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雑感記録(52)

【時間について(殴書的覚書7)】


ここ最近仕事が忙しく、昨日は本当に仕事が立て込みすぎてしまい1日中終始あたふたしていた。しかし、外面(一般的な見た目とかではない)は良い方なので上司やパートさんに「凄い落ち着いてるよね。全然焦ってるようには見えないよ。」と言われてしまった。内面は相当焦っていたのだが…。落ち着いて見えるというのは良し悪しもあるものだと僕は個人的に思う。

今日は日頃の疲れを取るために好きなことをしようと思って、本を持って外に繰り出した。朝あまりにも早起きしてしまったので車を走らせて、自然の景色を楽しもうと思い立ち相も変わらず清里まで行ってきた。ギリギリ紅葉が楽しめるかなと思ったのだけれども、もう葉は散っていて裸の木々と裸の山を横目に眺めながらクネクネした山道を運転した。

しかし、朝早く出掛けると大抵のお店は閉まっているから寄るところがない。せいぜいコンビニに寄るぐらいだ。ただ、山道に入ってしまうとコンビニすら存在しないのだから、黙々と曲を流しながら運転する。これもこれで愉しいのだけれども、せっかく外に出かけているのならどこかお店に寄りたいという気持ちもあるものだ。


車で景色を楽しんだ後、家に帰って今度は散歩へ出掛けた。天気も良かったし、ジュンク堂に行きたいし、ちょっとした手土産を買おうと思っていたので簡単に支度を済ませて手ぶらで甲府の中心街へ向かって歩き出した。

舞鶴城公園にて

しかし、前の記録にも書いたのだが季節の時間、自然の時間を感じられるということはやはり良いものなんだなと改めて思う。いつも見る景色であってもまた違った様相を呈している訳で、常に時間の中で変化し続けるその荘厳さと美しさを感じられるのは人生に於いて重要な時間であると思われて仕方がない。

以前、何かの記事で読んだことがあるのだが、「通勤時間は1番無駄な時間」と書かれているものを読んだ。その通勤時間に何か本を読んだり仕事に関連することを学んだりすると良いとも書いてあった。まあ確かにその通りだなと思う訳だが、田舎民からするとそれは難しい。車通勤や徒歩通勤が主であり、通勤時間に本を読んだり何か学んだりとは物理的に不可能である。まあ、ポッドキャストなどで「学問のススメ」を僕は友人の勧めで一時期聴きながら通勤していたが、やはり限界があると感じ今ではあまりしなくなった。

そもそも、僕自身、何もしない無心で歩く通勤時間は無駄ではない。何もしなくても無駄ではない。どちらかと言えば仕事の方が無駄な時間だと感じる。それは以前の記録でも記したが、自己という存在を没入出来ない、自己という存在を殺す時間が僕にとっての仕事であり、通勤時間は自己の存在を没入することのできる平日に於ける貴重で些細な時間であるからだ。


通勤時間が無駄であれば、散歩なんか無駄な時間の極地になってしまう。だって何の目的も持たずただ歩くだけだからだ。別に何かしに行くでもなく、黙々と歩いて行く。しかし、人々は散歩をする。というより散歩を欲してはいないだろうか。何故だろう。

まず、散歩する時はたまた通勤時間に何を考えて歩いているかということを振り返ってみようと思う。

いきなりだが、ここで話を高校の時へ脱線させる。高校の時友人と「休日は何をして過ごすか」という話をした。何故かこの時の情景はよく覚えている。放課後の教室。僕のロッカーに入っているお菓子を取出し、二人で食べながら話していた。最初はたわいもない話だったが、「休日に勉強以外に何する」という話をした。

その時に僕が「息抜きに散歩するかな」という話をした。すると友人は目を大きく見開いて「凄いな。俺には出来ないよ。」という話になった。「え、ただ歩くだけじゃん。気持ちいいじゃん?」と言ったらその友人は「散歩していると無心になれなくて、色々とあれこれ考えてしまって結局リフレッシュ出来ないんだよ。」という話をした。

