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海と椎名林檎とわたし

椎名林檎さんの曲しか聴かず、海を見にいく。暮らすこと=それ。だけの時期があった。一応、周りの人にはバレないように人間活動としての生活業務はしていたけれど、それ以外の全ての時間は椎名林檎さんの曲を聴き、海に行って泣いていた。

それが生きる目的になっていた。
毎日毎日同じことをただ繰り返していた。

この時の事を知っている人はいない。
そしてきっと一生この時の話を誰にもしないまま、わたしは死んでいくと思う。

わたしの人生の中で、この時ほど苦しんだことはない。記憶も薄れるほどの時間は過ぎ、思い出すこともほとんどないけれど、こうやってまだ書けるということは、定期的に引き出しから出してしまう現象のような、むしろ忘れてはいけないと思っているのかもしれない。

その時に椎名林檎さん(以下敬称略)の曲を選択したのには理由がなかったように思っていた。椎名林檎のデビューは衝撃的で、同郷であり出身校が近かったものあり、地元ではデモテープまで出回ってブームの巻き起こり方が異常さを見せていた。

ビジュアル含めて、同年代からすると憧れとしてはもちろん、強いメッセージ性とカッコよさを自分も演出してOKだ!と言われているようだった。しかもそんな女子たちを今まではあまりよく思っていなかったであろう男子たちも「椎名林檎っていいよね」という色っぽさを発見するようになってから「椎名林檎をカラオケでうまく歌うとモテる」みたいな、いわばわたしにとってフィーバータイムのような時期が到来したのだ。

わたしにとっては、椎名林檎のキーも歌いやすさも、声量も、脱力感も、上から目線も、斜めな感じも模倣しやすくて、「カラオケで椎名林檎を歌わせたら、マジで上手い!」という存在として、合コンで大活躍していた。とはいえ、合コンそのものでモテるわけではないから、今思うと、カラオケでものまね営業をしていたんだろう。

というわけで、つまり、
そこに椎名林檎がいたから。くらいな気持ちでいつも曲を聞いて、カラオケで歌っていた。

車の中にも家にもウォークマンの中にも椎名林檎がいっぱいだった。

もちろん、椎名林檎以外の曲も聞いていたし、たくさんのアーティストの曲も記憶していた。

しかし、ある時あることが起こった瞬間から、わたしは椎名林檎しか聴けなくなった。聴こえなくなったのだ。

もう椎名林檎以外の誰の曲も耳に入ってこない、むしろ、椎名林檎以外の声を声として認識できなかった。他のアーティストの声はものすごい騒音に聞こえるようになった。診療されたわけではないけれど、脳内で何かの変換が起こっていたんだと思う。人が話す言葉すら、雑音騒音が脳内に流れて吐きそうだった。椎名林檎の声だけがまともに聴くことができた。

確実にわたしの感情はぶっ壊れ、脳が完全に変異していたのだろう。そんな自分がものすごく怖かった。家から一歩も出たくないけれど、家から出ないと家族が心配するし、心配されたとしても絶対に何も話さないと決めていたから、心配のきっかけをつくってはいけないというミッションもあった。

家族はもとより、その先に関わる全ての人に対してそう思っていたから、自分の部屋の扉を開けた瞬間から「装います!」という状態で過ごすことを決めた。むしろその行動こそが、わたしを支えていた。

それからわたしは、装っている間も移動中に椎名林檎を聴いていた。椎名林檎でわたしを保っていた。毎日怖くて震えていたけれど、その震えを止めることができるのは誰かに頼るのではない、誰かに頼っても1ミリも解決しないという確信があった。誰かに頼れるなら、今すぐあの世から誰か迎えに来て欲しいと願っていた。

海と椎名林檎だけがわたしの味方だと思っていた。しかし今現在、椎名林檎の曲を聴いても、その時のことがフラッシュバックすることはない。だから椎名林檎の曲が、あの時日々泣いていたわたしの投影ではない気がする。それに、ずっとその頃からも今も変わらず椎名林檎という存在を尊く想っているし、好きだし、憧れのまなざしで見ている。嫌な思い出には何一つなってない。

