われるのだ。誰に?周囲のあらゆるものからだ。言葉を覚えた途端、僕らの不自由さは一気に増してくる。

そうして成長していく中で不自由の中に自由を見つけるのが上手くなっていく。ただそれだけに過ぎないのではないだろうか。こうして僕は自由に書いている訳だが、果たしてこれは自由なのか?本当に自由ならそもそも書くことすら不要なのではないだろうか。もし本当に自由になりたいのなら、言語を捨て去ることから始めるのが良いのではないだろうか。あるいはこの世に生を受けないことで何も感じないようにするべきなのではないだろうか。


事あるごとに小説家や詩人と呼ばれる人たちは「言語の自由度」なるものを求め必死に書いている(かどうかは定かではないが、そういうことを考えている作家は少なくともいるだろう)。しかし、最近僕はそれが滑稽に思えて仕方がない。いや、厳密に言えばそれを承知したうえでやってるか、やっていないかの差異によるものではないだろうか。それを自覚せずやっているのとやっていないのでは言葉への向き合い方がことなると僕には思われて仕方がない。

最近、僕は今まで忌み嫌っていた大衆小説にチャレンジした。有川浩の『阪急電車』とかいう作品を読んだ。正直、あまり面白さを感じなかった。言葉で「説明」されている文章ばかりで、何だか言葉のダイナミックな部分を悉く殺しているような気がしてならなかった。

僕は読んでいて感じたことがある。これは以前の記録でも書いたのだが「あまりにも大衆に迎合している」という点である。それはそれで構わないと思うが、しかしそれでは面白さもへったくれもない。なんだろうな、つまり読まれることが至上命題のような形で屹立していて、如何に広い層に読んでもらえるかという点があまりにもあからさま過ぎるのである。

勿論、これはこれで否定はしない。これで飯を食ってるんだ。その人にとっては生きるための「手段」として必要なのだから僕が偉そうに言えたことではないだろう。「手段」?自分で表現して腸痛いわ。と言いつつも、そうだ、こういった大衆向けの小説というのはある意味でプロレタリア文学の下位互換とでも表現するのが妥当ではなかろうか。

彼らは「言葉で社会を変えてやる」という野心の元書いている(と僕にはそう思える)。この当時はまだ文学というものが力を持っていた時代であり、それなりに社会に対して幅を利かせていたことも事実だ。言葉を社会変革のために利用しようとありとあらゆる作品を書いてきた訳なのだ。

大衆向けの小説は、社会を変革させることが目的ではなく、みんなを愉しませることが目的になっている(と僕には思われて仕方がない)。そういう意味では同じなのかもしれない。しかし、小説というのは元々ブルジョアジーの文化圏の産物であり、むしろプロレタリア文学の方が道を逸れてしまっている感があるとも言えなくはない。

ただ、だとしても僕らの考える余地を奪うことに関しては許せない。いや、それはそれでいいのかもしれないが、少なくとも僕は物足りなく感じてしまう。難しいところだ。


1つ言えることは言葉への執着、そういった作品の方が余程面白い。これまた最近、柳美里の『JR上野駅公園口』を読み始めた。これが非常に僕の琴線に触れた。作品の内容もさることながら、言葉の表現1つ1つ取ってみても非常にシビレる作品であるように思う。

とりわけ僕が気に入っているのは山の手線の電車が駅に止まる音を言葉で表現している場面だ。これが非常にいいなと思った。音を言葉で表現することは非常に難しい。音というのは聞く人に取って違うだろうし、言葉で、文字でそれを表現しようとするその心意気に僕は思わず関心してしまった。

恐らくだけれども、電車が到着する音を簡単に表現しようと思えば出来るはずだ。というよりも、電車なんかアナウンスの内容を言葉で表せば「あ、電車が着いたんだな」ということは容易に理解できる訳だ。そこを敢えてアナウンスの言葉に頼る訳でもなしに、リアルな音で表現している、いやしようとしている所に僕は言葉のダイナミズムさを感じ取ったのだ。

僕は「リアル」という言葉を使用した。リアリズムを考えるとき、僕は真っ先に中平卓馬を思い出す。加えてリカルドゥーもだ。これは以前の記事で書き残してあるので、以下の記事を参照されたい。

