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日本仏教、日本文学と児灌頂の伝統

1934年(昭和9年)3月、36歳の今春聴(こん・しゅんちょう、1898年3月26日~1977年9月19日)が天台宗の僧侶養成機関「比叡山専修院」を卒業し、準教師となって茨城県の天台宗別格本山元三大師安楽寺に下った。

日本評論社の月刊総合雑誌『日本評論』1936年(昭和11年)3月1日発行の3月号に、特別読物として、60歳の柳田國男(やなぎた・くにお、1875年7月31日 ~1962年8月8日)の「妖怪談義」と37歳の今春聴の小説『稚兒』が掲載された。

稚兒』は、世俗説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』巻第8「好色」第323段「仁和寺にんなじの童・千手せんじゅ・参川みかはが事」を踏まえて、延暦寺の高僧、蓮秀れんしゅう法師と蓮秀法師の稚児、花若丸(はなわかまる)、花若丸を凌ぐ美貌の新人の12歳の阿字丸(あじまる)の三角関係、稚児を養う力がない中年の慶算(けいさん)法印の花若丸への懸想を描く。

平安時代に成立したとされ、女性との性交を禁じらていた天台宗稚児(ちご)(雑用をする子ども)を観世音菩薩に見立て、性行為の対象とする習慣「児灌頂(ちごかんじょう)」について記された、大津市坂本の叡山文庫天海(てんかい、1536年?~1643年11月13日)蔵本、徳川時代の非公開の写本『弘児聖教秘伝私(ぐじしょうぎょうひでんし)(広く稚児についての聖人の教えを集めた秘伝の私的記録)が参照されている。

ただし、出版社の自己検閲で、僧と児の性交を様式化した「陰所(閨房けいぼう)作法」に該当する箇所「(約四千字を削除す)」の注意書きを付けて削除された。

叙説』(奈良女子大学國語國文学研究室)2011年(平成23年)3月11号に、辻晶子(1982年~)「今東光『稚児』と『弘児聖教秘伝私』」が掲載された。
同論文によると、今は『弘児聖教秘伝私』の僧と稚児の日常的な性愛の作法の記述を、児灌頂の結願の夜に限定しておこなわれたものと誤認していた。

1947年(昭和22年)2月10日、48歳の今東光(こん・とうこう)著『稚兒』(鳳書房、25円)が刊行された。一万部発行されたが、すぐに売り切れた。
装幀は44歳の鳥海青児(ちょうかい・せいじ、1902年3月4日~1972年6月11日)だ。
序文は60歳の谷崎潤一郎(1886年7月24日~1965年7月30日)だ。

 はじめて會ふ夜の稚兒の背より下へ手を廻すことは尾籠な振舞ひである。
まして稚兒たる者が僧の脚に足を懸る事などは有るべからざることではあるが、睦むでのち馴れてはそれも苦しからぬことである。
 僧が稚兒の背を指すときは稚兒心得て前へ向くのである。これらの作法はあらかじめ知つておかなければならない事とされてゐる。
(約四千字ばかり稚兒灌頂房中作法のくだりを削除す)

1950年(昭和25年)12月14日発売の月刊文芸雑誌『群像』(大日本雄弁会講談社)1951年(昭和26年)1月特大号(130円)~1951年(昭和26年)9月10月発売の10月特大号(130円)に、25歳の三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)の長篇小説『禁色きんじき)』第一部が連載された。

1950年(昭和25年)夏、65歳の作家・檜俊輔(ひのき・しゅんすけ)は10代の美少女の康子を追いかけ伊豆半島の南端の海岸へ来ていた。
檜俊輔は康子の許婚の20歳過ぎの美青年・南悠一(みなみ・ゆういち)に出会う。同性愛者の彼は結婚をためらい、それを俊輔に相談しに来る。

第十六章「旅のあとさき」の『稚児乃草子』の記述に際し、多田侑史(ただ・ゆうし、1915年~2013年2月25日)の紹介により京都・醍醐だいご寺秘蔵の『稚児乃草子』を取材した。

2001年(平成13年)2月10日発行、「決定版 三島由紀夫全集」3『長編小説3』(新潮社、本体5,800円)、『禁色』、第十六章「旅のあとさき」より引用する(253~254頁)。

