雑感記録(212)
【腰痛の原因…?】
先日から左腰が痛い。
何かしらの契機があったかどうかは定かではない。歩くたびに痛い。しかし、この手の痛みは慣れっこである。大学時代に僕はギックリ腰に罹り、以来そこから腰痛と向き合わねばならない生活が始まった。気圧の変化でも腰がやられる。医学的に何かしらの理由があるかどうか、僕は専門的ではないので知らない。もしかしたら僕の思い込みなのかもしれない。しかし、思い込みで9年も向き合ってきたかと思うとその徒労が無駄になるような気もして、病気でありたくないのに病気を求めてしまうという些か不思議な状況である。
これはまあギックリ腰を経験したことのある人ならば分かるだろうが、腰を1度やられてしまうと動くことが出来ない。いや、そんな「動くことが出来ない」という言葉では些か表現しがたい鈍痛。あれは2度と経験したくないものだ。本当に全ての人間の動力を持っていかれる感じだ。ああなってしまうと自分でどうしようにもどうも出来ない。そのもどかしさとイライラでストレスが溜まり、ギックリ腰はそこに居座り続ける。身体的な安静だけではなく精神的な安静も求められる。そう考えるとストレスというものは眼に見えないから厄介である。
それで、僕のこの腰痛も何かそういうストレスが原因なのではないか?と勘繰っている訳だ。
なるほど、僕は危険だ。「運動不足」だし「喫煙」しているし。あとやはり僕が予想していたように「ストレス」も実は腰痛に関係してくるというではないか。僕にとって一体何が「ストレス」なのだろうか。そう考えながら1日を過ごし、生活を振り返ってみる。
しかし、振り返ってみても、「ストレス」に該当することがあまりない様に思う。別に職場での人間関係は決して悪くない。正直微妙な人も居るけど、そんな悪い人でもないし、何か嫌がらせを受けるという訳では決してない。それに以前、記録でも触れたが、僕は愛すべき神保町で毎日仕事をしているのだ。昼休みに古本を見て回って悠々自適に過ごしている訳で。こんな生活のどこに一体精神的負荷が掛かるというのだろうか。
自宅に帰っても好きなことをして過ごす。最近、木村伊兵衛のデカい写真集を購入したのでそれを見たり、吉増剛造の詩集を読んでみたり…。そうそう、中村雄二郎の『共通感覚論』を200円で購入できたのは嬉しかった。まだ読めていないが、眺めているだけでも何だか嬉しい。しかし、何だか古本を沢山買っていると「物欲にまみれた人間」みたいな感じがするな…。
ただ黙々と見たり、眺めたり。飽きたら別の本読んでみたり…というような毎日である。時たま映画を見たりなんかもする。最近だと、頭を使わなくていいような(というと失礼極まりないが)作品を中心に見たりしている。そうだな…『クレヨンしんちゃん』の映画は声優が矢島晶子さんのものは全て見た。それ以降の作品は見ていない。それにひろしも声が変わっちゃったでしょ。あれが個人的に1番残念だったんだよな…。藤原さんの声が聞けなくなるのは悲しい。
昔の『クレヨンしんちゃん』を見ていると面白いのね。本当に頭を使わずに愉しく見れる。と言っておきながら僕は以前に『クレヨンしんちゃん』をタナトス的な視点で見るという訳の分からないことをやってみたりしたのだが。あれはまあ、本当に出鱈目ばかりだからあてにしない方がいい。ただの思い付きで書いてしまったから、フロイトもちゃんと読めていないのに「エロス」と「タナトス」の話を持ってくるのは今思うと、愚の骨頂だ。
あとは…そうだな…。あとはアニメを垂れ流ししたりしているかな。Netflixで『ボボボーボ・ボーボボ』が配信になったからそれを見ているんだけど、くだらなくて面白いんだ。僕は小さいときにあれをテレビで見ていたら、父親にめちゃくちゃ怒られた記憶がある。「こんなくだらないもの見るな!」と。その当時は「なんで?」と思ったけれども、今こうして年齢を重ねてみてみると何となくだけど分かるような気がしなくもない。
しかし、意外と見てみると結構面白い。話に一定のストーリー性を求める人には苦痛かもしれない。僕は久々にこれを見た時に、思わず感動してしまった訳だ。ボーボボってある意味で至極曖昧な存在で、話の中心には居るんだけれども、それが突然弾き出されて、ドンパッチがメインになってみたり、ところてんのすけが主役を張ってみたりと、代わる代わる進んでいく展開。僕はここにね浅田彰が言うところの「クラインの壺」構造をここに感じた訳だ。つまり、ボーボボによって魅力が引き出されることもあれば、ドンパッチがボーボボの魅力を引き出す時もある。価値の源泉が移動していくのである。
