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雑感記録(161)

【書けないけど「書く」】


ここのところ、「文章を書きたい」という気分になれないでいる。過去の記録でも何度か書いているが、元々僕は「三日坊主」という性質である。とはいえ、好きなことであればこれまでそれとなく継続できているのだが、如何せん最近はどうも様子が変だ。「何かを書きたい」という欲望はあるから書き始めて一応決着は付けるのだが、どうもしっくりこなくて消してしまっている。消しては書いて、消しては書いての繰り返し。そういう状態がここ1週間続いている。

僕は別に職業作家ではないので、文章で飯を食っている人間ではない。というか、そんな大層な人間ではない。日々、書き終えては消して、書き終えては消してという作業を繰り返し「やっぱり小説家や批評家はすげえや」と改めて思い知らされる。それは先に「それで飯を食っている」ということとは別に、「最後まで書き上げる」という行為そのものに尊敬の念を禁じ得ない。それが例えどれだけ売れていない人でも、陽の目を浴びていない人でも、陳腐な作品を量産していても、その1点に於いては尊敬に値する。

僕はこれまで「好きなことであれば、どんなことであれやり続けることが出来る」と信じて疑わなかった人間である。しかし、今こうして煩悶としてこの文章を書きながら、「実はかなり無茶を言っているんじゃないのか?」と思われて僕には仕方がないような気がしてきた。好きなことでも辛いものは辛い。というよりも、好きだからこそ辛いのではないかと。

一時期、まあ、これも過去の記録に記したが、僕は小説家か詩人になることを夢見たことがあった。どうしてなりたいかと考えた時、僕は明確な答えを自分自身に持ち得ていなかった。しかし、少なくとも「好き」という事が根底にはあったのではないかと確信している。「ただ書きたい」それ以上でも以下でもない。その欲動に赴くまま、ただ漠然と思っていたのかもしれない。いや、事実そうだ。「かもしれない」ではなく、そうなのだ。僕は僕の欲動に従ったのである。


電話。入電。――――14:51―――14:54――――切断。メモ。続き。


何だか集中の糸がプツンと切れてしまった。今自分で読み返してみても、ちょっと何を書いているのか分からない。何だか「好きなことなら続けられるなんてのは嘘っぱちだ!」みたいなことを書きたかったのかな?よく分からないな。せいぜい、数分前に書いたことを忘れてしまうなんて下手したら僕は病気なのかもしれない。確か、そんな映画があったような、ないような…。

妻が強姦される瞬間を目の当たりにし、そのショックで10分以上の記憶保持が困難になってしまった主人公。僕は全然違うけど、「電話に出る」という衝撃で一瞬記憶を失った。しかし、書いてあるものを読めばいいだけの話である。彼は身体に彫りまくっている訳だが、僕の場合にはこの画面で書いて残してあるのだから容易に見返せる。僕が10分以上の記憶を保持することが出来ればの話だが。

しかし、どうだろう。「容易に見返せる」と書いてみたものの、実のところこれは難しいのではないか。というよりも、「見返す」という行為自体は容易であるが、それがどういった意図でどういう感覚で書いていたかという事を思い出すのは難しいはずだ。現に僕はほんの数分の電話によって、先程まで書いていた時の感覚(ここ重要。あくまで「感覚」)が全く思い出せない。

書く時の「感覚」というか、肌感を以てして文章が書かれるという事は往々にしてあると僕は思っている。何か起きた出来事を「言葉」にするという事はそれを自分の意志によって敢えて記号に置き換える作業そのものである。つまりは、別にこれらは「個人の体験」として自分のうちに秘めておけばいいだけの話であり、わざわざこうして書く必要もないっちゃない。

では、なぜこうも書かずにはいられないのだろう。我々人間は「書く」という手段を手放せずにいるのだろうか。デリダは「音声中心主義」つまりは現象学的な現前すること、つまりは「自分の声を自分で聞く」というところから出発できないという事に異を唱えていた訳で…。


電話。入電。――――15:23―――15:26――――切断。メモ。続き。


それで、また何の話をこれから書こうと思っていたのか忘れてしまった。何を書いているかは分かるのだけれども、「これから」何を書こうとするのか忘れてしまった。しかし、僕の中でこれだけは頭に何となくであるが、うっすらと、そしてふわふわと浮かんできている。デリダについて書いたことが功を奏したのかもしれない。我ながら素晴らしい。

前回の記録だったかで、僕はここ最近、言語学方面に興味が湧いてきておりそういった本を読むようになった。きっかけはこれも過去の記録に記したがじんぶん堂の柄谷行人のインタビューである。再度掲載しておく。