 管長がそのとき現はれて、俊輔に久闊きうくわつべ、二人を別室へ案内すると、俊輔の懇望にまかせて、この密教の寺院に深く秘された一巻の草子を見せてくれた。老作家はこれを悠一に見せたいと思つたのである。
 奥書に元亨元年の日附があるとほり、冬日のさしこむ畳の上にひろげられてゆく巻物は、後醍醐帝の時代の秘本である。その名を稚児乃草子といふのであつたが、悠一には読めない詞書を、俊輔は眼鏡をかけてすらすらと読みだした。
「仁和寺の開田の程にや世のおぼしいみじくきこえ給ふ貴僧おほしましけり。御歳たけたるままに三密の行法の薫修くんじゅつもりて験徳ならびなくおはしけれども、なほもこのことをすて給はざりけり。童おほくはべる中に、ことになつかしく添ひぶしにまゐる一人ぞありける。貴きも賤しきもさかりすぎたる御身なれば、はかばかしくこのわざも心にかなはぬことなれば、御心はやれども、つき地にしんとう(浸透)の風情にて、ただやまかたを越するばかりの箭いろにてぞありける。此童ほいなきことに思ひければ、夜々したためて、まず中太といふ乳母子めのとこの男をよびて、ものをばはせさせてせられつつ……、」

「のちには、おほきらかなる張形はりかたと云ふ物をもちて突かせ、丁子ちやうじなどをすりて、尻の中へ入させけり。」は略されている。

森一良(56年度卒業生)「男色文学と梅」『高知大國文』(高知大学国語国文学会、1982年12月)より引用する。

 稚児物語に先立つものとして、嘉元三年(一三〇五年)の序をもつ『続門葉和歌集』を見よう。醍醐寺の僧侶や稚児の詠をまとめたもので、集中稚児の詠草が百七十首、五十七人であることは際立っている。三宝院藏『稚児乃草紙』にも先立ち、後に稚児物語を生み出す母胎になったと言えよう。その中から稚児への恋歌を掲げる。
   建長四年の桜会の後舞童吉祥かもとへ仁和寺なりける僧の申送りける
                            よみ人しらす
いろいろに花の姿は見えしかとたゝ一枝に露そこほるゝ 
                            報恩院吉祥丸
たのますよ色なき花の一枝にうつろふ露のなさけ斗は

 醍醐寺の桜会に際して稚児達への恋情を記した例は多く見られる。醍醐寺の桜会は、毎年三月に営まれる法会で、その後に童舞を交えた観桜の宴がある。『古今著聞集』等にも桜会の童舞にまつわる挿話が見られる。それゆえ、他門の僧侶達にも、美しく着飾り青海波を舞う稚児達を見出す機会になる。つまり、醍醐寺―桜会―童舞という関連した事柄が背景となって稚児=桜という美意識の連想を生み出しているのである。そこに、稚児物語の萌芽を見ることができるだろう。さらに、『鳥部山物語』や『松帆浦物語』のように、北山の桜見の席が、結果的に桜のイメージによる美意識を支持している。

1951年(昭和26年)10月14日発売の『群像』11月号(100円)に『禁色きんじき)』第一部の結末を変更する「改訂広告」が掲載された。

1951年(昭和26年)11月10日、26歳の三島由紀夫著『禁色きんじき)』第一部(新潮社、260円、地方売価270円)が刊行された。
装幀は54歳の林武(はやし・たけし、1896年12月10日~1975年6月23日)だ。

1952年(昭和27年)7月13日発売の月刊文芸誌『文學界』(文藝春秋)8月号(100円)~1953年(昭和28年)8月号に、三島由紀夫著『禁色きんじき)』第二部祕樂ひげう)』が連載された。

1952年(昭和27年)9月15日、第一生命創業50周年を記念して東京・有楽町の第一生命館の6階に座席数650の「第一生命ホール」が設けられた。

1953年(昭和28年)9月30日、28歳の三島由紀夫著『祕樂ひげう)』禁色きんじき第二部(新潮社、290円、地方売価300円)が刊行された。
装幀は56歳の林武だ。

1954年(昭和29年)11月10日、「新潮文庫」、三島由紀夫著『禁色きんじき)』(新潮社、100円)が刊行された。
解説は41歳の大井廣介(おおい・ひろすけ、1912年12月16日~1976年12月4日)だ。