真のリアリズム……。概念を破壊し新たな姿をそこに見出させること。僕はこの『JR上野駅公園口』の箇所を読んでそれを感じざるを得なかった。リアリズム、現実主義…。崩壊の先に見える現実主義である。


形式と内容。これは詩の世界に於いてかなり重要視されている感がある。どちらがアプリオリに存在するかということ。大学の時に萩原朔太郎とか横光利一そして谷崎潤一郎あたりを読んで考えたことがある。

谷崎は芥川との議論?なのか?雑誌を通して「お前の考えには誤りがある」的な感じで始まった所謂「小説の筋論争」なるものがある訳だが、僕は詩的精神なんかより断然、谷崎の方を支持したい人間である。1つでも欠けてしまったら成立することのないもの=構造的美観という訳だが、その通りであるなと思う。詳細を知りたい人は講談社文芸文庫でおおよそは掴めると思うのでそちらを読んで頂くことをオススメする。

しかし、彼らは小説を書くときにこんなことを実際に考えて書くものなのだろうか。少なくとも自身の描く登場人物に陶酔し「ああ、この主人公は不憫だ」とか、所謂国語の「気持ち問題」と言われる悪問のようなことは考えていないだろう。

このぐらいのことを考えている作家の方が言葉のダイナミズムが感じられて僕は面白く感じる。これは形式か内容かというところではなく…。なんだろうな…「形式を突き詰めて行ったら、気が付いたら内容に関係しちゃった。」という感じなのだろうか。僕は内容よりも形式に惹かれる傾向にどうやらあるらしいことが判明する。


そういえば、僕はここ数日アナログフィッシュの『Nightfever』をヘビロテしている。毎朝の通勤時間、帰宅時間。僕は感傷に浸る。

10年前もそんなこと言っていた気がする
20年前もそんなこと言っていた気がする
それなりになにか手に入れたつもりだったけど
それだってただの勘違いかもしれない
CPUは誰も愛さない
確率は今を知らない
時間は待ってはくれない
他人は変わってはくれない
センターラインはどこにある
そしてそのどちら側をどう歩く

行き先もなく出口もなく答えもなく
ただ張られたロープの上で誰かに出会い泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ
行き先もなく出口も答えも理由もなく
張られたロープの上で
僕らは出会い別れ泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ

Nightfeverが覚める頃街は朝の中
Nightfeverが覚める頃君は夢の中

Analogfish『Nightfever』(2014年)

なまじ変な小説を読むぐらいなら、こういう音楽の歌詞の方が余程心に響くものがある。この何とも曖昧な揺れ動く感情を言葉に落とし込もうとするその姿勢は小説にも相通ずるものがあると僕には思えて仕方がない。

音楽は楽器があり、それにより感情的な部分をより高度なものへと昇華するように僕には少なくとも思える。これを音楽の特権やずるさと感じるかは置いておくことにしよう。だが、少なくとも楽器がなくても言葉だけで成立するのはその音楽家の力量というか、言葉への飽くなき探求心の賜物であるのではないだろうか。

むしろ、言葉で何でもかんでも表現し得ないことを分かっているからこそ、皆は音楽をやるのではないのだろうかとも思える。僕は心から敬意を示したい。しかし、これにも大衆受けなどというものもあるのだろうが…。僕はAnalogfishの歌詞がやはり好きだ。


僕の記録に度々出てくる友人はバンド活動をしている。こう言うのは何だか恥ずかしくて、何より上から目線で非常に気が引けるのだが、中々いい歌詞を書く。それこそ音がなくても成立するのである。

僕は彼の歌ではこれが1番好きだ。なんだろうな…。非常に身近な感じがするのがいいのだ。Analogfishが浮遊的であり瞬間瞬間に僕らの地続きな世界へ―夢遊病的とでも表現すればいいのか―アクセスするのだとしたら、これはその逆で地続きな世界から浮遊的な世界へと瞬間瞬間連れ去られてしまうような、そんな感覚がする。その瞬間がたまらなく心地良いのだ。

