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雑感記録(159)

【私的読書再考論】


新しい職に就いてはや2ヶ月が経とうとしている。前職と大分かけ離れている職種であるため、中々慣れないことが多い。そのお陰でミスを何個かちらほら出してしまっている。いつも思うのだが、自分が出来ないという無力感を味わうことには辛いものがある。変なプライドなのかもしれないのだけれども、しかしどうも辛いものがある。何よりその事後処理を他の人が黙って文句も何一つ言わずにしれっと直してくれることが辛い。怒られたい訳ではないけれど、怒られなくなったら終りだと僕は思っている。

今日もそういったことが重なりに重なり、方々に迷惑を掛けてしまった訳だ。幸い、お客さんには1ミリも迷惑が掛かっている状況ではなかったので良かった(?)のだが…。しかし、本当に周りは良い人たちばかりで、気が付いたら直されていた。これは良くないと思って、在宅勤務の方だったのでslackでメッセージを送る。

ただ、この直されてから20分後ぐらいに僕はメッセージを送ってしまった。本当なら気が付いた段階ですぐ送らなければならなかったのだが、「どのようにメッセージを送ればいいのか?」と考えあぐねてしまい初動が遅れてしまったのである。「本当にこの文面でいいのか?」「果たしてこの文章で誠意が伝わるのか?」「相手はこの文章を見てどう思うのか?」「相手はもしかしたら凄く怒っていて、僕がメッセージを送ったら火に油で…」とか…。20分の間に様々に考えてしまったのである。

しかし、「このまま何も伝えない。やってくださったことに感謝もしない。」というのは人としてあり得ないだろうという気持ちが先行した。というか至極当たり前のことなのだが…。「とにかく、自分に非がある。僕のせいだ。修正への感謝。再発防止。」などそういった気持ちは今、この瞬間に絶対に伝えなければならない!と思い、何だか文面だけ見ると「逆ギレしてるの!?」と言われてもおかしくない程のドライな文章を送ってしまった。

「これでどんな返信が返ってくるのだろう。無視しないでくれたらいいな。」そしてあわよくば「『しょうがないよ』とか『こうするんだよ』とか返事があればいいな」と変に期待してしまった。結果として反応はスタンプ1個だけだったのだが、返信を貰えないよりはまだマシかとも思えるし、もしかしたら「お前に返信する文章を考える時間がもったいない」「お前に構ってる暇なんてない」と見捨てられてスタンプ1個なのか。真意はその方が知るのみなので僕の想像の域を出ないが、こういう時は大抵プラスで捉えない方が正解である。

僕は明日の朝イチに掛ける一言を考えながら帰路に付く。


気分が滅入る時、僕は好んで本を読む傾向にあるらしい。今日は代替としてこのnoteを記録している訳だが、普段はそういう時にただ黙々と本を読む。というよりも、大概そういう時の方が頭に言葉が入って来るし、気持ち悪い言い方かもしれないが自分自身の身体全てで以て言葉に触れられるのだ。俗に言う、僕の嫌いなセンチメンタルである。

しかし冷静になって考えてみると、そういう疲れた時や何かメンタルに来ている時にそもそも本を読める状態にはならないはずだ。読む気力も無くなってしまうというか、通常なら(果たしてそれが通常かは僕には知ったことではないが、僕はこれが通常であると考えている)本を読むという選択肢などあり得ないだろう。そこに起きた事物に対して考えの糸を張り巡らせているのに、読書をすることで余計に混乱してしまうのではないか?

僕は一種の救いとして、自身の拠り所として本を求めているのかもしれない。それは「純粋に本を読むことが好き」ということも勿論ある訳だが、心の平安を保つ為に読んでいるのかもしれないと思ってみたりもするのだ。ところが、これは僕があまり好きではない傾向の読書である。それはつまり、道具としての読書。薬としての読書。目的を持ってしまった読書。これで僕は本当に僕は本を読むことが好きと言えるのだろうか?

