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雑感記録(279)

【SFへの挑戦ー数字克服の旅ー】


僕は先日、『オデッセイ』という映画を見た。

『オデッセイ』(2015年)

朝、僕はいつも早く来る職場の先輩と話す時間が好きである。あれやこれやと僕がくだらない話をして色々と聞いてもらい、ある種くだらない話をするせいぜい数分の時間が僕には至福なのである。それで、この間、それは僕がゴジラについての記録を書いた翌日の月曜日のことである。

「ゴジラの映画を見たんですよ」という話から、映画の話をした。僕はちょうどゴジラを全て見終わっており、次に何を見ようかと考えあぐねていた。先輩に「好きな映画ありますか」と聞くとこの映画を教えてくれたのである。先輩曰く「逆境をあれだけ愉しめるのは見ているこちらもハラハラするけど、同時にこちらも愉しくていい」というものであった。

それで、その日に僕は帰宅し、すぐに『オデッセイ』をNetflixで見た。

確かに先輩の仰っていた通り、あの逆境を愉しんでいる状況は凄いと思った。特に火星で作物を育てようとし、実際にジャガイモを育ててしまうのだ。それに何とか地球とコンタクトを取ろうとして、機械を修復したりとそのバイタリティには感服する。人は生きる為ならば何でも出来る。そんなようなことを感じると同時に、逆に自分が出来る範囲のことでしか考えられないという思考の限界性みたいなものをその節々に感じた。

それで、結構いい作品だったのでInstagramのストーリーに投稿した。すると、映画大好き…いや、こんな言葉では足りないな。マニア?ヲタク?いや、そんな通俗的な言葉で表現したくはないのだが。僕が個人的に絶大な信頼を置いている映画好きの友人とここでは表現しておこう。彼からDMが届く。

『オデッセイ』の原作者が書いた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』という作品が面白いから読んでみるといいよということであった。

僕はすぐさまAmazonで購入して、翌日から読み始めることにした。これは僕のポリシーなのだが、「オススメされたら即購入」というものがある。本に関してはお金に糸目を掛けないので、ある程度の金額が掛からなければ購入する。それで僕はすぐさま購入した。


実際、僕はSF作品、とりわけ小説で読むことはしてこなかった。

つまりは、実質これが人生初のSF小説である。とはいえ、SF小説というのは僕からすると小松左京のイメージが強い。僕はわりと小松左京の小説は元々好きで、特に『復活の日』とかは好きだ。あと、この『プロジェクト・ヘイル・メアリー』と同時に短編集の『戦争はなかった』を読んでいる。

やはり読んでいて面白いなと思う訳である。だが、僕の中で少し違和感というか…何だろうな。僕が昨今のSFを避けている原因が分かったような気がしなくもないなと思った。

簡単に言えば、タイトルにもある通り、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでいて専門用語の多さと、数々の数字の多さに混乱をきたしてしまうという点にある。これは僕が文系だからとか、そんな単純な話では全く以てない。これを言い出したら、殆ど数字しか扱わない銀行に5年も務めていた僕は一体どうなるというのだ。

例えばこんな部分とか。

 出た答えによると黒点クラスターは三四四・六六秒毎に一ミリ動いていることになる。二七センチの太陽面を横切るのに必要な時間は(またまた腕に書いて計算)九万三〇〇〇秒強。つまり黒点クラスターが太陽のこちら側を横切るのにそれだけ掛かるわけだ。裏側を回って一周するには、その倍かかる。一万六〇〇〇秒。二日とちょっと。
 本来の自転速度より一〇倍も速い。
 ぼくが見ているこの星…これはあの太陽ではない。
 ぼくがいるのは、べつの太陽系だ。

訳:小野田和子  アンディー・ウィアー
『プロジェクト・ヘイル・メアリー[上]』
(早川書房 2021年)P.72

僕は数字に躓いている。というよりも、文章に於ける数字の羅列に慣れていないのだと思う。加えて、僕には科学的な素養が全く以てない。だから、文章が意味を持った文章と言うよりも、文字としての、記号としての文章として僕は認識してしまうのである。つまり、文字を追うだけの読書になってしまっているのである。

それと物凄く読んでいて感じるのは、数字を出した途端にそれがよりリアルさを以て現前に出てくる。数字は具体的に物を表してしまえるからこそ、分かりやすさと共にそれが嘘でも現実化するのかなとも思う。ある意味で数字は魔力である。何故か数字が1つ示されるだけで、それが具体的な事象として装ってしまえる。