その当時は「え、そんな何も考えずに歩くだけだから気持ちいいのにな…」と感じていたのだが、今この年代になって友人の言っていたことが身に染みてよく分かる。ちなみにこの友人は過去の記録で登場している。以下の記録を参照されたし。僕を支えてくれた友人である。


さて、話を本筋に戻そうと思う。歩いている時に何を考えているか。これは端的に言うと「あれこれ」だ。厳密に何を考えていると言語化出来ない。それが愉しいのだ。言語化出来ない何か。こういったものについて思考しているとでも言っておこう。そうすると元も子もないような気もするが、これはこれでいいだろうとも思う。

それこそ、僕は眼に付いたものや聴いている音楽、はたまた自身の将来のことなど様々に思考を巡らせている。歩いていると至る所に考えるヒントなるものが転がっている。僕で言えば、時間について考えることが最近は多い。

僕は「散歩=人生の時間を感じられる時間」と考えている。何と言うのだろうか、これも言語化することが非常に僕にとって困難なのだけれども、諸力の散乱そのものであるというように感じている。その諸力を感じられる貴重な時間な訳だ。

例えば季節を感じることも人生を感じる時間である。季節の美しさそのものというより、季節の変化の時間に美しさを感じ、考えることがやはり多い。こんなことを書くのはナンセンスではあるが、季節の移ろいは僕らの生活の時間の指標にもなっている。

暑くなってきたり、寒くなってきたり。花が咲き乱れたり、新緑が増したり、紅葉だったり、そして木々が裸になる。こういったところで「ああ、もうこんな時期か」と感じることが出来る。それに合わせて、何だろうな僕は「ここまで生きてきちゃったんだな」と感じる。自然の美しさと同時に現実をまざまざと見せつけられるのだ。そこが1つの魅力でもある訳なのだが。

以前の殴り書きにて僕は「自然は外界の時間とは無関係に自分の時間を生きている所に美しさを感じる」とも書いた。しかし、それと同時にその美しさに悲しさというか、それを感じる自分自身に哀れみを覚えてしまうこともあるのだ。なんだろうな、自分には越えがたいものが目の前に屹立していて、そこに立ち向かおうとしている自分自身の存在がちっぽけに感じられてしまう。

ある意味でそれはそれでいいのかもしれない。自分の現状を見直す、自分の時間を見直すいい機会になるからだ。自分を定点的に見直すとでも言えばいいのか。客観的などという言葉はあまり使用したくはないが、ここでは敢えて便宜的に使用させてもらうが、客観的に自分を見直すことが出来る。

留保をつけておこう。客観的というのは畢竟するに主観的でしかありえないと僕は考えているから、そもそも客観的などという概念が実は存在しないのではないかと僕は疑っている。従前の記録で「客観的時間」と「主観的時間」という言葉を使用しているが、あくまでこれらは便宜的使用であるということだけは分かってほしい。


かなり話が遠ざかってきてしまったような気もするが、もう少し書いてみよう。散歩は人生を感じる時間であるということ。では、通勤時間はどうなる?

結論から言うと、通勤時間も散歩と同じであると僕は思う。散歩と異なるのは目的、つまり仕事へ向かうということがあるのだ。行き先が決まっている。だから、ある程度思考の枠組みも仕事に引っ張られてしまうという傾向がある。それは僕がどんな曲を聴きながら歩いているかで何となくそれが分かる。

通勤時間、僕は大抵、曲調が暗いものを聴きがちなのだ。歌詞的にも「元気出そうぜ!」みたいな曲は基本通勤時には聴かない。耳元に流れてきた瞬間に暗い曲調の作品を探して飛ばす。これじゃプレイリストを作成した意味がないのだけれども、気分的にはそうなのだから仕方がない。

一般的なイメージがどうかは知らないけれども、何か辛いときにや苦しいとき、あるいは嫌なところへ向かう時には大抵アップテンポな曲。「よしやるぞ!」的な曲を流すのだろうが、そんなことで元気になれるほど僕は人間出来ていない。

