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雑感記録(273)

【ゴジラ覚書】


些か唐突な話だが、僕はゴジラが好きである。

それでつい最近、Amazon Primeで『G-1.0』が無料で見られるようになったので見ることにした。一応、小さい頃からゴジラのシリーズを見ている人間としてはゴジラを見ない訳にはいかないという謎の義務感と、庵野秀明の『シン・ゴジラ』以降、令和時代に生きる我々がどうゴジラというものを扱うのか単純にゴジラの1ファンとして確認しておきたかったということもある訳である。

『ゴジラ-1.0』(2023年)

正直な感想を言ってしまえば、僕はガッカリしてしまった。賛否は色々とあるだろうが、少なくともこの映画に対して僕はあまり良い印象を持たなかった。まず思ったのが、「いや、ゴジラを使った『Always3丁目の夕日』やないかい!!」ということである。

何だか、ゴジラそのものの構図、ゴジラという存在が「家族」という所に全て帰結してしまう印象を受けた。例えば、神木隆之介が演じる敷島が居る。彼は浜辺美波が演じる大石典子と出会い、その家族(実際には結婚という契約を結んでいないので、厳密に家族と言えるかどうかは甚だ疑問であるが、しかし、「事実婚」という現状を鑑みるにこういう家族関係も1つとして考えられる訳だ)がある種この『ゴジラ-1.0』の主軸に配置される。

敷島は過去にゴジラを倒せずに、仲間を失ったことや青木崇高が演じる橘との確執とでも言おうか、そういう中で如何にしてゴジラを討伐するかが主眼になる。だが、そういうゴジラを討伐する大義名分の裏には大石典子との家族関係が必ず存在する。僕は個人的にこの映画の足かせとなっているのが奇しくもその映画の中心に据え置かれている「家族」というものではないかと思ってしまったのである。

無論、この『ゴジラ-1.0』を1つの家族関係の物語として見るなら個人的には全然面白く見られた。だが、あくまで「ゴジラ」とつけている訳だから、その「ゴジラ」という存在そのもの、「ゴジラ」とは一体何なのか、「ゴジラ」に対して人間はどうあるべきなのかという、「ゴジラ」そのものを問うことが重要じゃないかなとも思う。それが新しく『ゴジラ』という作品を過去から現代の流れの中で更新するということなのではないのかと思った。


それで、僕は過去のゴジラシリーズを全部見直すことにした。

幸運にもAmazon Primeでは最初の『ゴジラ』からある程度流れを追って見れるようになっていた。僕は過去にゴジラシリーズは昭和作品から『シン・ゴジラ』まで全て見ていた訳だが、改めて見直そうということで2週間を掛けてただ只管にゴジラ作品を見続けていた。

どうでもいい話だが、僕の最初のゴジラ体験はこの作品である。
初めて自分のお小遣いで買ったDVDがこれだ。

wikipediaや各種サイトではゴジラシリーズを大別すると大体3つぐらいになる。それを列挙すると以下のようになる。

①昭和ゴジラシリーズ〈1954年~1975年〉
②平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)〈1984年~1995年〉
③ミレニアムシリーズ〈1999年~2004年〉


一応このような流れになる。ただ、細かいことを言うのであれば1998年にハリウッド版で初めての『GODZILLA』が公開されたことであったり、2004年以降のゴジラはとりわけ海外による作品がゴジラのメインストリームに移行しつつある。現在でも、海外でのゴジラは人気がある訳で、最近でも『ゴジラvsコング』(2021年)が公開になるなど、現在のゴジラの居場所はその殆どが海外に移行していることは嘆かわしいことであると個人的には思っている。

僕はこの歴史的な分類に対して、少し視点を細かく分類する必要があるのではないかと思っている。つまりは、作品ごとにそれぞれで単体として考えるべきだと僕は感じる訳だ。そこで僕が想定している区分けは以下のようになる。

①『ゴジラ』〈1954年〉
②『ゴジラの逆襲』〈1955年〉~『メカゴジラの逆襲』〈1975年〉
③『ゴジラ』〈1984年〉
④『ゴジラvsビオランテ』〈1989年〉~『ゴジラvsデストロイア』〈1995年〉
⑤『ゴジラ2000ミレニアム』〈1999年〉
⑥『ゴジラ×メガキラス G消滅作戦』〈2000年〉~『ゴジラ FINAL WARS』〈2004年〉
⑦『シン・ゴジラ』〈2016年〉
⑧『ゴジラ-1.0』〈2023年〉


