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雑感記録(18)

ここ数日、自分自身の今後についてよく考えます。と体裁良く書いてみましたが、「仕事」について考えています。社会人になってから4年の歳月が流れており、これから何十年と同じ仕事を続けられるか?と考えた時にあまりイメージが浮かばなかったんですよね。

実際に今就いている仕事に僕はやりがいなどというものは一切感じていなくて、仕事に対する興味なぞ微塵も湧かないのです。これは恐らく殆どの人が通過する道であって、僕だけが…なんぞと思いあがっている訳では決してありません。

こういう道を潜ってきた人たちは上手に「仕事」と割り切ることが出来ているのだと思います。「仕事」は快適に生活していくための手段として、お金を稼ぐためなら問題なしと。僕は純粋にそれが羨ましい。

よく「好きなことを仕事にするのは大変だ」という。好きなことが仕事に変化してしまい、自分の想定していた姿と乖離していくということなのだと思いますが、今時点での僕から言わせれば「好きなこと出来てる、携われてる時点で文句言うなよ」って。さらに言えば「それで金もらって生活できてる訳でしょ?ならなおのこと…」って。

そこで、僕は冷静に考えてみた訳です。
僕は大学でずっと文学や映画や哲学などをひたすら学んで、それにどっぷりビタビタに浸かって、めちゃくちゃ勉強した訳です。自分で言うのも烏滸がましいですが、現段階に於けるまでの人生で1番勉強したな、勉強がすごく楽しかったのは大学時代だったなあと回顧されます。僕にとって好きなものは所謂「サブカルチャー」と言われるものな訳です。(このカテゴリー自体、好きではないのですがここでは便宜上、そういったものを纏めて「サブカルチャー」とします。)

じゃあ、これを仕事に出来るか。はたまた仕事にすることは出来なくても、何か仕事に間接的に関わることはできるのだろうか?

僕はこの「サブカルチャー」という問題の困難さにここでぶつかったのです。そこで今回はこれについて少しばかし考えたことを殴り書きします。


【サブカルチャーに於ける社会的地位の低さ】


1、文系ー理系という対立軸

僕は根本的な問題として、ここが根深いものだと感じています。
しばしば、「進路に困ったら理系を選択しておけば将来は問題ない」というように言われています。僕も学生時代によく言われました。

今では何となくだけれども言いたいことは分かる気がします。
現在はデジタル化が進んでいく中で、そういったなんでしょう…システムエンジニアだったり、プログラマーだったりとかそういった人々が重宝される時代になっています。

僕のステレオタイプ的な考え方なのだけれども、こういった知識を学ぶにはやはり理系の素養?なんだろうな、上手な言葉が見つからないんですが、数学的センスなどが必要になってくる訳ですね。そこに文系の入る余地はあまりないように思われます。

もちろん、文系の人でもそういったセンスというのかな?素養がある人はいる訳で、一概に文系が追いやられているなどとは言えないのですが、一般的な眼で見るとどうしてもそういった観念が多くの方に染みついていることは間違えのない事実であると感じています。

しかし、やはり「理系」という1つの言わばブランドですよね。それはかなりのアドバンテージになっていることは言うまでもない。文系も自分でプログラミングなどを学ぼうと思えば、専門的に学べるはずですが、やはりそれを専門としている人たちにはやはり叶わない。しかも、学生の1番勉強できる時期にそれを学んでいるとなると、これはどうも太刀打ちできない。

とここまで長ったらしく書いた訳ですが、ここで重要なのは
「現在に於いて社会全体が声を大にしていなくても、理系を要請している、必要としている。」という事実です。


2、必要とされる=真理

少し話を脱線します。
昔の哲学者で僕の大好きなニーチェって奴がいるんですがね、そいつがまた凄い面白いこと言うんですよ。少し引用します。

われわれは真理を欲する、というが、ところで、なぜにむしろ非真理を欲しないのか?なぜに不確実を欲しないのか?なぜ無知をすら欲しないのか?―真理の価値の問題が、われわれの前に歩み出てきた、―いな、この問題の前に歩み出ていったのは、われわれの方であったか?

信太正三訳 ニーチェ『善悪の彼岸 道徳の系譜』(ちくま学芸文庫1993年)P.17

―たとえ、真なるもの、誠実なるもの、無私なるものに、どのような価値が帰せられようと、仮象・迷妄への意志・我欲・情欲の方に、一切の生にとっての一層高い根本的な価値が帰せられねばならないということは、可能であろう。

信太正三訳 ニーチェ『善悪の彼岸 道徳の系譜』(ちくま学芸文庫1993年)P.19

これらは『善悪の彼岸』の最初の方です。
ここでニーチェが指摘しているのは、ものすごく簡単に言うと「今までの哲学者っておバカさんね」ってことです。これってどういうことか。これまた超絶簡単に書きます。