もう少し詳しく説明すると、例えば今のアニメと言うのは大抵、主人公が中心で話が進んでいく。それは当然である。その主人公と言う1つの価値の源泉によって周囲は関係づけられていく。主人公が中心となり友達や先生や家族や恋人や敵や…というように価値を決定されて行く。つまりは、どのアニメも主人公が中心となって出てくる奴全員を価値づけている行為が物語全体となっている訳だ。
主人公が突出していることによって、お前の役割はこうでとかこの作中に於いてはこういう立ち位置でと決められてしまう訳だ。『ドラゴンボール』なんかそれの典型だと思う。孫悟空って言う価値体系の標定が居て、彼が居るからこそ周りのクリリンやヤムチャや天津飯やチャオズ、まあその他色々が関係づけられ、孫悟空の物語として成り立つ訳だ。その証拠に『ドラゴンボール』ではしばしば天界での悟空が描かれたりする。死してもなおまだ話の中心として動かさなければならない。と言うか居なければ回らない。
しかしだ、『ボボボーボ・ボーボボ』に関しては全員が全員、それぞれがそれぞれの魅力がある。それぞれが単体で作品を回せる力がある訳だ。それを逆手にとって面白さを取るという構図も見受けられ、かなり面白い作品である訳だ。そう考えると、何だか『ボボボーボ・ボーボボ』は『ガンダム』みたいな様相を呈しているような気がしなくもない。
『ガンダム』については『ガンダムSEED/SEED DESTINY』の記録を以前残してある。あれにはデリダの脱構築と差延化という話を盛り込んで書いた訳だが、あれこそ出鱈目な訳だ。しかも、トイレで考えたもんだから大したことは書いていない。
『ガンダム』の魅力は所謂主人公にも、敵にも重厚なストーリーがあることだ。要するに、お互いに独立出来るのである。それ単体として作品として成り立つのである。その例証ではないが、『ガンダム』には様々なスピンオフ的な作品がある訳でしょう。その作品では本来的な主人公は不在だけど、それでも重厚なストーリーが展開される訳だ。そう考えると、『ガンダム』に出てくる主要人物はおよそ皆が価値の源泉足り得るのである。
そんなことを最近家では考えている。
さてさて、何が何だか話が見えなくなってきた訳だが、こうして振り返ってみるとあまりストレスは感じていないようである。それではもう原因は先に挙げた2つでほぼほぼ確定なのではないか?つまり「運動不足」と「喫煙」である。生活習慣病になる原因、諸悪の根源である。
「喫煙」については言わずもがなである。
東京に来て1人暮らしを始めた途端、僕は煙草の奴隷と化した。朝起きれば何本か吸わないと気が済まないし、昼休みには必ず紙タバコを2本吸う。帰りは神楽坂付近で紙タバコを2本吸う。自宅に戻り、料理をしながら煙草。風呂上がりの煙草。本読みながら煙草。note書きながら煙草。もう気が付けば延々と吸っている。今のところは辞められそうにないが、何かきっかけがあれば辞めようと思う。まあ、これは前に記録した。
でも、最近なんだけれども、紙タバコを吸うのがしんどくなった。辞めようと思うんだけど、何だかどうも踏み切れずにズルズル来てしまっている。銀行で勤めていた時、僕はストレスのあまり、電子タバコだけだったのに紙タバコに手を出した。やはり、紙タバコは美味い。非喫煙者にはこの美味さが伝わらないのだろうが、美味いのだ。電子タバコなんて比じゃないくらい美味い。ただ、冷静に考えてストレスのせいで紙タバコ吸い始めましたってのは女々しいよな。
「運動不足」に関してはその通りだとも言えるし、うーん…そうなのか?とも言える。これも過去の記録で残したが、僕は大概、土日のどちらか一方は散歩をする。遠くのスタート地点に電車で向かい、地図やスマホなど一切使わずに帰ってくるチャレンジである。それについても過去の記録参照されたし。
最近は仕事も歩いて帰るようにしている。しかし…我ながら恥ずかしいのだが、ハイボール片手に飲みながら歩いて帰るのが愉しい。お酒のせいで急性膵炎で入院した僕だが、気をつけたいところではある。こんな所でなぞ、再び倒れたら今度はただじゃすまないだろう。と言いつつ、これを毎日やってしまっているのだから危険だ。自分でも分かっているんだが…。辞められない。
危険だ。と言う気持ちを心に秘めながら毎日、爆音で音楽を聞きながら周囲の全てを遮断し、ハイボールと景色を味わいながら帰宅している。今日もするだろう。確実に。急性膵炎の再発とアル中になることだけは防がねばなるまい…。気をつけたいところである。そう考えると、実際運動しているようで、平日はお酒を飲みながら帰るのである意味でプラマイゼロ。休日もたった1日だけの運動なのであんまり意味がない。
どうやら僕の腰痛は「ストレス」ではなく「運動不足」と「喫煙」によるものであることが分かった。
皆さんもぜひ体調気を付けて。
よしなに。
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