とこのように細分化してみた。とりわけ、「ゴジラ」と単体でタイトルがつけられている作品は個人的にだがゴジラという存在を再定義するという意味合いが強い作品が多い印象を受ける為、このようにして1つの定点として区分けした。なお、海外のゴジラシリーズについては省く。それはゴジラそのものを問うというよりも、ゴジラ=アイドルとしている世界になる為考慮しない。なおそちらについても少し触れる予定ではある。


①『ゴジラ』〈1954年〉

『ゴジラ』(1954年)

そもそも、僕等はゴジラの出自を振返ってみたことがあるだろうか。今ではゴジラというアイコンが1人歩きをしており、その怪獣としてのフォルムや戦闘場面に於けるカッコよさばかりが取り上げられている訳だが、ゴジラとは何であるかということを振返るにはやはり最初のこの作品が最も適していると僕は思っている。

この作品の始まりは、漁船が次々に消息不明になるという状態から始まる。偶然にも、その消息不明になっていたと思われた船の乗組員が救助されたことで転換を迎える。山田政治という人物が取材で「確かに大きな生き物だった。不漁なのもその生物が暴れているせいだ」と話したことにより「ゴジラ」の仕業ではないかと勘繰ることになる。

そもそも、「ゴジラ」というのはその島に昔から伝わる伝承上の生き物である。実際、こういう伝承については基本的には比喩表現として怪物が使用されることが多い。それについて僕は柳田国男を参照できれば良かったなとも思う訳だが、今回は割愛する。とかく、どこかの地方に纏わる伝承の一部は自然災害を怪物に例えて表現することが多かった訳だ。「ゴジラ」もその1つとして何かの自然災害に対して与えられていた名前だったのだろう。

ところが、暴風雨の中で聞こえる足音、実際に残っている大きな足跡が発見される。そして実際に島民たちはゴジラを目撃するのである。そして、ここからが僕は重要だと思うのだけれども、その足跡から放射能が検出されるのである。それを根拠に山根博士は「海底の洞窟に潜んでいたジュラ紀の生物が度重なる水爆実験の中で出現した」という旨を国会の中で発言する訳である。

ここで直接的にゴジラは水爆実験の産物であるというように結論づけられているのである。

『ゴジラ』が公開される前後では、こういった核の問題というのはしばしば取沙汰されていた。例えば、戦後まもなくビキニ環礁沖で度重なる水爆実験が行われていた。これは周知の事実な訳だが、しかし僕は調べて思ったのだが、あまりにも長期間に渡って水爆による実験が行われていたのだと驚愕する。第五福竜丸事件が奇しくも『ゴジラ』公開年と重なるということも相まってゴジラという存在がより強調されていったのだろうと思う。

さらに面白いのは、この1954年には当時ソビエトで実用として世界で初めて原子力発電が開始された年でもある。実際にはその前年にアイゼンハワーが国連総会に於いて「Atoms for Peace」と称して提案をしたことが原子力発電が本格化する第1歩となったことは言うまでもない事実である。しかし、平和のための原子力と言っておきながら水爆実験を行っていたのは今思うといかがなものとは思う訳だが…。

いずれにしろ、ゴジラという存在は水爆実験、つまりは核実験により誕生した生物である。単純にこの映画に於いては、その原子力なるもの、核によることでどういった影響があるのかということについてのアイロニカルな存在としてゴジラは存在していた訳だ。繰り返し映画の中で強調されているセリフがある。「本当の恐怖はゴジラではなく、ゴジラを生み出した人間そのものが恐怖である」というようなセリフである。正しく、この言葉とこの映画を取り巻く外部環境によってゴジラという我々の代理表象が我々の敵となり得る。ある種、社会的なゴジラがそこには存在していたと僕には思う。


②『ゴジラの逆襲』〈1955年〉~『メカゴジラの逆襲』〈1975年〉

『ゴジラvsヘドラ』(1971年)

