多様性というジレンマにはまる現代人たち
近年急激にトレンド化している「多様性」という言葉.学校教育でも重視され、「今の社会はインクルーシブに多くの人が集まって構成されている」と教わるようになった.もちろん社会生活を行う上で多様性は主軸の基盤になっている.
例えば、電車の例をみると、車椅子専用のスペースが設けられている.(ベビーカーも含まれる)これにより日常的に車椅子生活を送っている人々はより快適に過ごすことが可能になる.
私はこの一定の身体不自由がある人々への補助という面で多様性のスペースを作ることはいいことだと思っている.ショッピングセンターのスロープなんかも助かるだろう.
もし自分の身体が不自由になった時に社会がそういう人たちに対応している構造になっていれば毎日を安心して過ごすこともできる.
しかしだ.最近では性別に関する多様性、思想に関する多様性など多様性の枠組みが幅広くなっている.これは社会生活を行う人にとって大きなネックになる.それは常に多様性の境界線について考える必要があり、ジャッジを間違えれば最悪の場合に訴えられる場合もあるような問題だからだ.
今の現代人は常に多様性に考えるあまり「多様性ジレンマ」に陥ってしまっている.まずは多様性に関してもう一度考えるべきではないだろうか.
多様性 ①男女で別のトイレは多様性ではないのか.
男女のトイレ問題は最近急激に議論が活発化し始めている.特に歌舞伎町では新たに建設された東急歌舞伎町タワーで日本初のジェンダーレストイレが導入され世の中を沸かせた.
まず議論の前提としてトイレというスペースにジェンダー的概念が必要かということだ.
トイレに行く=用を足す
これ以外はイレギュラーな事象が起きない限り考えにくい.しかし最近のジェンダーレス推進家たちは男性と女性共に同じトイレであるべきだと主張する.
男性トイレに男性が行くことと女性トイレに女性が行くことへ疑問を感じるらしい.そもそもトイレの構造は男女の身体構造に合わせて作られている.そのはずで女性用トイレに男性用の小便器は置いていない.
あれは男性の生物的構造に合わせて作られたものであり、男性はスムーズに用を足すことができる.これは間違いない事実である.これが反証されるならば全国にある小便器は撤去されるに違いない.
トイレとはそういうスペースなのだ.そのため男性女性という枠組みで分けられることは何ら問題ない.
実際に歌舞伎町タワーに設置されたジェンダーレストイレは約4ヶ月で封鎖された.理由は男性の性的接触を目的とした待ち伏せ問題やネット上での反論の嵐によるものだった.
本来生物的理由によって分けられたスペースを同じにしようという考え方が間違っていると認識されたのである.
この生物的違いによるジェンダー問題は他にも存在する.
多様性 ②風呂はジェンダーレスであるべきか
つい先日三重県の桑名市の温泉施設で男性が女湯で体を洗っていた事件が発生した.男性の主張は「心は女性なのになぜ入ってはいけないのか?」というものだった.
生物的な構造ではなく心理的な面で男性でも女性としての行動を行えることが認めるべきだと主張しているのだ.
この事件にも多くの世論が集まり、「心は女性なのになぜ認められないのか?」と主張する人や「口ではなんでも言えるだろう」と懐疑的な意見を主張するなど賛否両論となった.
そもそもなぜ女性と男性は別々の風呂に入らなくてはいけないのか?この男湯と女湯の概念が定着したのは明治時代中期と言われている.
当時の政府が混浴を規制したことが始まりだと言われている.そもそも混浴の概念自体が江戸中期になってから広まったたとも言われており、混浴自体に長い歴史はないのだ.
温泉は元々紀元前に自然にできた湯に浸かる野湯が始まりであり、始めは人為的な区分もなく男性と女性が入るのは自然的な行為であって混浴という概念ではなかった.
江戸時代に入ると都市部では温水を人工的に溜めることによって一つのインフラとして普及し始める.この頃でも男性と女性共に湯に入る文化は変わっておらず、この頃から徐々に女湯が影で認識されるようになったのだ.
もう少し解説すると当時の江戸では男女ともに湯に入ることによって売春などの問題が出てきた.この問題を対処するために松平定信が男女混浴禁止令を出すなど徐々に男女別の湯に入る文化が広まっていったのだ.
話を戻そう.
今の時代の温泉におけるジェンダーレスというのは紀元前のような自然的な行動ではなく人間の認識的に行われるものだというのが前提にある.
この差には大きな懸念点が存在する.そもそも今まで常識としていたことが非常識になってしまうことだ.
男性は男風呂に入る.女性は女風呂に入る.という常識が崩れると発生する問題として江戸時代に問題となった売春であったり、売春による任侠の介入の問題など多くの問題の懸念が発生する.いざ導入となった時に解決する術を構築しようとも難しいだろう.
多様性 ③人種的な差別を多様性と認めるのか
多様性という言葉は本当に便利な言葉である.
近年では外見による差別主義者たちも多様性のフィール内にいると思われているのだ.
例えばイスラム教において道徳尊重の象徴である「ヒジャブ」を巡ってイランで女性が死亡した例がある.その女性はスカーフの被り方が不適切だとして逮捕され死亡したのだ.
それによりヒジャブの着用問題に関してイランでは開放デモが行われるなど問題は激化している.
フランスでは2011年から公共の場でのヒジャブの着用が禁止されており、フランス政府の政教分離への強い意向が感じられる.
ヒジャブの着用による迫害も絶えない.イスラム教徒への冷たい目線だけでなくヒジャブ着用者への差別的発言は日々無くならない.
最近私が見た論文の中では「イスラムを人間化」するという言葉を用いたものも存在した.