最近、椎名林檎の曲が偶然耳に入ってきて、久しぶりにまとめて椎名林檎曲を堪能してみようかなとふと思った。アルバムリストを見ていると、やっぱりなんだかんだの『無罪モラトリアム』がいちばんに選ばれた。1stアルバム。最強だ。

そして、聴きながら想った。わたしがあの頃から定期的になぜか海に行ってしまう理由と、定期的に聴いてしまう椎名林檎の意味を。

完全に、戦闘モードをチャージしようとしている。海で癒されたり、椎名林檎の曲で浸ったりしない。

わたし自身は生きる力が弱い。もともと生まれた時から生きる力が極端に弱い。周りに話すことはなかったけれど、本当に息を吐くように死を願う子どもだった。特に何もない日々にぼんやりとどこかの霊が連れ去るように死を願っていた。

だから驚くほどよく食べて、肉体が強くて、風邪ひとつひきたくてもひくことすらできないくらい強く肉体が作られてしまっている。神が残念ながら貧弱で死んだりできないんだから生きるしかないという肉体を授けたんだろう。

「スイッチ」という松たか子さん出演の邦画で「君は目を離すとすぐに人を殺しに行ってしまうから。」と阿部サダヲさんが言うセリフがあるんだけど、それでいうとわたしは「君は放っておくとすぐに死のうとしてしまうから。」という人間だ。言われたことはないけれど。

実際には究極の臆病者だから、行動に起こすことすらできない。臆病者のメンタルも神の仕業で授けられてしまったらしい。

つまり、事件があるとかないとか、生きることがつらいとか悲しいことがあるとかそういうことではなくて。ただ、「え~あ~今日も生きるのか、生きにゃならんのか、いつまで寿命は続くのか、生きるってめんどうくさい」と思ってしまうレベルの、本当に人間として罰当たりな欠陥品なのだ。

その気持ちに、どうにかわたし自身としても折り合いをつけたい時に、「いや待って。生きよう、びびるな!生きることにビビらずにとりあえず生きる力を呼び起こすのだ!うぉーー!!」ということで、椎名林檎の楽曲を耳を通じて脳に届けておく。自己洗脳だ。生きる知恵だ。

あの時、椎名林檎を聴いて海でただ泣き、人類が滅びることを毎日祈るほどの悪魔だったのに、結局生きることを選んだ自分が、今まだ生き続けるわたしを創っている。

暗い、ああ、暗い話だ。

辛いことを乗り越えて今の自分があるとは全く思わない。わたしにとってその瞬間つらかったことは、誰かにとっては大したことではないかもしれないし。

でも同じように誰かにとってはたいしたことではないことで、今あなたが死を望んでいるとしたら、戦闘力の高い音楽を一度聞いてみることをおすすめする。もちろん、椎名林檎じゃなくていい。

ただ、悲しさに同調するような、自分の今の気持ちを代弁してくれるような歌ではなくて、全く違う、聴いているだけで自分の心の中から強く立ち上がる、なんなら憤りを感じて爆発するくらいの強い楽曲でそのこころを呼び覚ましてみてほしい。

これを持っていると、定期的に訪れる苦しみとか困難に奮起できる。歌詞そのものに意味がなくていい、サウンドの感じだけでもいい。聞いていて、「なんかマジでむかついてきた!やったらいいんだろうがよ!うるせーよ!!」と思えるくらいでちょうどいい。

表現がとっちらかってしまったんだけれども、逃げ場になる場所は人間じゃなくても大丈夫。物理的な場所と音楽で立ち上がれば、1歩くらいは進むことができるはず。

時間だけが解決することは絶対あるから、とにかくその時間をどう過ごすかが勝負。その間に1日1歩でも進んでいる感覚を味わっておくと、とりあえずまぁ明日も仕方なく生きようかなって思って、気づいたらまぁまぁ生きてる。だから今日も、今日とて、ご飯を食べたり人間活動をしておこう。

それでも無理ですごく苦しかったら、合コンでもしてみようか。わたしが椎名林檎を歌いに行くから。

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