この時期のゴジラの特筆すべきことは、ゴジラ単体ではなく、ゴジラと敵対する怪獣が同時に描かれることにある。例えば『ゴジラの逆襲』で言えば、アンギラスが初めて登場し、それ以後この昭和シリーズに関しては必ず怪獣が出て来る。ちなみに言うと、3作品目の『キングコングvsゴジラ』は大人気を博したらしい。公開年は『ゴジラの逆襲』が公開された7年後の1962年である。

この時期のゴジラは初期で提出された「核と人間」という問題提起から路線を大幅に変更し、特撮の方向に舵をきっていくこととなる訳だ。この頃の日本では、先にも書いた通りアイゼンハワーの国連での提案により原子力発電への道が開かれた。1955年には「原子力基本法」が成立し日本でも核兵器という問題から徐々に核燃料としての方向性が開かれていくことになる訳だ。偶然にも『キングコングvsゴジラ』が公開された1962年には日本原子力研究所での原子力発電による試験発電が成功した年でもある(実際に発電が行なわれたのは1963年であり、1962年ではあくまで試験である)。

今まで核というものが脅威だった時代から、人間との共生という方面に向かって行く。初期の『ゴジラ』で体現されていた核の脅威というものが、特撮にすり替わって行くという構図はそれと追随するような印象を僕は1人勝手に思ってしまった。つまり、ゴジラがゴジラとしての機能を徐々に失い、ここで初めてアイコンとしてのゴジラが誕生することとなる訳なのだと僕は思っている。

年数が経つごとに怪獣も出て来る量が増加する。5作品目の『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)や『怪獣大戦争』(1965年)…など。まさか、そんなに沢山怪獣が出て来るとは思うまい。それに僕が個人的に面白いなと思うのは、先の画像にもある『ゴジラvsヘドラ』(1971年)では有名な話だがゴジラが空を飛ぶのである。

さらに訳が分からないのは、ミニラが出て来ることである。『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)の映画で初めて登場する訳だが、この時代、とりわけ前年の1966年に円谷英二による『ウルトラQ』の放映が開始になったことによる怪獣ブームが発生したことを考慮に入れるとするならば、ミニラの登場もその流れを汲んだものとも考えられなくもない。もし、仮に初期の『ゴジラ』の流れを汲むとするならば、ミニラというのはどういう存在になるのだろうか。

それを考えるのは平成ゴジラについて語る時にも1つの重要なタームにはなる訳だが、ここで触れておきたいのはミニラが全く以て成長しない事である。これこそが僕には正しくゴジラがアイコン化したことを象徴しているように思えてならない。いずれにしろ、『ゴジラの逆襲』以後よりゴジラそのものから遠く離れて、怪獣との戦闘場面を愉しむ方向へ移行していくことになると僕は考えている

その終着地点としてメカゴジラという存在がある。この期間に於けるメカゴジラの出て来る映画は『ゴジラvsメカゴジラ』(1974年)、『メカゴジラの逆襲』(1975年)である。厳密に言えばそれ以前に『ゴジラvsメガロ』(1973年)においてジェット・ジャガーなるロボットが登場している。これもまた時勢に合わせたとでも言うべきか。再びの怪獣ブーム(この頃はとりわけ「変身ブーム」だと個人的には思う訳だが、1971年より放映される『仮面ライダー』が人気を博していたということもあるだろう。そういった流れで、どこか人間の形を模した機械的フォルムというものが特撮界隈を席巻していたのではないかなという、僕の勝手な妄想)がある訳で、そういうものをゴジラに取り込むというその事実が「ゴジラは特撮映画である」ということを大々的に象徴しているなとも思われる。

いずれにしろ、この『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までというのはとりわけ「核」という問題を背後に抱え、我々に対して問題提起をしていたゴジラが一気に特撮へと舵をきったという事実に着目して貰えればいい。またそれと同時代的な流れを見ても、今まで「核」という脅威であったものが我々人間に使い方次第では利益をもたらすという事情があり、世間一般から徐々に薄れて行ったのではないかということも合わさったのではないかというのが僕の感じるところである。


③『ゴジラ』(1984年)

『ゴジラ』(1984年)

最初の『ゴジラ』が世に出てから30年。再びゴジラが舞い戻って来る。

この時のゴジラは初期の『ゴジラ』の「核」という問題について恢復しようとする流れがあると僕は思っている。それは話の細部のセリフにちょこちょこ「核」や「原子炉」などという言葉が垣間見える。僕はここが物凄く重要だと思っている。