この中で、柄谷行人がイェール大学での話をするのだが、そこでポール・ド・マンの話をするのである。ポール・ド・マンを知らない人のために簡単に説明しておくと、彼も所謂文芸批評家であって対象としていたのはイギリスのロマン主義以降の文学やら哲学やらである。僕が興味を持ったのは「文学に於いて脱構築を導入した」みたいなことが書かれてあった箇所である。

ちょうど僕はデリダも読み始めていて、実はnoteを書いていない最近では『声と現象』を読み終えたところである。正直、フッサールの『イデーン』を読んでいないと理解するのが困難である。僕は当然のごとくフッサールは触れてきていないので、何がなんやらといった感じである。現前性がどうちゃら、ああちゃら言われても分からんものは分からん。

それで、変なことを考えた僕は「待てよ」と。「デリダからポール・ド・マンを読むのではなくて、ポール・ド・マンからデリダを読んだ方が実は早いんじゃないか?」と何をとち狂ったこと…。ということで早速、届いた『読むことのアレゴリー』から読み始めているのだが…。うーん。これまた難しい。でも、デリダよりは難しくないことで安堵する。

まあ、何にせよ、面白い。まだ1章しか読めていないが、これから先を読むのが愉しみである。と書いていて「本当にそうか?」と思う自分が居ることにはたと気づかされる。


電話。入電。――――15:58―――16:03――――切断。メモ。続き。


難しい文章。しかし、何を以てして難しい文章と言うのか?それを考えることの方がよっぽど難しい気がすると思うのは果たして僕だけなのだろうか?いやいや、むしろ読んでいる僕が一方的にそこに書かれていることを「これは難しいことが書かれている」と意味付けしているに過ぎないのではないのか?うん、これだ。そう。これだ。

恐らくだけれども、そこに書かれていることは結局のところ「記号の集合体」でしかない。そこに書かれている記号はそもそも内容を知らない人たちに伝えるという前提の下で書かれる(はず)である。つまり、それが共通認識ではない所の人に届けるのである。共通言語を持ちえない人同士の会話。マルクスが言うところの、そして柄谷行人が「教える―学ぶ」という図式で見事に示した言語の「命がけの飛躍」そのものなのである。

僕はその「命がけの飛躍」に対して、ただ突っぱねているに過ぎない。しかも僕が能動的にそれをやってのけている。そこに何か書かれて在るということは、何かしら読み手がそこに意味を落とし込まねばならないという状況が必然的に生まれてしまうという事なのではないか。恐らく、こういったところがバルトの言うところの「テクストの快楽」とも関連してくる…?のかな?よく分かんないけど。

つまり、書き手は「ただ書いてる」に過ぎない。それにどんな意味があるのかを決定づけているのはあくまで読み手なのである。しかし、書き手は最初に自身の書いたものを読む人間であり、書き手も同時に読み手なのである。結局、誰が最初に読んだって、そこにある「ただ書かれたもの」に対して意味を与えて行くことで醸成していくものがテクストであるはずだ。

テクストって言葉は、ラテン語のtextus、まあ「織物」っていうところから来ている。そこから「言葉の織り成す連鎖としてのテクスト」という意味が生じたらしいんだけれども、これって「言葉の織り成す」というよりも「様々な読み手が織り成す」が正しいんじゃないかなって僕には思われて仕方がない。多くの読み手に読まれてこそ初めて作品として成立するのではないかと思う。

とこれを書いていてふと思い出したことがある。

いつだったか、大学時代の友人とそれこそ作家活動したいよなみたいな話をしていた時のことだったはず。みんなに親しまれる作品を世に生み出すか、誰か特定の人の目に着けばそれでいいんじゃないという考え方だったらどっちだ?みたいな話をしていたことがある。僕はその当時は圧倒的後者だった訳だ。別に売れなくてもいい。分かる人に分かればいい。そういう信念を持って作ればいつか人の目に留まると。

しかし、友人はもう1つの方を選ぶ。多くの人に触れられる作品を作りてえ。でも妥協は絶対しない。という感じだったはず!間違えてたらごめん…。今から僕は恐ろしく情けなく卑怯な言い訳をしよう。彼は単純に僕よりも「自身で作品を生み出す」という行為を常に繰り返していたからこそ、当事者であるからこそその実感に早く到達できたのだろうと思う。僕は彼よりも大分離れたところで創作活動していたので純粋に「経験の差」というやつかもしれない。

だからこそ、彼は凄いなと思って見ている。僕はここまでひねくれないとそこに辿り着けなかったけれども、彼はすぐに(かどうかは知らないが、少なくとも確実に僕よりは早い)気づけたのだから凄い。僕は遠回りしないとどうやら先に進めない人間みたいだ。