世の中には読書好きという人間が星の数ほど存在している(と僕は思っているのだが、どうだろう…)。その人たちは一体読書のどこが好きなのだろうかと僕は不思議に思う。読書をどう好きなのか、あるいは読書そのものに何を求めているのか。そこが凄く気になってしまった。

僕はタバコを吸いながら自身の読書に対する姿勢を再考する。

上記記録は散々、色々な記録で載せているのでもう耳タコならぬ眼タコかもしれない。しかし、ここから遡行して考えていこうと思う。

大学時代にある種の悔しさから読書を本格的に始めた訳で、まあ不純な動機であると言えば不純な動機から僕の場合は読書人生が始まる訳だ。この記録にもある通り、段々と読んでいくうちにまずは「読める」ようになってきて、読む度毎に「こういう世界もあるんだ」とか「こういう考え方もあるんだ」と自分自身の世界が拡張していく感じに純粋に面白さを覚えたのである。しかし、それが読書が好きと繋がっていくのは自分で書いておいて何だが、些か不思議な気がしてならない。

恐らくだけれども、決定的な瞬間があるはずだ。「これで読書が好きになった!」という契機はどこかにあるはずだ。決定的な何か…その瞬間が…。

この記録後の出来事や様々にあったことを思い出す…。


とここまで書いてみたものの、このように「あったはずだ」と書いているということは、それ自体がある意味で「そんな瞬間は無かった」と堂々と表明してしまっているような気がしなくもない。というかそうだ。現に思い返して見ても決定的な瞬間はあまり思い出せていないのだから。何本も何本も電子タバコを吸いながら思い返すが「うーん…」特に出てこない。浪費されるタバコ。

ただ確実に言えることが1つだけある。それは読書が僕の生活の一部になったということだ。習慣?癖?とでも言うのか?もう本を読むことが当たり前の生活になっていたということは確実に言えるのである。勿論、本を読まない日、読めない日はあったが、それでも常に頭の片隅では本のことを考えているという生活を送っていたということがあるのだ。

これを僕は「好き」と勘違いしてしまっているのかもしれない。いや、もっと言ってしまえば読書が自分の中で義務化されてしまっているのかもしれない。それを隠すために「好き」という言葉を使用しているのかもしれない。なんと、ここで僕の欺瞞が暴き出されてしまったのである!

でも、義務…って程でもないんだよな…。別に読まない日は本当にとことん読まないし、読む日はとことん読むし…。これは本当に「好き」なことになるのか?僕はただ見栄を張りたいが為に、格好つけたいが為に読書をしているんじゃないか?僕の嫌うファッション的読書人なのではないのか!?……最悪だ。

しかし、それでも僕はやっぱり本が好きなのだ。いや、それでも好きと言いたいだけなのだ。では僕は本を読むことのどこが好きなのか…。


少なくとも今日僕が思ったのは、何があろうともどんな人でも救われる世界がそこにはあるということである。

僕みたいな人間でも、何か心にやましいことを隠し持っている人でも、人には話せない秘密を抱えている人でも、色々な事情があって社会に出られない人でも、そこには現実には劣るにしてもまた別の現実が存在している訳だ。全てのものに対して平等であれるのは本だけであると僕には思われて仕方がない。どんな事情であれ、そこにはどんな自分でも肯定してくれる何かが存在しているのではないか?

他の国はどうか知らないが、日本では幸いなことに図書館があったり、書店がそれなりにあるので買う買わないにしろ、本を読める土壌というのは既に存在しているのである。ある意味で本は唯一開かれた知の形態であるのではないだろうか。これ以上の幸せが果たしてあるのだろうか。

しばしば、今は手元にスマホがあるのだからそれで情報を得れば十分であるということを堂々と言ってしまう輩が居る。勿論それはそれで構わない。現に僕もスマホを使って調べることなんか頻繁にしている。そこに書かれている情報は開かれたものである訳だ。しかし、そこにある情報は僕等を肯定してくれるのか?

