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掌編小説 『彼女の色』

 彼女はなんでもピンクにしたがる。口紅の色、アイシャドウ、ネイル、髪の毛、コンタクトレンズ、洋服や靴や鞄、ノートに傘に歯磨きコップに自転車、そして僕の着る服まで。

 はじめてTシャツをピンクに染められた時は仰天した。即座に彼女のところへすっ飛んでいった。お気に入りの一枚だったわけじゃない。セール品のイケてないプリントのTシャツだ。けれど断りもなくど派手なピンク色にされたことに、おおいに腹が立った。いくら付き合っているからって、勝手にこんなことをするなんて。

 しかし彼女はちいとも平気だった。わめきちらす僕を前にケロリとして、

「すっごく似合ってる! とっても可愛い。あなたの顔はトイプードルみたいにやさしいから、ピンクと相性が良いのね」

 と、無邪気に褒めるのだ。

 僕はすっかり怒る気を失くしてしまった。全然懲りていない相手に本気で怒っても、ばかばかしいだけだ。それに可愛い可愛いと絶賛されて、正直まんざらでもなかった。不思議だ。彼女があまりにも無反省で、屈託がなくて、取り繕おうとするいやらしさが少しも見られなかったからだろうか。

 それとも気に入っていないTシャツを黄ばむまで着古している自分に、心の奥底ではうんざりしていたからかも判らない。

 彼女は他人からどう見られようと、笑われようと、おかしな人だとはっきり言われようと、いっさい意に介さない。堂々と、毎日、全身ピンクでいる。

「だって私、生まれた時からピンクが大大大大大好きだから」

 そう言って、泰然としている。何だ、文句あるのかと、ファイティングポーズを取っての主張ではなく、あくまで自然に、軽やかに、鶯がホーホケキョと啼くように。

 彼女と出会ってから、僕の持ち物もだんだんとピンクが増えていった。僕がピンクの服を着ていると、彼女は手放しで褒めてくれる。すごく可愛い、最高に素敵、こんなにもピンクの似合う人なんて、はじめて。そんな風に乗せられたら、次もまたピンクを選んでしまう。これまでピンクの服なんて、一度も着たことがないくせに。今じゃピンクのものばかり、目が行くようになってしまった。さすがに彼女みたいに全身ピンク尽くしとはいかないけれど。

 そもそも僕は、どちらかといえばひかえめな女の子が好みだった。黙って僕の後ろをついてきてくれる、昔の歌にある「あなた色に染めてほしい」って性格の子。彼女のような我が道を行く女の子は苦手だった。なのに彼女と付き合うようになって、僕が彼女色に染められてしまった。恋は不思議だ。そもそもそもそも僕が彼女に一目惚れしたのがきっかけなのだから、不思議というより奇跡なのかもしれない。

 彼女は二人で一緒に住む部屋の家具や家電、壁の色までピンクにしてしまった。アルバイト先の洋菓子店の看板をピンクに塗り、かかりつけの病院にはピンクのスリッパをお歳暮にし、大家さんがアパートの前で育てている花も全てピンクにしてもらい、友人に頼まれたメタルバンドのライブのチラシはピンクの紙に印刷して配り……彼女が歩くと、世界はピンクに染められていく。

 動物園ではもちろんフラミンゴが大のお気に入りだ。世界一美しい生きものだと褒め称え、何十枚と写真に収める。それからパンダの檻の前で、残念そうに溜息をつく。「あの白い部分を、ピンクにしてしまいたい」冗談で言っているのではなく、大真面目な調子で。

 誰かが事故で不幸にも亡くなって、花が手向けられているところに、彼女はピンクの花束を持っていく。文具店の試し書きのコーナーはピンクのペンでハートマークを書き連ね、そのペンを何本も買って帰る。

 はじめての車もピンク。クリスマスケーキも、バレンタインのチョコレートもピンク。サンドイッチはハムサンドだけ。アイスクリームはストロベリーしか頼まない。友人たちへのプレゼントも、ことごとくピンク。ピンクのアクセサリー、ピンクのイヤフォン、ピンクのフットバス、ピンクの……ブラジャー。

 近所の保育園にはピンクのカーテンを寄贈し、僕の姉の子どもの誕生日にはピンクのドレスを、自分の両親への結婚記念日にはおそろいのピンクのパジャマを贈った。贈られた相手がどう感じたかは僕には判らない。でも贈った方の彼女はすこぶる幸せそうで、もしかしたら贈られた相手よりもずっと喜んでいるのではないかと思うくらいだった。

