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本音に正直で在ること。自分軸で生きること。

今日はパートナーの同僚であり友人(女性)のベビーシャワーの日だったが、私は行かなかった。
なぜなら、行きたくなかったから。

数週間前にパートナーから招待メールが転送されてきた時、本当に憂鬱だった。
私の本音は「絶対行きたくない」。だけど、それを伝えるとパートナーが不機嫌になり、口論になるから。
実際、すでに似たような状況で何度も喧嘩をしてきた。
これは国際結婚アルアルなのかもしれないけれど、カップル文化の欧米人vsそうではない日本人、という構図。
「カップル文化」というと聞こえは素敵だが、要するに、気の合わない旦那さんの親戚の集いが毎月3、4回以上あるようなイメージ。

さらに私という人間は、
「時間は命であり、有限である。だから、1秒たりともムダにしたくない。自分が本当に行きたい場所にしか行きたくない。会いたい人にしか会いたくない。自分の本音に正直に生きたい。長いものに巻かれたくない」と、極端なほど強く考えている。
そんな私にとって、行きたくもないパートナーの友人や同僚の集まりに参加させられることは、拷問でしかない。

それでも、一応努力はした。
具体的には、昨年は「行きたくない!」という本音を押し殺し、「行ってみたら楽しいかもしれないし」「彼らと仲良くなれるかもしれないし」と自分に言い聞かせ、誘われた集まりには一度も断ることなく参加した
その結果分かったことは、パートナーの友人と私はまったく共通項がなく、価値観も合わず、気も合わないということ。そんな彼らと過ごす時間は、私にとって拷問でしかないということ。

私の目から見た彼らの会話は、「上っ面だけの、超どうでもいい会話」に感じられた。
まるでエレベーターで乗り合わせたご近所さんと、場を繋ぐための天気の会話のような。中学生同士が、ハブられたくないからと、本当は興味もないのにさも興味があるように会話を繋ぐような。目は笑っていないのに、さもおかしそうに大袈裟に笑うような。
それに加えて、超下品でくだらない下ネタジョークも連発されるので、非常に不愉快だった。

正直、パートナーの友人たちと会ったことで、私はパートナーとこの先一緒にいられる自信がなくなった。
なぜなら「類は友を呼ぶ」「親しい友人たちを見れば、その人が分かる」と思っているので、あのような人たちが親しい友人であるというパートナーの人柄に対して、大きな疑問を感じたから。
これについては話が逸れるので、また別の時に深掘りしたい。

とにかく、私は昨年、「行きたくない!」という本音を押し殺し、誘われた集まりにはすべて参加した。
そして行くたびに、拷問を受けているような苦しみを感じた。
大切な自分の時間を、命を、超ムダにしていることへの苛立ち、怒り。
そのような集まりから帰宅すると、決まって、ウツ状態になった。
最近まで、そんな自分の精神の弱さに自己嫌悪していた。
しかしここ数日、自分と向き合って分かったことは、私にとって、ムダと感じることに時間を使うことは、自分自身に対する暴力であり、自分の命に対する冒涜だということ
だからウツ状態になるし、自分を見失うし、生きる気力が失せてくる。当然である。

「そんなこと言ったって、人生、時には行きたくない場所に行かなきゃならない時だってある」
「やりたくないことだって、やらなきゃいけない時もある」
「行きたくない場所には行かない、なんて、超ワガママだ。子供じゃないんだから、そんなワケにはいかない」
そんな声が聞こえてきそうである。
というか、私の中の私がそう言っていた。
だから私は昨年、自分の本音にフタをし、窒息するほどに押し殺し、我慢して、無理して、集まりに参加し続けた。
その結果、私は自分が生きている意味が分からなくなり、生きる気力を失いかけるほどに、鬱状態になった。
もっとも、私がひどい鬱状態になったのは、行きたくない集まりに行ったからなだけではないと思う。それは現象の一つであり、要するに、「自分の本音にフタをし、本音を押し殺したから」だ

過去の体験から私は、「本来の自分を押し殺し続けると、”自分自身”との繋がりを失ってしまう。その結果、鬱状態になったり、最悪、本当に死んでしまうこともある」と学んでいた。
それなのに、パートナーと結婚し、アメリカに来てからの私は
「パートナーを不機嫌にしたくない」
「パートナーと喧嘩したくない」
「時には本音を曲げることも必要。いつも本音に正直になんていられない」
「行きたくないから行かない、なんて、いい大人のくせにワガママだ」
等々、自分自身に対して大人の分別、常識を振りかざし、本音と違う行動をし続けた。
アメリカに来てから私が鬱状態になったのは、これが原因だと思う。
やはり人間は、本音(=本来の自分)を押し殺し続けると、自分自身との繋がりを失い、鬱状態になるのだ。
本来の自分=自分自身=内なる自分というのは、つまり魂というか、その人の持つ、生命の根源のようなものだから。
本音にフタをし、違う行動をすると、いのちが窒息してしまうのだ。
少なくとも、私はそう感じた。
だから私は、今度こそ本当に、本音にフタをするのはやめようと思う。たとえ誰かにワガママと言われようと、自分の中の自分が「ワガママ!」と非難しようと、気にしない。
それでパートナーとの関係に亀裂が入り、一緒にいられなくなったなら、それはそれで仕方ない。
本音を押し殺さなきゃ一緒にいられないなら、無理して一緒にいたとしても、いづれ私の魂は死に、本当に死んでしまうだろう。
本音に正直に行動して一緒にいられないなら、残念ながら、運命の相手ではなかった、一緒にいられる相手ではなかったということ。

本音=自分軸

最近、「自分軸で生きる」という言葉をよく聞く。
私自身、「今までずっと他人軸で生きてきたけど、もういい加減、自分軸で生きたい!生きる!」と考えている。
ただ、「私の軸ってなんだろう?」と、自分の軸がまだ見つけられない、という気持ちも抱いていた。
だけど、今感じるのは、「自分軸」というのは難しいことではなくて、要するに「本音」ということなのではないか?ということ。
こう書くとバカみたいに単純に聞こえるけれど、大人になって社会で生きるとき、100%本音に正直に生きるというのは、簡単ではない。
私が昨年、大人の分別、常識で自分を言い聞かせ、本音を押し殺してしまったように、罠がたくさん転がっている。
100%本音に正直に生きるには、強さが必要だ。
「誰にどう思われてもいい」
「嫌われてもいい」
「批判されてもいい」
「別れてもいい」
「周りの意見よりも、常識よりも、自分を大切にする」
そういう強さ。覚悟。

それは、楽ではないと思う。
だけど、
「行きたくない場所には行かない(誰になんと言われても)」
「やりたくないことはやらない(誰になんと言われても)」
「面白くないのに笑わない(空気を乱すことになっても)」
など、日常の一つひとつを丁寧に、本音に正直に在ることを積み重ねることでしか、自分軸はつくれないと思う。
というか、そのように在ることが、「自分軸で生きる」ということなのではないか。

それで私は今日、パートナーと喧嘩になろうと、パートナーの友人たちに変人扱いされようと、嫌われようと、「ベビーシャワーに行かない」ことにした。

一瞬、罪悪感みたいなものが湧いてきた。けれど、しばらくしたら消えた。
今は、スッキリした気分と、自分自身を大切にできた満足感で満たされている。

この先、私が本音を貫き通すことで、パートナーとの関係がどうなるか、正直分からない。
だけど、私はもう、自分の本音を曲げない。
たとえその結果がどうなろうとも。

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