メール。受信。――――16:26―――16:52――――完了。返信。報告。


そういえば3日前から柄谷行人の『探究Ⅰ』を読んでいるんだけれども、これが凄く示唆に富んでいて良いのね。これも不思議なんだけれども、外国の哲学書というか、例えばそれこそデリダとかソシュールとか、あとはポール・ド・マンとか、あとそうそう最近はジジェクも読んでいるんだけれども、翻訳された文章ってどうも感覚が合わない。これは至極当たり前っちゃ当たり前なんだよね。

というのも、外国語で書かれたものを無理矢理に日本語にしている訳なのだから、理解が出来ない日本語とか多く出てくる。まあ、それを紐解きながら読むのも愉しいんだけれども…。そうすると1章ごとに疲れちゃって先に読もうという気になれない。気持ちだけが先行してしまって、身体がいつも追いつかなくなって頭がショートを起こす。

今僕は「ショート」と書いた訳だが、これは何らジジェクの『パララックス・ヴュー』に於ける「ショート」と同意味のことではないことを言っておく。ごくごく一般的な意味での「ショート」である。と言って伝わるかどうかはさておくことにしよう。いずれにせよ、哲学系は僕の場合海外作品を読むことが殆どなのでこういった状況に陥りがちである。

ところが、いや、わざわざ「ところが」って表現しなくても自明のことっちゃ自明のことなんだが、柄谷行人は日本人な訳だよね。本人がどうお考えかは知る由もないのだけれども。でも、(僕にとっては)ものす凄く分かりやすい日本語で書いてあるから、感覚とでもいうのかな?凄く気持ちよく読めるのだ。僕は柄谷行人の著作が好きである。

 ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのようにう受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。
 たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の、"意識"においては、この"遅延"は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終ったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。
 このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。
 このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。私はべつにこのことについてのべるだろう。ここでは、ただ、テクストそのものに「意味生産性」があるかのようにいう"神秘主義"をしりぞけておくにとどめる(テクストはまったく無意味である)。

柄谷行人「話す主体」『探究Ⅰ』
(講談社学術文庫 1992)P.34,35

正直なところ、柄谷行人は読みやすい。何というか難しいのだけれども、ちゃんと丁寧に読み込んでいけば読めないことはないと僕は勝手に思っている。上の引用だって、小難しい言葉が使われているかもしれないが、実際に考えてみると「感覚」で分かる。「確かにこういうこと感じるときあるよね」みたいな感覚に陥ることがしばしばだ。

僕は今「感覚」と書いた訳だが、そう正しく柄谷行人の批評の面白さはこの部分にこそあるのではないだろうかと思われて仕方がない。詰まるところ、その「感覚」を喚起するという点に於いて他の批評とは差異があるように思われるのである。この言語で断定しえない何かをうまく包み込んでくれるような表現の数々。そう!この「感覚」を誘発してくれる!このある種の曖昧さが心地いいのだ。

僕はそれこそ何度も言うようだけれども、感覚とかも含まれるのだろうけれども「何でもかんでも言語化してやろう」という企みが嫌いである。そこにしかない感覚、僕にはこの文章を書いている僕の「感覚」がある。こうふわふわしたような気持のいい感覚とでも言っておこうか、表面上。そこに含蓄される「感覚」はもっと膨大なものだけれども。その膨大な「感覚」というのかな、言語化できない「感覚」を凄く大切に扱ってくれるような(それこそ!)感覚がするのである。

別にこう書いているのは単純に僕が書きたかっただけ。そう、僕は今ただ書いているのだ。書きたいことがないと感じていたけど、無理矢理にでも書き出してしまえば、ただ書いているのだ。何の意味もなく。ただ、今、この瞬間に書かれているこの雑感記録(161)というものは無意味な記号の集積である。なぜならば僕は「ただ書きたいこと書いているだけ」だからなのだ。

別に僕の文章をどう解釈されようが、それは勝手だ。というよりむしろその方が有難い。先の話の繰り返しとなってしまうが、テクストは「言葉の織り成すもの」ではなく「読み手の織り成すもの」であるからだ。だからこそ万人に読まれうる作品というのは時代を超えても読み継がれる。多くの人がその作品を読み、多くの読み手による解釈によってそのテクストは強度を増し現出する。そして新たな作品として生まれ変わるのである。

というように考えると、これまた至極当たり前のことだが、小説家は勿論のこと批評家の存在というのも必要不可欠になってくるのは間違えようのない、まごうことなき事実である。

「批評家の詩眼」を以てして作品に触れたい。それだけが僕の希望である。書くこと、そして読むことを


チャイム。共鳴。―――――――17:30―――――――業務終了。


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