やはり、僕はそもそもとして、抽象的な世界で何かを捏ね繰り回すのが好きなのである。いや、厳密に言えば、抽象化しているものを自分自身の手で具体化して尚且つ更に抽象的なものに落とす円環的な作業が好きなのかもしれない。こう書くと僕はどれだけ面倒くさい人間なのかと思われて仕方がない。


僕がここで重要だなと思うことは、小説に於いてあるいは詩に於いてでも構わないが、数字でリアルさを追求するかあるいは言葉でリアルさを追求するかということなのではないかと思うのである。

こういったSF、とりわけ科学的な小説と言うのは、エビデンス主義みたいな感じがした。つまり、小説で語られるその中のフィクションであってもその根拠とは何かという部分が必要になってくるのではないか。そういう部分では今の社会に通じるところがあるのかなとも思う。しかし、そこがある意味でフィクション性を生んでいるのではないかとも思う訳だ。これは少し具体化して話をしよう。

数字と言うのは、とかく何かを具体化するのに長けているのだが、その中身は空虚なものである。例えば、テレビなんかでよく見られるグラフなどの表示も時たま「?」と感じることがある訳で、言ってしまえば簡単に操作できてしまう。人が述べた言説などを改変する事は不可能だが、数字は簡単である。たった数文字を変えるだけで情報を操作できる。そして我々はそれを信じてしまう。エビデンスとして提出された途端に。

しかも、我々はそれを「エビデンスです」と提出された途端、何の疑いもなしに信じてしまう傾向にある。これは僕が正しくSFを読む時の姿勢そのものである。あまりにも自分の知らない領域での物事で「これがエビデンスです」と数字を羅列されてしまったならば信じざるを得ないのである。ある意味で、これは言い方は非常に悪いがSFは僕のような無知をどこか天上から「どうせ分からんだろうが…フフフ」と言われているみたいである。


だが、逆を返せば、そういったことで「疑う」あるいは「興味関心を惹く」という点に於いては非常に有用であるとも思うのだ。つまり、数字自体に懐疑的になることで、知りたいということを誘発させるという点ではSF小説は優れているなとも『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでいて思った。僕はより「数字」が持つ魔力と「エビデンス」という点に於いてそれを社会的に考える手立てになると思った。

勿論、小説の内容自体も面白い。さながら映画を見ているような感じで進んでいくストーリー展開は面白い。読む時のスピード感というか、言葉のスピード感みたいなものがスムーズであるなという印象を受けた。だが映像で見るのと文章で読むとでは大きな隔たりがあるなという感じもした。

しばしば、ロブ=グリエの小説は映画的だという表現がされる。これはカメラのカット的な部分でということなのだと思う。僕も実際に読んでいて思う所である。とりわけ『迷路のなかで』とか『反復』とかはそんな印象を少なくとも僕自身は持っている。

だが、物語展開そのもの、これは先にも書いたがスピード感と言う部分で言うと少し違うかなとも思う。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はサクサク進んでいく。これは物理的に僕が読む速度的な部分でサッサと読んでしまっているということもあるだろうが、それにしても展開が遅延しない。

大概、物語の回想が挿入されると話しは混乱してしまう。

この『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の構成は、現在と過去の行き来によって展開していく。通常、こういう特性の小説というものは僕の中ではとかく読みにくい。僕は忘れっぽい質なので、いつもこういう小説の場合には行ったり来たりを繰返しながら読むので時間が掛かってしまう。ところが不思議なことにこの小説ではそういったことが少ない。何故だろうか。

まず思ったのは、僕が純粋に文字として文章を読んでいることが大きいと同時に、正直に言えば数字で小難しいことが描かれるがそれを無視さえすれば大体の概要は簡単に掴めてしまえるという点にある訳だ。さらにご丁寧に現在に戻るタイミングでその回想の重要な部分が反復される為、一々戻る必要が無いのである。これは僕にとっては発見である。なるほど、これも読みやすさの秘訣なのかと。


僕はSF小説に苦戦している。物語の構成やストーリー性にではなくて、そこに描かれる「数字」とそれに付随する小説の「エビデンス性」に苦戦している。これを機に現代のSFに挑戦していこうと思う。その足掛かりとしてこの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』について読んでいこうと思う。

小説に於ける数字克服の旅を始めようか。

よしなに。

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