見出し画像

雑感記録(205)

【タナトス的しんちゃん】


昨日、好きな映画について久々にアツくなって語ってしまった。

それで今日は『レザボアドッグス』を見ようと思って1日気合いを入れたのだが、見ることは叶わなかった。理由は単純で僕の体調のコンディションが良くなかったからである。最近、気圧の変化が激しく中々体調が優れない。僕は元々、頭痛持ちの人間であり、低気圧の時は頭が重い。加えて、低気圧の日は不眠症みたいな感じになる。結局、昨日から今日に掛けて寝られず映画を垂れ流しにしていた。

まあ、日を改めて『レザボアドッグス』は集中して見ようと思う。

今日はやたらクレヨンしんちゃんの映画を垂れ流しにしていた。

大人になると幼少期に見ていたアニメがどうも懐かしく感じられる。それはそうだ。ある意味で僕を構成している1つの要素ではある訳だから、懐かしく感じるのは当然のことである。幼少期はとにかくその面白さに注目して見ていたが、成長し汚い大人になると見方が変わる。僕も今日、ずっと『クレヨンしんちゃん』の映画を垂れ流して「懐かしいな」と思いつつ、実は結構深いんだなと感心してしまう所が多かった。

ということで、今日は軽く、『クレヨンしんちゃん』のススメ的な感じで、『クレヨンしんちゃん』について考えた事を書いてみようと思う。


実は『クレヨンしんちゃん』の映画については過去に記録を残してある。

この記録では『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツオトナ帝国の逆襲』について書いた。作中の描写から時間性とそのストーリーの親和性について書いた。今日も再びこの映画を見て同じことを考えた訳だが、やはりこの映画は凄い。文学的な映画であると言うと過言だけれども、でもそれぐらいに考える場所が多い深い作品である。

最近、僕は頻繁に古井由吉の『招魂のささやき』のエッセーから「自分自身から零れる時間と向き合う」ということについて頻繁に書いている。色々書いていく中で手触りを感じていた訳だが、この映画は正しくそれを映画全体で体現しているのではないか?ということを改めて感じたのである。

僕はね、「自分自身から零れる時間と向き合う」ということが大切なのではないかと常々書いているが、この映画を再び見て、過度に向き合いすぎてはならないなと感じた。過度に向き合ってしまった結果が映画に於ける「オトナ帝国」というものになる訳で、そこに留まろうとする力が働いてしまう。ある種、この「オトナ帝国」は大人たちが「自分自身から零れる時間」に怯えてしまった結果としての産物なのである。

この映画は時間に怯える大人たちと、その時間を受け入れていくある種タブラ・ラサとしての少年少女との対立で描かれる。ただ重要なのはこの二項対立の中間に居るのが野原一家である訳だ。カッコよく言おうか。脱構築としての野原一家な訳だ。

野原一家も作中では当初、ひろしとみさえは「オトナ帝国」へ向かう訳だ。しかし、しんちゃんによって現実世界に引き戻される。二項対立の一方側に行くのだが、それを引き戻すためのしんちゃんが存在する。当然に主人公な訳だからキーパーソンではある訳だ。それで、しんちゃんに引き戻されて「オトナ帝国」は悪だ!という様な感じになり、完璧な二項対立に行きかける。

ところが、「オトナ帝国」側の2人、つまりはケンとチャコ。この2人と野原一家がお茶をする場面があるが、あれが1つの転換点である。二項対立がうやむやになる瞬間である。あの一連は僕は個人的に感動している場面だ。ケンが予告する。「これからお前らが生きている現実が無くなる。装置を動かす。だから止めるなら今から行け。」と丁寧に言ってくれる訳だ。この瞬間に「悪」とされていた「オトナ帝国」が実は「悪」ではないということが徐々に示唆されていく。ここの場面がこの映画のミソである。

その証拠として、装置に向かって行く中でひろしが涙を流しながら車を運転する場面のセリフ。「クソ!なんでこんなに懐かしんだよ、ここは!」ここに収斂されているような気がするのである。懐かしさに悔しさを感じるということはある意味で時間に怯えた人間である様相である。しかし、行動として行っていることはその懐かしさから抜け出すという相反することをしている。セリフとやっていることの矛盾である。

矛盾というのは、要するに身近な脱構築ではないだろうか。

しばしば、矛盾しているということが「悪」という認識が蔓延っている。確かに言っていることとやっていることが違ったりすることはあまり良いことではない。仕事や人間関係に於いて1つの疑念の種として植えつけられ、そこから相手に対する不信感につながる場合も当然にある。しかし、そんなネガティヴな矛盾ばかりではないと僕は思っている人間である。矛盾の背景にある所まで想像して初めてポジティヴな矛盾かネガティヴな矛盾かは判断すればいい。