そこで得られる情報は結局のところ、自分が納得できればそれでいいというものであって、確認作業でしかないような気がするのである。確認したいだけならそれで十分だけれども、もし自分でも分からない言葉に出来ない感情や気持ちを感じてそれをスマホに入力する時、どう入力する?「これこれでこういう気持ち」とでも入力するのか?あほらしい…。

しかし、本は僕らの現実に近づけて書かれる(これは小説に限るが)ので自分自身が言語化出来なくても、もしかしたらその本の作者が言語化しているかもしれない。この得も言われぬ感情をバシっと言葉で表現されている。「そう、何となくだけれども分かる!」これに出会う瞬間というのは嬉しいことこの上ない訳だ。これも言ってしまえば確認作業であることに変わりはないのだけれども、そこには至るまでのストーリーが僕等の生活に寄せて書かれているのだ。結果だけではなく過程を丁寧に追っている。これは小説や批評、詩などにしか出来ない芸当である。


とすると、僕は結局のところ本を読むことが好きなのではなくて、ただ救われたいと願って本を読んでいるに過ぎないのか?これまで僕が本について書いてきた記録のあれこれは全部嘘っぱちになるのか?「好き」という言葉に僕の「救われたい」という欲望を隠しているだけなのではないのか?

しかし、そんなことは決してないと言いたい。僕がこれまで書いてきている記録は「本当にこの作品のここが良いんだよ!分かる!?」という気持ちを以てして書いていることは紛れもない事実である。そこに嘘偽りは決してない、断じてない!

今書いていて思ったけれども、恐らく僕は読書が好きじゃない。本そのものが好きなのだ。そう、これだ!

本を読む行為そのもの、つまりは文字を追うという作業自体は好きではないのかもしれない。ただ、そこに描かれていることを丁寧に辿り、そしてその言葉の連なりや著者の思考過程を辿るのが好きなのだ。本そのものが好きなのだ。だから積読は増えていくし、読みたいってなるのはそこに描かれる思考過程を知りたいからであって、究極言ってしまえば文字を追わないでその人の思考過程が分かるのならば読書なんかしなかったのではないのかと思われて仕方がない。

しかし、自分の思考過程を伝える手段というのは生憎にも言葉が1番手っ取り早く、ある程度の再現性を持って伝えられるのである。また、自分の知らない人の思考過程を把握する手段も言葉という方法しか現状手段はないのである(絵画を除けばだが…)。

なるほど、先日僕が書いた記録の「美術館に行って作品の何が良いのか分からない」という問題と繋がってくるような気がする。

冷静に考えて、人の思考を言語化することがいかに難しいかということである。僕だって自分の思考過程をこうして延々と今日に至るまで書き記している訳で、何べん読み返して見ても、自分でも分からないというか「こういうことを書きたかったんじゃなくて…」と煩悶とすることがしばしばある訳だ。しかし、今更直そうとは思わないけれどもね。


だから、ここまでの纏めという訳だが、僕は読書が好きじゃない。本そのものが好きなのである。「じゃあ何で本を読むの?」と言われたら、その人の思考過程を辿るには言葉で書かれているから、読むしか術がないんだと答えておくことにでもしよう。

だから、本当に最近人間って不便だなと常々思う。矛盾しすぎなのだ。しかし、そこが面白い。本の面白さはここにあるのかもしれない。この言語の不便さを甘んじて受け入れられる人間で良かったなと改めて僕は思う訳だ(と書いておいて、ちょっと何言ってるかわかんない…)。

そういう訳もあってか、最近僕はやたらと言語学関係の本を読むようになった。今日もソシュールの本を購入し、仕事中に自社製品でただひたすらデリダについて調べまくって、何がしたいのか自分でも最近よく分からない。これも詩なんか読み始めたせいだ!

ところで、皆さまが本好きになった理由、教えてくださいます?

なんてね。

よしなに。

最近はここらあたりをやたらめったら読んでいます。
あ、そうそう。前回の記録で書いてたデリダの所、間違えてたね。




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