この『ゴジラ』で再定義されたゴジラ像というのは、やはり「脅威としてのゴジラ」という部分であると思う。今までの特撮化によって作り上げられたゴジラという存在そのものを探っていく。そういう姿勢が垣間見えるのは僕の中では非常に好感が持てる訳だ。特撮の部分をきちんと踏襲しつつも、そのゴジラの本質を特撮という部分から探っていこうとする部分が平成ゴジラを一貫する面白さであると僕は考えている。

だが、この『ゴジラ』においては最初の『ゴジラ』へのオマージュ感が凄い。例えばだが、最初の『ゴジラ』に於いては足跡から三葉虫が発見される描写がある訳だ。それをこの『ゴジラ』に於いてはショッキラスという形で表現しているのではないのかと思ってみたりもする。

とりわけ、この映画から原子力発電所とゴジラ、という構図が鮮明になっていく。社会的なゴジラの復活である。とまあ、ここまで書いた訳だが、実際この『ゴジラ』についてはあまり書くことがない。後のシリーズに譲ることにしたいと思う。というのも僕はあまりこの『ゴジラ』は好きではない。やはり僕も特撮化に一部侵されている訳で、対怪獣という構図がやはり好きなんだろうなとも思う。

一応、ここで触れておくべきは1979年に発生したスリーマイル島原子力発電事故であろう。原子力関係での大きな部分で語られるのはこの辺りだろうか。だが、この映画公開時では既に除染作業が行われている段階であった訳である。ここにはその事実があったということだけここに記して留めておくことにしよう。


④『ゴジラvsビオランテ』〈1989年〉~『ゴジラvsデストロイア』〈1995年〉

『ゴジラvsデストロイア』(1995年)

1986年。これは特筆すべきことである。チェルノブイリ原子力発電所事故。これは僕の推測の域を出ない訳だが、『ゴジラ』が1984年に公開され、その5年後に2作品目の『ゴジラvsビオランテ』が公開される訳である。実際に『ゴジラvsビオランテ』を見てみると原子力発電に関連するような話は殆ど出てこない。やはり、前作の『ゴジラ』で原子力発電等のことについて描いていることで、本来的なゴジラ像が復活した訳だが、しかし事故が起きた直後にゴジラでそれを扱うのは気が引けたというか、対外的に取り扱うのが難しかったのではなかろうかと僕は勝手に推測している。

これは実際に製作した人に直接聞くしかないだろうが…。

『ゴジラvsビオランテ』から『ゴジラvsデストロイア』までを語るには1人のキーパーソンを無視して考えることは出来ない。そしてこの人物が社会的ゴジラを考えるうえでは非常に重要な存在である訳だ。それについて書いてみようと思う。このシリーズにこそ僕等が考えるべき姿があるように思われて仕方がないのである。

それは小高恵美が演じる三枝未希という人物である。この人物は『ゴジラvsビオランテ』から『ゴジラvsデストロイア』まで一貫して登場している人物である。設定としては簡単に言うならば、「エスパー少女」という立ち位置である。重要なのはこの三枝という人物がゴジラとエスパーでコンタクトを取れるという点にある。そして何よりも、彼女自身がゴジラとの共生を強く望んでいるという点である。

僕はこの構図が凄く面白いと思う。

ここからはあまりにも論理が飛躍するのであまりあてにしないで欲しいと先に断っておく。それを承知の上で見て頂きたい。詰まるところ、このシリーズに於ける怪獣とゴジラを討伐しようとする自衛隊あるいはGフォース等は現代に於ける「原発反対」という人間たちである。怪獣はその人々の「原発反対」という「思念/怨念」と言うべきだろう。そしてゴジラは原発そのもの。そしてこの三枝なる人物はその中間層に居る立場の人間。現代で言えば、「原発反対というのも分かるけれども、原発が無ければ生活出来ないよね」というリアリストの態度そのものであると。少し詳しく書こう。

まず、この頃のゴジラは先にも述べた通り、「核」としての、脅威としてのゴジラを恢復している。その脅威に対してどう向き合うかというその手前の段階、つまり「ゴジラを討伐する」というよりも「ゴジラとどう向き合おうか」ということに主眼が置かれ始めている。度重なるゴジラによる猛威の中で、人間は諦めず根絶やしにしようとする。だが、それは悉く失敗するのである。僕はこれらを通して今のその状況と当てはまると思った。そしてそれはこの章で最初に書いたチェルノブイリのものと重なる部分があるのではないかと僕は考えた。