僕は小説でも詩でも、音楽でもそうなのだが「生活感」を感じられる作品が大好きだ。僕らの世界と地続きになっていて、その延長線上に存在している作品は何だか安心して読めるし、考えるヒントがゴロゴロ眠っている。そしてその瞬間、小説らしいとか詩らしい、音楽らしい飛躍を感じることが愉しい。これも畢竟するに言葉のダイナミズムそのものではないだろうか。つまりは、地続きな「生活感」だけが溢れる作品ではなくて、その溢れる「生活感」の中に瞬間的に現れる小説的、詩的、音楽的なものに心惹かれるのである。


話を少し遡ろう。そうしたら、僕が忌み嫌っていた大衆小説はなんなら僕らの言う「生活感」に密着しており、それこそ地続き的な作品が多いのではないかと。しかし、それは徹頭徹尾、整備されたうえでの「生活感」なのである。あらゆる物事がその「生活感」を支える、充満させるためにわざわざ言葉をただ、ひたすらに費やしているという感じなのだろうか。

何処か小説じみた、詩じみた、音楽じみた言葉の数々であり、それのためだけに用意された言葉が並んでいるとしか僕には思えない。またまた繰り返しになるがリアリズムを感じられないのである。それはあまりにも馴染みすぎたフィクショナルな「生活感」であって僕らのリアルとはかけ離れているからではないだろうか。

それのために用意された言葉……。作品のために用意された言葉程に詰まらないものはないと感じてしまう。何ともないような普通の言葉、空のパロール的な感じだ。そういうものこそ愉しまれる作品ではないだろうかと思う。しかし、そうとは言えそこでしか表現し得ない言葉というものは確実に存在する。明治期の小栗風葉の作品の変遷を見て貰うとかなり面白いのだが、またの機会に小栗風葉については記録に残そうと思う。

如何にして作品にあった言葉で、僕らと地続きな世界観を表現できるのか。そしてそこにこそ言葉に対する重要な何かが眠っているのではないかと最近の僕は考えている。僕自身、理論がどうのこうのとか言うクソ面倒な人間ではある訳だが、まずは感じること。これが何よりも1番重要であることを今こうして書き連ねて見て分かったことである。


長ったらしい文章の最後に、また長ったらしい引用をして締める。僕の大好きな作家だ。

 ですから、獨創的とか個性的とかいうことと、一般的とか普遍的とかいうこととは、全然の別ものではない。これを別のものに考えてはまちがつて來る。實地にも合わない。ものすごい我利々々亡者があつて、それが全く獨特だというので、その我利々々亡者の、普通の人間と全く通じようのない特殊性だけを書けば、それは結局、普遍性をもたないから他人に分からぬものになる。これは病人のようなものであつて、高い個性的なもの、つまりその個性の高さが他の人々をも打つようなものはそこから生れない。同時に、普遍的で一般的で、こういうことをやつたら世間にも非難されない、というようなだけの人間を書いたところで、これはちつとも文學にはならない。かえつて、ある一人の人が、自分としていままでに思いなやんだことのない問題にぶつかつて思いなやみ、苦しんで、ある結論にとどいたとする場合、その道筋がごく平凡なものであつても、そこに人間が生き、考え、解決にとどく生きた姿が描かれるから文學になる。ましてそのなやみ、その結論が、多くの人々のなやみ、難問解決にあたつていたという場合には、その作品、その個性というものは、大きな普遍性をもつということになるでしょう。

中野重治『文学論』(ナウカ社1946年)P.19,20

われわれはあらゆる場合に、生活そのものにじかに接觸していく、また自分の生活のなかからじかに出發する、こういう立場をとらなければならないと思います。そしてこの立場をはつきり取れば取るほどすべての日常の問題が、あれらの大きな問題に集約されるということが自覺されるだろう。したがつて、そういうふうに自覺した人々は、この言葉だけにすがりつくのでなくて、一そうよく自分の生活を觀察し、また多くの人々の生活をみて、それがどこから來たか、どこへ行かねばならぬかを見通さなければならないと思います。このことに、文學をめざす人々がはつきり氣づいていくことが、日本の文學運動を前に進めていく上での、いま一ばん大事なことだと思います。

中野重治『文学論』(ナウカ社1946年)P.75

よしなに。





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