 ある時、僕は授賞式に出ることになった。描いた絵が認められたのだ。今までにこんな大きな賞を獲ったことはなかった。ようやく道が開けたような心持ちだった。

 授賞式の朝、緊張しながら支度をする僕に、彼女はお祝いにと、贈り物をくれた。今日の為に買ってきたの。箱を開けると、ピンクのネクタイが入っていた。

 君の気持ちは嬉しいけど、と、僕は箱ごとネクタイを返した。とても権威のある賞の式典なんだ。ピンクじゃ少し浮かれているような気がする。もっと立派で、落ち着いていて、実力のある人物に見える色じゃなければ。

 いいえ、と、彼女は首を横に振った。そういう式だからこそ、ピンクが良いのよ。あなたに一番似合う色だし、きっとみんなあなたがやさしくて可愛い人だって、ひと目で判ってくれるから。それに、ピンクを見ると、気分が安らぐでしょう。

 やさしくて可愛いことは、今、必要ではないのだ。今、大事なのは、実力があって、才能があって、これから大物になっていくとみんなに思わせることなのだ。どうしてそれが判らないのだろう。暢気のんきなことばかり言う彼女に、僕は怒りをおぼえた。

「君は世界をピンク色に染め上げたいんだね」

「ええ、そうよ。だって、ピンクって、とっても幸せで、あたたかな気持ちになる色でしょう。心の色、愛の色だから。私は世界を、愛で満たしたいの」

 彼女は僕の苛立ちを全く理解していないようだった。嫌みだと気づかずに、いつものように朗らかに、夢見るように、言った。

 僕はふわふわと甘ったるいピンクに全身包まれた彼女に、胸がむかむかした。こっちが人生の大舞台って時に、ふざけている。そう思った。僕は彼女に背中を向けて、思いきりとげとげしく吐き捨てた。

「君は独善的だよ。いつでも何でも、ピンク、ピンク、ピンク、ピンク。ピンクを押しつけられて、いやな人間だっているんだ」

 彼女の笑顔が消えたのが、背を向けてでも判った。

「そう、そうね、ごめんなさい。大事な式の前に」

 消え入りそうな声で謝ると、彼女はピンクのネクタイの箱を持って、行ってしまった。

 僕は自分が選んだハイブランドのネクタイをして出かけた。自分で奮発して、買ったものだった。授賞式でそのセンスを褒められ、鼻が高かった。自分がひとかどの人物として扱われたようだった。

 けれども帰りのタクシーで、僕はひどくむなしい気持ちになった。ネクタイは高級で上品な色だったけど、微塵も気に入ってはいなかった。僕には不釣り合いの、値段が高いだけのネクタイだった。

 次の日、彼女は相変わらずの全身ピンクでそこにいた。僕はほっとした。彼女の主義も、僕に対する態度も、普段とちいとも変わらなかった。朝食はピンクのベーコンをのっけた蜂蜜トーストだった。

 それからも彼女はピンク、ピンク、ピンクの生活を続けた。自分にも夢があるのだと打ち明けてくれたのは、ピンクムーンと呼ばれる春の満月の夜だった。赤ちゃんの服を作る人になりたいの。どの子もみんなピンク色の。

 彼女は自分が長く生きられないことを知っていた。二十歳の時にはもう、その運命を受け入れていた。ピンクのベッドの中で、彼女は言った。私が死んだら、ピンクの棺桶に入れて、ピンクのお墓で眠らせてね。

 難しいお願い。だからせめてピンクの花だらけで見送った。参列者は全員、ピンクの服を着て、ピンクのハンカチでなみだを拭った。彼女らしいお別れだと、人々は僕を慰めてくれた。

 一人になってからも、僕はピンクの服にピンクの靴を履き、ピンクの帽子を被っている。アマチュアの絵描きとして、頼まれて壁やらシャッターやら看板やらポストやらに絵を描いている。

 使う絵の具の色はひとつだけ。ピンク。いろんな濃さのピンクを使い分けて描く。彼女が人生を捧げていた世界をピンクに染め上げる活動を、僕が引き継いだという訳だ。

 今日も世界の一部がピンクに染まる。彼女の心の色。愛の色。

 ああ、でも、今日は、ピンク一色じゃない。珍しく、黒も使った。なにせパンダを描いたのだから。児童館の扉に、仲良く寄りそう親子のパンダを。


《 終 》

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