このように考えるキッカケが実は1つある。それは『ゴジラvsデストロイア』の中でこういうセリフが登場する。「ゴジラがメルトダウンする」というものだ。これは正しくゴジラを仮想の原子力発電所として、いや、ゴジラを原子力発電所と同等の存在として見ているということの証左ではないかと僕には感じられたのである。とすれば、ゴジラは原子力発電所のメタファなのではないかと。

そのような視点で今1度、これらシリーズを見なおしてみた結果、先にも書いたような考えに至った。

自衛隊やGフォースの面々はゴジラを潰そうと躍起になる。あの手この手を生み出してゴジラを排除しようとする。だがどれも失敗している。上手い具合に行くかなと思いきや、それも結局ゴジラの強さの前には及ばない。何だか、僕はそれを見て東日本大震災以降の「原発反対」の運動にそっくりだなと思わず思ってしまった。

その当時に於いて、僕はまだ学生であまり意識していなかったけれども、何だか「原発反対」と言っておけばその時勢に乗れているような感じがあった。言い方は些か失礼だが、デモに参加しているうちの数人はただ何となくその流れに乗っているような印象を僕は持っていた。彼らは彼らのロジックの中で「原発反対」を標榜する訳だが、現状を見るとどうもうまく機能していないような印象を受ける。何故なら現に原子力発電所をなくせていない。まだ存在して稼働している。何ならその恩恵を未だ受けているではないか。

この姿勢が正しく自衛隊とGフォースそのものであると僕は思ってしまったのである。そして、その一方で三枝なる人物は常にゴジラとの共存、共生の方向性を見い出そうとする。しかも、自衛隊やDフォースに所属しながらもその行為自体に疑念を抱いている。勿論、作中では彼女もゴジラに破壊される様子を黙って見ているということが出来ないでいる訳である。大事なのは「しぶしぶ」参加しているという点である。納得が行かないけれども、参加せざるを得ない。

ゴジラのメルトダウン

正しく、それは「原発反対」という理屈は分かっているけれども、それでも共存、共生するほかはないということをどこかで分かっている。現代のリアリストそのものであると僕には思われて仕方がない。だが、問題となるのは「ではどう共存していくのか」ということが描かれず、僕等に委ねられることにある。それが『ゴジラvsデストロイア』の終り方、ゴジラがメルトダウンしてエンディングを迎える。本来のゴジラ、つまり問題提起をする初期の『ゴジラ』にこのシリーズ全てで恢復したと言える。

更に着目すべき重要な点として、『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)、『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)、そして『ゴジラvsデストロイア』にてベビーが登場していることにある。そして先に書いたミニラとは異なり、作品を追うごとにしっかり進化していることにある。『ゴジラvsデストロイア』ではゴジラと瓜二つの存在が出て来る。呼称としてはゴジラJr.と呼ばれるのである。これもこのシリーズを語る上では決して外せない。

『ゴジラvsスペースゴジラ』でのベビー
最初の段階では恐竜っぽいのだが
『ゴジラvsデストロイア』ではほぼゴジラである。

ゴジラを原発のメタファと考えるのであれば、ベビーはその後継者となる訳だ。つまりはゴジラという原発第2号である。それを三枝が力を入れて成長を見守る訳だが、ある意味でベビーは新しく共存、共生するための方法を模索するための重要なキーキャラクターである訳だ。これもまた面白いのだが、『ゴジラvsデストロイア』でベビーは死ぬ。共存、共生の可能性を探るものが無くなる。と思いきや、メルトダウン直前のゴジラがベビーに助けられる。だが、その後は描かれない。

つまり、先にも書いたことの繰り返しになる訳だが生息が分からないベビー。生き返ったと僕は書いてしまった訳だが、実際のその後は描かれない訳である。それこそが僕等に与えられた課題なのではないかと思った。再び討伐の道を行くのか、あるいは共存、共生を目指すのか。僕等は今1度このシリーズのゴジラを通して原発に考えることも必要なのではないか。僕にはそう思えて仕方がないのである。


