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健全でより良い人間関係に大事なこと

先日、キャサリンから心理カウンセリングの2回目を受けた。

もっとも、今の私は、このnoteと自己対話、それから感謝ノートのおかげで、アメリカ軟禁生活による鬱状態から完全に回復しており、カウンセリングは不要な状態である。今から予約するなら受けないが、数週間前に予約してあったので受けることにした。
前日までキャンセルすることもできたのだけど、保険で100%カバーされること、それから彼女はカップルセラピーと家族の関係改善が専門とのことだったので、パートナー氏との関係をより良くするヒントを何かもらえるかも?と思ったから。

結論から言うと、すでに知っていることを改めて聞いた感じではあるが、受けて良かった。

断り続けることへの、ほんの少しの不安

何を相談したかというと、彼と私の友人付き合いの違いについて。
このnoteでも最初の頃に書いたが、欧米人はパートナーぐるみで友人付き合いをする。パートナー氏も当然のように彼の友達の集まりに毎回私を誘うし、断ると「なんで?」と理由を聞かれ、気まずい空気が漂う。
最近は何度も話し合ったおかげでやっと、「日本ではそれは一般的ではないから、私はそう言う付き合い方に慣れていないし、何より、正直、あなたの友達とは気が合わないから行きたくない」ということを理解してもらえている。
だから最初の頃に比べたらだいぶマシにはなっている。
しかし、やはりまだ微妙に、彼の友達の集まりに私にも参加して欲しいと言う強烈なオーラを感じるし、実際、数回断ったイベントに「今度の金曜のやつさ・・」と、前日に再度誘われる、と言うことがしばしばある。断り続けるのも、結構ストレスだし、断り続けることで、関係が悪化するのかな?と言う思いも少しよぎる。

そもそもの話として、日本がカップル文化ではない以前に、私は生き方として、自分の本音に従って生きたいと思っている。損得勘定で動かないのはもちろんのこと、親しい人や大切な人からのお願い、といった義理でも、自分の心の声がNOと言うなら動きたくない。社会不適応と言われようと、嫌な奴と言われようと、自分勝手と言われようと、そこは絶対に曲げたくないし、曲げないと決めている。
なぜなら、どんな些細なことでも、自分の本音を無視したりフタをすると、だんだんそれが当たり前になり、その結果、自分の本音が分からなくなり、自分を見失うことになるから。

本音を無視して無理しても、誰もハッピーにはならない

昔、黒柳徹子さんのインタビューを読んだことがある。そこで彼女が、
「仕事のオファーでも、自分の本音で行きたいところにしか行かないし、会いたい人にしか会わない。本音では会いたいと思ってないのに仕事だから来ているなんて、相手に失礼だと思う。だから私が行く時、そして人に会うときは、本当にそこに行きたい時、その人に会いたい時なんです」
というようなことを言っていた。
かなり昔に読んだため記憶が曖昧なので、もしかしたら黒柳徹子さんの言葉ではなかったかもしれない。でも誰の言葉であろうと、そのメッセージを読んだ時私は、「確かに・・・!」と目から鱗が落ちた。特に、「本当に会いたいわけじゃないのに会うのは、相手にも失礼」というところ。
考えてみたら、まったくその通りである。
自分が「会われる立場」で考えた場合、「仕方なく」「イヤイヤ」「義理で」なんて、絶対に来て欲しくない。心から本当に、無理して欲しくない。
そのように考えると、本音では行きたくないのに義理で仕方なく行くというのは、自分も辛いし、相手にも失礼で、Win-Winの逆、Lose-Loseで、「誰得?」って話だ。

このような信念を持っているので、私はパートナー氏から熱心に誘われても、自分が本心で行きたいものではない場合、行かないようにしている。
しかし、やっぱり気まずさは残る。
特に文化の違いも考えると、私の態度はパートナーシップを育む上で問題なんだろうか?と気になり、キャサリンに相談したのだ。

キャサリンは一通り私の説明を聞くと、「なぜ行きたくないのか?」「一度も行ったことはないのか?」「彼の友達で一人も好きになれそうな人はいないのか?」など質問してきた。
何度も質問されるうち、カウンセラーとは言え、カップル文化のアメリカでアメリカ人として生きているキャサリンには、私のこの感覚はワガママに見えるのではないか?と不安になってきた。
それで、「私が悪いんですかね。もう少し妥協した方がいいんですかね」と訊いた。
するとキャサリンはキッパリとこう言った。
「その必要はない。だって、行きたくないんでしょう?あなたがNOと言うこと、それは英語で”boundary”(境界線)と言うものです。境界線は、パートナーシップに限らず、健全な人間関係を持つ上で必要不可欠な、非常に重要なものです。行きたくないのに相手に合わせてなんでも”イエス”と言うのは、それは奴隷です。境界線がないところには、尊敬もない。境界線をしっかりと持つこと。それを主張すること。これはどのような人間関係においても、必要不可欠な、とても大切なことです

私はそれを聞いて、心底ほっとした。と言うのも、過去の体験、つまり、私と母との関係、それから、母と祖母の関係を見ていて、境界線を引くことの重要さを感じているものの、パートナーに対してはもう少し境界線を緩める必要があるのかな?と、少しだけ自信がなかったから。

キャサリンはセッションの最後に補足として、「境界線を主張するのは必要だけど、冷たく突っぱねるのではなく、『どうして行きたくないのか?』をちゃんと伝えること、境界線は持ち続けた上で、コミュニケーションはちゃんととってね、コミュニケーションが、良いパートナーシップを育む上でとても大事だから」とアドバイスをくれた。

私の偏見かもしれないけれど、日本人は「和を重んじる」「村八分」などの文化的な背景もあって、境界線を引くのが苦手だったり、罪悪感がある人が多い気がする。(私でさえ、キャサリンに太鼓判押されるまで、ほんの少し罪悪感があった)
境界線の大切さが、一人でも多くの人に伝わり、無理して苦しんだり、人間関係がぐちゃぐちゃになる人が減ると良いなと思う。
私も引き続き、ビシッと境界線引いて、本音に正直に生きてゆきます。

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