ここまで書いたが散歩と通勤時間の違いは、そこに目的があるかないかということだと僕は考えている。僕がこれまでの記録で何回も何回も、耳にタコいや目にタコが出来るくらいに書いている、僕の思考の中心軸である「諸力の散乱」があるかないか、そこへアクセスできるかどうかということなのだろうと思う。


最後にまた話を脱線させてこの記録を閉じようと思う。

僕のこのつまらない記録を読んでくださっている稀有な方は気づかれるかもしれませんが、僕は保坂和志が大好きで愛読書にするほど好きである。あまり僕は新刊が出ても買わない質だが、保坂和志の新刊が出たらすぐに買う程には好きだ。

何か自身が行き詰った時、どこか苦しい時に救いを求めるという言いかたもかなり変ではあるのだが、1つの足掛かりとして毎回読むのである。今日まで続いている【時間について(殴書的覚書)】で出てくる「人生を感じる時間」という言葉は、実は保坂和志の『人生を感じる時間』から誠に失礼ながらも拝借している次第だ。

しかし、このエッセー集は本当に最高で、心の行き詰った時に読むとあらゆるヒントを与えてくれる、非常に示唆に富んだ作品なのである。この『人生を感じる時間』以外にも数多くのエッセーがあり、そのどれもが僕の心を潤してくれるのである。本に救われる人間というのも存在する。

さて、前置きが長くなってしまったが、保坂和志のエッセーの中で『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』という本の帯に良いことが書いてあった。

「結論に逃げ込まずに、「考える」行為にとどまりつづけろ!」

保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(草思社)

また、まえがきでもいいことが書いてある。長くなるが引用したい。

 私にとって、「書く」というのは考え続けることだ。「書く」という行為には、対象を理解しようという力学のようなものが避けがたく潜んでいるのだが、その力学に飲み込まれずにその向こうにあるわからないことを出して、「考える」行為に踏み止まること、それが私にとっての「書く」ことだ。わかったと思ったら「考える」という行為はそこで終わってしまう。(中略)
 文章の命というのは、読み終わったあとで「これこれこういうことが書いてあった」とすっぱり言えることではなくて、その文章に触発されて読者がどれだけ考えたか?だと私は思う。そこで生まれる考えは文章に直接関係なくても全然構わない。多方向に広がるいろいろなことが読者の心に生まれることが、文章の持っている曰く言い難いところなのだ(あいにくそういうことを学校の国語の授業では教えてくれないけど)。
 「考える」ことにとって、生産的―というよりも、山の木や草が生い茂るイメージだから「繁茂的」とでも言いたいところだが―なのは、結論ではない。「わからないこと」「不可解なこと」「言葉が正確に対象を言い当てられていないと感じること」、それらが人をそこに立ち止まらせて、内省させてくれる。そのとき、自分という存在は人間や世界の外に立たず、それを考える循環の中に置き止められる。

保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(草思社)
P.2、3より引用

僕は兼ねてから、実はビジネス書やハウツー本、自己啓発本の類が苦手なのである。というより、それを読んで「俺、私、色々と学んでますから」というデカイ顔をする輩が嫌いである。それは正直、考えるということを諦めた人たちなのではないかと僕は勝手に思っている。ごめんなさい、超ド偏見ですが。

畢竟するに、散歩なるものも「考える」という行為に踏みとどまるための1つの手段などではないのだろうか。あらゆるもの、この記録で言えば季節の移ろいや美しさを感じることからあらゆる方向へ考えていく。それが自身の体験とすり合わせてでもいいし、自然そのものに対する探求でもいいし…。その時間、考える時間というものはやはり貴重な時間である。

これらの主観的時間、考える時間というのは何にせよ重要であると思う。だからこそ、散歩というものは捨てたものではない。僕らの思考を広げるために、愉しく限りある時間を生きるために必要な時間である。


今日も今日とて纏まりのつかない文章だ。しかし、何度でも言うが「殴り書き」なのだからこれはこれでいいのだろう。

これからも散歩の時間を大切にしていきたい。そして考えることから逃げずに愉しい人生を送りたい。

よしなに。

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