⑤『ゴジラ2000ミレニアム』〈1999年〉

『ゴジラ2000ミレニアム』(1999年)

はてさて、そんな重厚なゴジラシリーズが『ゴジラvsデストロイア』にて終りを迎えた訳である。それから4年の月日を経て新たなゴジラシリーズが幕を開ける。所謂「ミレニアムシリーズ」である。それの始まりとも言える作品がこれである。

ここでも原子力発電での関係で少し書いておけば、1999年というのは東海村JCO臨界事故がある訳だ。ただ、これに関しては杜撰な管理体制による、逸脱した作業工程によるもので発生した訳であり、原子力発電そのものが起因してという訳ではない。むしろ人為的な側面が大きい。これまた些か表現は悪くなるが、防げた事故ではあったはずである。というのが僕の感じるところだが、ここにこういう事故があったと書くに留めておこう。

さて、この『ゴジラ2000ミレニアム』でのゴジラの定義とはいかなるものなのか。それは端的に表現することが出来る。ここでのゴジラは「自然災害の一種」として再定義される。僕からすると「え?」という感じではある。僕がこう思うに至った理由としては、この映画ではゴジラを観測しようという側面が強いと感じたからだ。ゴジラネットワークによる所謂ゴジラの観測。正しくそれは言い方は悪いが、天気予報のような形で行われる。

原子力発電のメタファだったゴジラが今度は自然災害のメタファ、いや、メタファなどではない。自然災害そのものとして存在する。共存や共生するという方向に舵を今度はきった。つまり、「もう諦めて上手く付き合っていくしかないんだ」ということが前面に出されている。それを象徴するのが最終部の阿部寛が演じる片桐がゴジラを目の前にしてタバコを蒸かし、ゴジラにやられるその様子である。

「ゴジラァァァァァァァ‼‼‼‼‼‼‼」

しかし、そう考えると宇宙怪獣として出て来るオルガの存在がどういう立ち位置に存在するのかが分からなくなる。先のシリーズに於いては「原発反対」という人々の思念・怨念がゴジラに敵対する怪獣であると僕は考えた訳だが、この映画でのオルガは果たしてどうなるのだろうか。ゴジラが自然災害だとするのであれば、オルガはどうなるのであろうか。

僕は色々と考えたのだけれども、考える方が阿保らしくなった。というのも、それは「宇宙怪獣」であるからだ。ここで「宇宙」を出されてしまったら、それも1つの自然災害として捉える以上に手立てがないのではないかと思ってしまったからである。加えて重要な事としては、やはり昭和の特撮化したゴジラの復活がここに見られるのではないだろうかと思う。

実際に宇宙怪獣は出てきている。それはガイガンで既に実現されているのである。正しく宇宙から来たというものはここに戻っているような、そんな印象を僕は勝手に受けてしまった。

『地球攻撃命令 ゴジラvsガイガン』(1972年)

ただ、ガイガンの場合には人間が宇宙から呼び寄せるという謎の手法で召喚している訳である。だけれども、オルガの場合は極々自然に宇宙からやって来たという感じがするので、見ている我々からしても受け入れやすい。物語性としても整合性がきちんと取れるのである。これは個人的には評価したい部分である。

いずれにしろ、この『ゴジラ2000ミレニアム』で注目したい部分はゴジラが自然災害として新たに定義し直されたという点。そして、ゴジラの特撮化という部分の恢復が始まるという点においてである。その証左かどうかは分からないが、ゴジラが些かスタイリッシュになっているのである。アイコン化されたゴジラをその見た目のフォルムでまずは恢復している。そんな印象を僕は受けるのである。


⑥『ゴジラ×メガキラス G消滅作戦』〈2000年〉~『ゴジラ FINAL WARS』〈2004年〉

『ゴジラFINAL WARS』(2004年)

実を言うと、僕のゴジラ経験はこの頃がドンピシャである。幼稚園・小学生の時期にぶち当たるのがここである。だから思い入れも強い…かと思いきや、先にも書いたが僕の初期ゴジラ体験は『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)である訳で、この時期のゴジラはタイムリーだがあまり通過はしてこなかったというのが正直なところである。