矛盾は僕が思うにだけれども、ひろしのように二項対立を見直す為に必要な行為なのではないかと思う。矛盾によって迷惑をこうむるのは確かにたまったものでない。しかし、きっとだがその人はその人なりに自身に設定された二項対立から抜け出そうとしているのではないだろうか。だから矛盾に対して腹が立つなら、きっとその裏には何かの対立関係が存在し、そこから抜け出そうとしている自己防衛的な行為だと考えて見放すのではなく、逆によく注目してみると良いのかもしれない。


それでね、『クレヨンしんちゃん』の映画を見ていると、どうもタナトス的なものを僕は感じてしまう。つまりは「死への欲動」という所から出発している訳だ。二項対立の片方をぶっ潰すという、相手に対するある種の「死への欲動」により突き動かされている訳だ。

まあ、これは僕もフロイトを詳細に読んでいる訳ではないから詳しくは語れないのだが。少し「タナトス」という言葉にだけ本当に簡単に、サクッと触れておく。「タナトス」は先に書いた通り「死への欲動」ということである。ちなみにこの「タナトス」の対義語としてあるのが「エロス」であり「生への欲動」である。従来は人間は快楽のために生きる(=エロス)存在であった訳だが、第1次世界大戦以後フロイトが帰還兵の治療中に、実は人間と言うのは破壊するために生きる(=タナトス)のではないかということを考えた訳だ。

「タナトス」と言うのは簡単に表現するならば、何か事物を解体し破壊しようとする欲求であり、これが潜在的に人間の内部にあるということである訳だ。生とは「エロス」と「タナトス」によって成り立っている。そしてそのどちらかが偏ると例えば破壊衝動と言われるものになるだろうし、性に対する飽くなき探求は「エロス」そのものであるだろう。

『クレヨンしんちゃん』は小ネタで所謂「エロい」ことを連発している訳だ。ある意味でエロス的な様相を呈している訳だが、実は『クレヨンしんちゃん』は「エロス」ではなく「タナトス」の世界なのではないかと思ったのである。このタナトス的『クレヨンしんちゃん』について考えたい。そこで、『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』から少し考えてみようと思う。

と書いてみたは良いものの、今僕等が見ているあらゆる作品はタナトス的なものばかりではないか。『クレヨンしんちゃん』に於いても一応この映画を例に挙げている訳だが、他の『クレヨンしんちゃん』の映画も大体タナトス的である。たまたま今日これを見たので、これについて語るというだけである。

あらすじとしては簡単だ。焼肉を食べようとしている日に、変な事件に巻き込まれ、その諸悪の根源をぶっ潰しに行く。ただそれだけの話だ。この映画の敵になる有限会社スウィートボーイズは熱海に対する復讐として「熱海サイ子」という機械を利用しようとしている。そうなった原因としては、経営する旅館が閉館になった時に熱海は何もしてくれなかったということらしい。まあ、大人げないというか…。

このスウィートボーイズは結局のところ「エロス」を求めていた訳だ。快適な生を求める為に熱海に復讐をする訳だ。しかし、結局その「熱海サイ子」の機能は他人の脳に暗示をかけて人々の心を掌握するというものであり、「エロス」を求めていたにも関わらず、その実は「タナトス」によって突き動かされている訳である。熱海を破壊することが生の目的と化してしまったのである。野原一家に対立する存在はいつも「エロス」で動いているように見えるが、実は「タナトス」により動かされている。

それに対して野原一家はどうだろうか。

野原一家にはこの映画の場合「春日部に戻って焼肉を食べる」という目的によりスウィートボーイズをぶっ潰す。突き動かしている物は「エロス」である。つまりは、生に対する快楽。食べ物を食べるという行為は人間の原初的な欲求な訳で、食事も生に対する快楽、つまりは「エロス」であると言える。ところが、その「エロス」を達成するために「タナトス的」になるのである。要は本来的には野原一家にとってスウィートボーイズは居ても居なくても関係ないが、自身の「エロス」を達成するために「タナトス的」に振舞わざるを得ないのである。

結局、この映画は「焼肉を食べる」というたった数秒の最終部の映像(「エロス」)の為に延々とスウィートボーイズを倒すまでの、「タナトス的」な場面が映画の中心になってしまっているのである。そうして他の映画も基本的にはそうだ。野原一家は「エロス」に突き動かされているが、対立する存在は「タナトス」により突き動かされる。しかし、作品自体でその「エロス」部分は最終部にちょっと映し出されるだけである。映画で映し出されるのは「エロス」により動いている「タナトス的」行動をとっている野原一家が延々と写される。

『クレヨンしんちゃん』を「タナトス」作品と言わないのはそれにある。「エロス」により動いているのに、振舞いは「タナトス」である。だから僕は『クレヨンしんちゃん』の映画は「タナトス的」だと思うのである。


さてさて、もはや何を書いているのかよく分からん。

あの、注意だけしておくと、僕が書いている「エロス」と「タナトス」の話についてはあんまりあてにしない方がいいぞ。せいぜい10分ぐらいで考えたことだから。「またテキトー書いているよこいつは」と思って読んでください。

よしなに。





この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,955件

#映画感想文

67,197件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?