私はこのような議論に対して持つべきなのは自分の中の「ジャッジ」である.文化の差別主義者を多様性と認めるのか?ということである.初めに述べた「身体障害者は邪魔だ」という人が実際にいたとしよう.その人の意見は多様性として認められるべきなのだろうか.
このジャッジは人によって変わるだろう.問題に関して肯定派であれば勿論ジャッジは肯定派寄りになり、反対派であれば反対派に近いジャッジが行われる.
多様性に関してのジャッジというのは本当に難しいもので、人によって変わってしまう問題がある.
しかし必要な基盤として「汝、殺すなかれ」という文をご存知だろうか.
人は殺してはいけない.という根本を述べた文である.
「当たり前だ」と思うかもしれないが歴史を辿れば何度も人間は当たり前を崩してきた.
第一次世界大戦で多くの人を殺し、第二次世界大戦で多くの人を殺してきた大きな罪がある.
ドイツではヒトラー政権による独裁政治でユダヤ人が迫害され殺されてきた.
人間というのは今まで「汝、殺すなかれ」を知っておきながら多くの人を殺してきたのである.
人を殺してはいけない倫理観の基盤を壊すことができたのはなぜだろうか.
しかし答えは単純であった.そもそも倫理観など捨てていなかったのである.皆が人を殺してはいけない事実を守っていたのだ.
では何故多くの人が命を奪われたのか.それはユダヤ人を非人間化したからである.
人間が正常時に「ユダヤ人を迫害し殺せ」と言われても殺すことはないだろう.しかしヒトラーは次々とユダヤ人を迫害するから政策を打ち出しユダヤ人を非人間化していったのだ.人間ではない対象は倫理観を変えずに排除することができてしまう.
人種的な差別というのは昔から行われ今でも行われている.今必要なのはそういった迫害を行う意見を迫害だと認識し多様性と思わないことだ.
多様性と迫害、差別を分ける.徹底的に行わなければならない啓発でもある.
多様性 ④発信への多様性リスク
多様性のリスクは発信という面で大きなベクトルを生み出すことがあり,このベクトルに扇動され正しい判断が行えない時がある.社会としても大変危、機的状況である.
一番扇動が見られたのがコロナ禍におけるワクチン接種に関する議論だ.日本は世界の中でも比較的早いスピードで全国にワクチンを供給し高齢者から順次接種可能にした.
政府としても国民にワクチンをいち早く供給できたのは大きな功績である.
しかしワクチン接種が進むにつれて明るみに出てきたのはワクチンの副作用や接種後の身体の変化に関する問題だ.
私が見た例だと「ワクチン接種後に癌にかかるリスクが上昇する」といったものや「ワクチンは本来老人を殺すためのもので接種後の致死率が高い」といったものもあった.
しかしこれらの意見は全て事実無根である.そもそも論証したデータもないので主張することができない.
しかし私が見たツイートでは多くの人がインプレッションを行い賛同する者までいた.
ワクチンと宗教を混在して考える者までいた.これは双方多数型のコミュニケーションツールにおいて危機的な状況だ.
誰でも発信ができるプラットフォームを利用している以上多くの意見が集まるのは必然なのだが意見の信憑性や妥当性が全く保証されていない.
コロナワクチンがmRNAという新しい構造であり細胞を体内で増殖させ,免疫を作る.そんな情報を知らなくても好きなだけ発信することができるのがSNSだ.
データでの議論,科学的根拠での議論が省かれ個人主点になった意見が溢れ帰ってしまったのは大きな罪だと思う.
コロナワクチンに関する議論だけではなく,子宮頸がんワクチン=HPVワクチンに関しても同じようなことが起こった.
SNS上ではHPVワクチンに関する様々な意見が寄せられ反対意見もあれば許容意見もでた.しかし2016年を境に賛成派と反対派が逆転しHPVワクチンは危険な物である認識が広まってしまった.
その影響が感染者数に現れたのはすぐのことであった.
今まで緩やかに感染者数が低下し2017年には根絶されたかのように思えた感染者数は2018年から急激に増加し,2020年には2014年を上回る人の感染が見られた.
これはSNSによる科学的根拠を共わない感情による議論で引き起こされた事件である.
HPVワクチンを打つ判断は個人に任せられていたとしても反対の主張を行い感染者数を増やし死亡させた人は刑事責任を問われるレベルのことだ.
今のSNSには間接的に人を殺す影響力もあることを理解しなければいけない.
今発信者に求められるのは正確性のあるデータと科学的根拠である.主観を捨ててデータで議論する流れを作り出さない限り今後も危機が現れた時対処に遅れ多くの犠牲者を出す可能性もある.
我々は信じるべきは主観の感情ではなくデータと科学的根拠による証明である.
多様性というジレンマから脱出する
①生物的な差異を認める.
②犯罪リスクを考え、変化させないことが社会生活に良い影響を与えることと容認する.
③差別と多様性を判断し、差別は排除しなければならない
④データや科学的根拠を基に判断し、主観を排除する
これらが多様性を理解する上で重要な指標になる.
今日、社会が多様性を容認するようになり多くの人がインクルーシブに活動できるようになったと思う.しかし一度多様性を認めてしまうと多様性の範囲は徐々に拡大していき、逆に生活しずらい状況を生み出すこともある.と理解する必要もある.
そんな社会は不健康極まりない.健康な社会にするためには知覚の部分で多様性を理解できるようになり、意識の多様性、身体的な多様性、文化的な多様性などをジャッジできるようにならなければならない.
21世紀は20世紀の法的なジャッジではなく、個人的なジャッジに任せられる大きなリスクを孕んだ世紀になるに違いないが、ジャッジが適切に行われれば社会としてとても健康と言える環境を作り出せるに違いないと私は考える.
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?