やはり、この時期のゴジラは原初的なゴジラは跡形もなく消え去り、アイコン化したゴジラが出現する。もはや脅威だったゴジラは消え、表層の恐怖と化したゴジラが街中を暴れ回る。それに対してあの手この手で人間があれやこれやと対処する。そして怪獣とゴジラが戦闘を繰り広げる。そのカッコよさにただただ圧倒される。だが、それ以上でそれ以下でもない。

形骸化されたゴジラがただ1人歩きをしている。僕はそんな印象を持ってしまったのである。

過去のゴジラ作品で出てきた俳優たちや、過去の作品のオマージュらしきものが散りばめられる。とりわけ、『ゴジラvsメカゴジラ』(2002年)というのは設定として初期の『ゴジラ』で死んだその骨を利用して作られたことになっている。だが、僕からすると「ふざけるなよ」という印象だ。僕はゴジラそのものを愚弄している印象を受けた。だから機龍は好きではない。

『ゴジラvsメカゴジラ』(2002年)

加えて、この頃辺りから妙にませた人間模様が話の主軸になってきている。ゴジラというアイコンを媒介にした人間模様。しかも、何だかネチネチした感じの印象を受ける。それがゴジラの戦闘とリンクする。それはそれで一向に構わない訳だが、ゴジラそのものの存在というかそこから意図的に離れようとしている感じが僕には苦しくて堪らない。勿論、ゴジラの戦闘場面は確かにカッコいいものがある。しかも現代のCG技術と相まって更にリアルさを増して現前に出て来る。だが、その反面で失ったものは大きいような気がする。

その最終的な着地地点として、そしてその愚作の集大成として『ゴジラFINAL WARS』が存在する。ちなみに言えば、僕は『ゴジラFINAL WARS』は意外と好きだ。ゴジラが続々と現れる敵を倒していくその場面には圧巻で思わず興奮してしまう。だが、ミュータントの戦闘は未だに意味が分からない。結局どっちつかずな態度的な感じでモヤモヤしてしまう。個人的に1番気に喰わないのはミニラだ。僕はミニラが気に入らないらしい。

いやぁ、ドン・フライ、カッコよかったな…

いずれにしろ、僕はこのゴジラについては昭和期の特撮化したゴジラを恢復し、アップデートしたという点では評価できる。実際僕もそれに惹かれる部分はあった。実際面白いし、僕の青春はここにあるのも事実だ。しかし、ゴジラそのものを考える、という意味に於いては面白味に欠ける。本来的なゴジラ像はどこかに消えてしまった。

ゴジラという問題提起そのものが、消費という行為に巻き込まれてしまった。消費化されるゴジラである。何だか僕はそんな印象を受けてしまった。僕は途方に暮れてしまったというのは紛れもない事実である。平成ゴジラシリーズで恢復したゴジラが一瞬にして崩れ去った。


⑦『シン・ゴジラ』〈2016年〉

『シン・ゴジラ』(2016年)

さて、2004年の終りを迎えてから12年の月日が経った。やはり、ここでは東日本大震災が大きな影響を与えている。僕はあの時、中学生で4階の音楽室で経験した。自宅に帰ってテレビを付けた時に映し出された映像は未だに僕の記憶にある。鮮明にである。そして揺れの数日後に原発事故が起こる。

あの時、電力不足で計画停電があった。僕の自宅も計画停電の影響で2,3時間程停電になった。今思い返せば、中々経験できないことであったし、僕のたった2,3時間で大勢の人の生活が少しでも良くなるならば些細な事である。その当時はまだ中学生でバカだったので、真摯に考えることが出来なかった。原発事故も毎日テレビで放送されているけれども、どこか遠くのことのようでフワフワしていた。それだけだった。

色々と考える中で、僕は夢のような感覚だった。現実感が無くて、画面に映された惨状をただ傍観する1人の無力なそして唯々、馬鹿な人間だったと今では思う。高校生、大学生になるにつれて自分の中では震災というのは過去の出来事となってしまった。そんな感覚だった。僕の周りでは何事もなかったかのように物事は進み、時代も進んで行く。僕は何不自由なく生活していく。人は忘れる生き物だ。だが、忘れてはならないことは世の中にはある。そうなってしまうことが怖かった。

そんな煩悶とする中で、『シン・ゴジラ』が公開になった。

実際に大学の授業でも『シン・ゴジラ』が題材に使われた。それは今も書籍になっており大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』という本に収められている。ぜひ興味があればご一読していただきたい。

