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雑感記録(79)

【自然の流れを感じる】


ここ数日、色々と予定が重なりに重なりてんてこ舞いを極めていた。今日はお休みを何とか貰ってリフレッシュを図ろうとするが上手くいかない。正しく疲労困憊というやつだ。しかし折角の休みであるからして、とりあえず、朝早く起きて桜を見に行こうと思い立ち車を走らせ公園へ行ってきた。

僕は朝の7時30分くらいに公園に着いたのだが、わりと人が居て驚いた。みんな考えることは同じなのかなと思いつつも、こうやって自然を感じる時間はやはり大切なんだなと改めて感じる訳だ。これは過去の記録でも書いたので参照されたし。

僕が桜を見ている時に、たまたま散歩しているおばあちゃんと遭遇。挨拶を交わしたが何だか勿体ない気がして「桜、綺麗ですね」なんて声を掛けてみた。そこから30分位だったか、ベンチに腰掛けて2人で桜を見ながら話をした。不思議な時間がそこには流れていたような気がする。

他愛ない話からおばあちゃんの孫の話だったり、生活の話だったりを色々と聞いていた。「あなた、今日お仕事は?」と聞かれたので「今日は休みを取って桜を見に来ました」と話したら「大丈夫?」と心配されてしまった。確かに平日の朝早くから桜を見に来る若い人が居るというのは珍しい光景だから、そう思われても仕方がないだろう。

その後、おばあちゃんは続けた。「こうやって自然に触れると自分が小さく見えるでしょ?みんな小さいのよ。この大きさと美しさを目の前にしたら私たちなんてほんの小さなものなのよ。みんな大きく見せようとしているけれど、それはどんぐりの背比べよ。だから逃げなさい。辛いときは。」

おばあちゃんには僕が仕事が辛くて桜を見に来ていると勘違いされてたらしい。しかし、あながち間違いでもないというか…。ただここ最近は非常に忙しさを極めていて思うようにコントロール出来ないことが非常に辛い所ではある。


さて、少し話を逸らそう。

3月25日、僕の兄の結婚式があった。結婚式は何回か出ているのだが、親族側として出るのは初めてのことだったので緊張した。お酒が飲めないということも災いして終始僕の緊張は解かれなかったように思う。まあ、兄の方が緊張していたはずだろうが。

結婚式では大抵、昔の写真。生まれてから現在に至るまでの軌跡を辿るといった形で写真が映し出される。それを見ながら何だか不思議な気分になった。ここに居る自分自身という存在が果たしてどこから来てどこへ向かうのかという不思議な感覚が僕を襲った。

勿論、映し出される写真は兄のがメインになる訳で、僕が写り込んでいる写真も何枚か写し出されたのだがその数枚を見ただけでもどこか変な感じがした。時代の流れというか、そういったものを身に染みて感じた。時間が流れるのは早いものだ。

僕は兄とはそこまで仲が良かった記憶がない。男兄弟というのはそういうものだろうと思うが、しっかりと会話した記憶というのがあまりない。僕が大学に入ってお酒が飲めるようになってからだから、そうだな…20歳ぐらいの時にようやく深い話が出来るようになった。

それまでは本当に必要最低限な会話しかしていなかった気がする。そこも定かではないのだが…。ただ1つ覚えていることがあって、中学生の時だったかな。兄の同級生に「お前の兄貴は普段どんな風に過ごしてるだ?」と聞かれ「いや、家ではぐーたらしてるし、ドラえもんばっか見てますよ」と話をした。その日、学校から帰ると無言で兄に殴られ「余計なこと言うんじゃねえ」と言われたのはよく覚えている。それ以外はあまり覚えていない。

自然の流れというとあまりにも突飛な言い方になってしまうのだが、そういった流れに巻き込まれて僕は遙か彼方へ運ばれていった。僕はどこへ行きどこへ向かうのか。今後の僕自身について考える良い機会となったことは確かである。


僕は常々、「自然にやられたい」と感じている。この結婚式は僕にとっての自然にやられるという経験そのものなのだ。

ここでは自然ということを経過した時間として捉えている訳だが、僕はこの時間にやられた訳だ。それは過去のあらゆる兄に関する記憶、家族との記憶、そして義姉との記憶…。あらゆる時間が僕を渦の中に巻き込んでいく。僕はその場にいながらにして、時間を旅する。空間を無視してその時間に揺蕩う。

流れる時間、流れる自然に僕の全てをゆだね酔いしれる。これは僕にとって言葉では表現し得ないことであり、この感情は共有できない僕だけの特別な時間である。こうして「自然にやられる」ことが僕の最上の幸せなのである。

最近、僕は忙しくて本を読む時間が取れずにいる。直近で読めたのはそれこそ結婚式に向かう電車の中、わずか2時間ばかり。しかし、本を読むことも勿論僕にとって重要なことであるのだが、それ以上に言葉で表現し得ない経験を最近は多くしている気がする。これが読書の代替とは言い難いのだが、そういったこともあり「まあ、本読めなくてもこれはこれでいいのか」と感じつつある。

ただ、これを言語化しようと試みて「ああ、やっぱり言葉では表現できないな」と感じること、痛感することが重要であるように思う。「自然にやられる」とは正しくこういったことなのではないだろうか。言葉では太刀打ちできない膨大な、巨大な、捉えきれない何かにやられること。

今日の桜もそうだ。桜を見て、季節の時間を感じそこにある何かを表現しようと試みてこうしてnoteを記録している訳だが、やはりどうにも難しい。おばあちゃんの話してくれたことは言語化出来るけれども、それに対して僕が何を感じたかは言葉で表現できるがそれはただの状況説明に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。

その奥にある僕という「僕」が一体どこから来てどこへ向かうのかというのは言葉で表現することは僕自身でも難しい。そこに気づけただけでも非常に大きな収穫であると思われて仕方がない。


「自然にやられる」=自分はどこから来てどこへ行くのかを感じる

僕はこの経験を大切にしたい。そして本を読むことを諦めずに僕の表現を増やし、僕の「僕」という存在を見定めてみたい。

駄文の嵐、失礼。よしなに。


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