今までの哲学者は「この世の中には真理がある」と仮定したうえで、自身の物や人に対する考え方を磨いてきた訳ですよね。この頃だとカントだったりとかですかね?所謂「物自体」なんて言う認識方法だったりしますが…。まあそこは置いておくとして…。

とにかく、今までの哲学者は「この世の中には真理がある」と信じて疑わずに、それに向かって日々研究してきた訳です。ところが、ここがニーチェの凄いところです。ニーチェはこれらの人に対してこう問うてみる訳ですね。
「それって誰が必要としてるの?」
「もし、その真理を必要としていない人が居たら、それは果たして真理なの?」
と。

究極、言ってしまえばそもそもこの世の中には前提として「真理」などというものは存在しておらず、誰かが必要として初めて「真理」が誕生するのだと。

ここで話を強制的に戻します。
今、社会で理系が必要とされています。もっと条件を絞るなら、デジタルトランスフォーメーションを進めていく上で有益になる人物が必要とされています。そうして現在はこの思考が我々の生活上で密かに我々の思考を侵食しています。

こういったこともあり、理系であること、また同様に理系を目指すことは自分の意思とは関係なしに、社会全体の真理として要請されているということになります。

さて、それでは文系、サブカルチャーなどは果たしてどうなるのでしょうか?


3、文系(サブカルチャー)は蚊帳の外?

ここで徐々に本筋に戻していきます。
これらの問題を簡単に示せば「社会にどれだけコミットできるか」ということのように、こうして書いていて感じました。

社会は果たして文系(サブカルチャー)を必要としているのでしょうか?

ハッキリ言いましょう。必要とされていないと。

最後に言いますが、今日の状況において、文学(小説)がかつてもっていたような役割を果たすことはありえないと思います。ただ、近代文学が終っても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終らない。それはあらゆる人間的環境を破壊してでも続くでしょう。われわれはその中で対抗して行く必要がある。しかし、その点にかんして、私はもう文学に何も期待していません。

柄谷光人「近代文学の終り」『近代文学の終り 柄谷行人の現在』(インスクリプト2005年)
P.80

これはかつて文壇を席巻したといっても過言ではない、文芸批評の重鎮、柄谷行人による、言わば「文芸批評放棄宣言」なるものですよね。

これは非常に考えさせれる。というより、文芸批評家にこうも言わせてしまっていることに我々一般人も危機を抱かざるを得なないですね。僕らも書き手としての立場でなくても、読み手という立場でも考えなければならない非常に大きな問題であるように思われます。

ここからは僕個人の感想になるので、まあ今までのも含めてテキトーに読み流してくれればいいのですが…。
書き手、読み手双方共に質が落ちているということは間違えようのない事実であると思います。勿論、僕も含めてです。

これは自分自身で書いた記事ですが、こういった所謂「受動的読書」を励行している現実が現在あるように思われます。自らが能動的に読みを深めるという行為を阻害するような作品が少なくとも一般に広まっているということが言えるのではないでしょうか。

本屋に行けばやれミステリー、やれ恋愛などと言ったジャンルの作品が堂々と店頭に並べられている。それはそれで読書を気軽に楽しむといった点では、本を読むハードルが下がっているという点に関しては非常に良い点だとは思います。しかし、こればかりが矢面に出され、他に考えさせられる本は片隅に追いやられる。

真に必要とされなくなっていることは言うまでもありません。(こと文学に限って言えば。映画などは良い作品も多かったりするのでそこは何とも…なのですが…。)

一種の娯楽として必要とされる訳であって、真に社会を変え得るような作品などは今では本屋の片隅に埃をかぶって人の眼を浴びない。


4、文系(サブカルチャー)好きは生き残れるか?

こういった社会の中で果たして、文学や映画、哲学、美術などを学んできた人々は生きていけるのでしょうか?
況してや、これを「仕事」として成立させることは可能なのでしょうか?

う~ん……。

正直難しいのかな…とは思います。現に、僕も今仕事で自分が学んできたことを活かしきれていないということがその証左でしょう。

ある意味でアンダーグラウンドの世界でしか生き残れないのではないかなと思います。別にこれで何か一旗あげようという気がないのも事実ではあるのですが、しかし社会から既に必要とされていない現実がそこにあるのです。

誰かの娯楽として、誰かの興を満たすものでしか存在することはできないのではなかろうかと思う訳です。ニッチな世界で密かに生きていくことしかできない…もう受け入れるしかないのでしょうか…?


とここまで書いてタイピングを辞めます。
ただ僕は諦めない。きっとこういった文系(サブカルチャー)がいつか必要とされるまで諦めずにこういったものに触れ続けたい。


人間を支えているのは教養であり、教養の中核になるのは文学・哲学なのだ。

保坂和志「教養の力」『人生を感じる時間』(草思社文庫2013年)P.211


よしなに。

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