ここでは、少し天皇制と絡めて「ゴジラが皇居を破壊しないのは…」みたいな話がされている。勿論、それはそれで面白い考察なのだが、まあそれは別に僕がここで書くことではない。実際に読んで貰う方が非常に有意義だろう。僕は個人的にだけれども、やはりこの『シン・ゴジラ』は本当に凄い作品であると思う。それについて少し今までの流れを汲んで僭越ながら書いてみようと思う。

まず、端的に言うならば、この作品は1954年『ゴジラ』と『ゴジラvsビオランテ』から『ゴジラvsデストロイア』の流れを再度先鋭化して表現しなおしたものである。つまり、今までの「ゴジラ」という存在の本質を東日本大震災を踏まえたうえで新たに定義しなおした。これは非常に素晴らしいことだと僕は思っている。

『シン・ゴジラ』はゴジラを原発そのものとして取り扱っている。これは今までメタファとしてしか取り扱われなかったものを、もはやそのものとして表現している。特にそれが表現されているのは、やはり緻密な描写による自衛隊や国の対応が正しくそれである。綿密に描かれた、ある種のオタク根性とでも言うのだろうか、そこが物凄く良かった。そして何より、ある意味でドライに描かれているのが個人的に評価が高い。

今までのゴジラは人間関係やその周辺の家族関係が描かれており、それが話の中心に据えられていたものが排除されている。家族愛や恋を予兆させるものなど、そういったものを一切感じさせない。ただ淡々と事実が続いて行く。そういう描かれ方によって僕等はゴジラとどう向き合って行くのかが描かれるのである。だが、言ってしまえばこの『シン・ゴジラ』は結果でしかない。「どう共存するのか、どう共生するのか」という問題を描くことは現実的に不可能である。つまり、東日本大震災での原発事故という事実から眼を逸らさせない。そういう印象を僕は受け、そこが僕には刺さった。

起きた結果としてそれをどう捉えていくのかということが描かれる。今までのゴジラは危険性があるゴジラとどう向き合っていくのかということが中心だった。ところが、それを考えるよりも既に起きてしまったという事実がある訳で、それをどうにもすることが出来ない。ある意味で、平成ゴジラシリーズの三枝の態度そのものである。

この『シン・ゴジラ』は今までのゴジラのあるべき姿、本来的な部分を丁寧に拾い上げている感覚である。だから初めて見た時には驚いたものである。そして感動した。これが正しくゴジラの恢復であり、令和時代に於ける新たなゴジラ像として非常に意味を持った映画であると僕は言えるのではないかと思うのである。

何と言うか、僕は個人的にこれでゴジラが完結したと思った。ゴジラの集大成とも言うべき作品がここにあり、僕は実際これで満足したというと些か変な表現になる訳だが、「やっとゴジラが帰るべき場所に戻って来た」という感じで感動した。これでゴジラが綺麗に終幕を迎え、また新たなゴジラ出現はいつになるかなと期待で満たされた。

だが…。


⑧『ゴジラ-1.0』〈2023年〉

『ゴジラ-1.0』(2023年)

再び、ゴジラはゴジラそのものから遠ざかる。更に質が悪いのは、家族愛を中心に据え、ゴジラと対になるものも存在しない。ゴジラを媒介にした家族愛。それが描かれ続ける。人間模様。それはそれで見るのならばいい訳だが、しかし一介のゴジラファンからしてみると納得いかない部分が多い。先の繰り返しになるが、だったら『Always3丁目の夕日』を見た方が良い。

もうこれ以上は語るまい。だが、1つ言わせてもらうのであれば、今までのゴジラの悪い所どりを総出で受け入れてくれたという部分に於いて個人的に評価している部分ではある。

思う所はそれだけだ。何故ならば、僕のゴジラは『シン・ゴジラ』で完結したのだから。


はてさて、長ったらしくここまで書いた訳だが、やはりゴジラは面白いなと思う訳だ。何だかんだ色々とあること無いことを沢山書いてきた。あくまで、これは僕の感想であって大したことではない。僕は過去の記録でも散々書いているが、僕の書いていることなど出鱈目である。だからあまりあてにしない方が良い。これだけは大切なことなのでここに記しておく。

いずれにしろ、僕はゴジラが好きだ。

以上。

よしなに。










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