1954年(昭和29年)11月15日、「新潮文庫」、三島由紀夫著『禁色きんじき)』(新潮社、100円)が刊行された。

1959年(昭和34年)5月24日、第一生命ホールで、全日本芸術舞踏協会・新人舞踏公演第6回、ジャン・ジュネ(Jean Genet、1910年12月19日~1986年4月15日)の男色を主題とし、三島由紀夫の小説の題名を借用した、31歳の土方巽(ひじかた・たつみ、1928年3月9日~1986年1月21日)演出・舞踊「禁色きんじき)」の公演がおこなわれた。
音楽は安田収吾だ。

終始、暗がりの舞台で演じられ、少年役を20歳の大野慶人(おおの・よしと、1938年7月15日~2020年1月8日)が演じた。

1959年(昭和34年)9月5日、第一生命ホールで、「6人のアバンギャルド・650EXPERIENCE の会」主催「9月5日6時の会」の公演がおこなわれた。

30歳の黛敏郎(1929年2月20日~1997年4月10日)の「プレペアドピアノと弦楽器のための小品」が演奏された。

28歳の諸井誠(もろい・まこと、1930年12月17日~2013年9月2日)の北園克衛(きたぞの・かつえ、1902年10月29日~1978年6月6日)の詩による「稀薄な展開」が演奏された。

26歳の金森馨(かなもり・かおる、1933年9月3日~1980年11月1日)の黛敏郎作品による、諸井誠作品による実験映画『カリグラフ〈A〉』が上映された。

31歳の土方巽演出・舞踊「禁色きんじき)」2部作・改訂版が発表され、52歳の大野一雄(1906年10月27日~2010年6月1日)、21歳の大野慶人が共演した。

24歳の若松美黄(わかまつ・みき、1934年10月15日~2012年8月1日)演出・舞踊、土方巽共演の舞踊「アガペーの屍臭」が演じられた。

35歳のドナルド・リチイ(Donald Richie、1924年4月17日~2013年2月19日)演出、土方巽出演の8ミリ・フィルム撮影の実験映画『犠牲』(10分)が上映された。

プログラム巻頭に34歳の三島由紀夫推薦の辞」が掲載された。

1965年(昭和40年)12月20日、32歳の矢崎泰久(やざき・やすひさ、1933年1月30日~2022年12月30日)編集、29歳の和田誠(1936年4月10日~2019年10月7日)表紙画の月刊誌『話の特集』(日本社)2月創刊号(特価130円)が刊行された。

1967年(昭和42年)2月20日発売『話の特集』(三和実業)4月号から同年4月20日発売の6月号まで、水上勉(みずかみ・つとむ、1919年3月8日~2004年9月8日)著、粟津潔(あわづ・きよし、1929年2月19日~2009年4月28日)画の『男色だんじき)』が連載された。

1968年(昭和43年)5月10日、67歳の稲垣足穂(いながき・たるほ、1900年12月26日~1977年10月25日)著『少年愛の美学』(徳間書店、980円)が刊行された。
装幀・飾絵は亀山巌(1907年~1989年)だ。

帯裏表紙の39歳の澁沢龍彦(1928年5月8日~1987年8月5日)「足穂頌」を引用する。

 昭和文学の夜空に輝かしい光芒を放つ稲垣足穂さんの業績は、一切の日本的風土から断絶した、空中滑走の抽象性をおびているが、また一方、どこか日本の中世の美学に通じるような、余情妖艶といった風情があり、そんじょそこらの皮相なモダニストのハイカラ趣味とは、明らかに似て非なるものである。たとえばギリシアの青空を想わせるような、永遠の郷愁にみちたエロスの世界を語る時ですら、稲垣足穂さんの文章は、あくまでも具体的な事物に即しつつ、いわく言いがたき微妙な感情のニュアンスをとらえようとする。私が最も嬉しく思うのは、この点である。
 今日、商売繁盛しているかに見える多くのやくざな小説家諸君は、あと二十年もすれば、すべて泡沫のごとく消え去るであろう。しかし稲垣足穂さんの業績は、作者が好むと好まざるとにかかわらず、消えないであろう。その徴候は、すでに現れており、私たち足穂ファンは、否でも応でも、いずれ先見の明を誇らねばならなくなるだろう。

第1章「幼少年的ヒップナイド
第2章「A感覚の抽象化
第3章「高野(こうや)六十那智(なち)八十

第3章「高野六十那智八十」で児灌頂の例証として今東光稚児』が引用された。

1968年(昭和43年)8月1日発行のタブロイド新聞『Androgyny Dance』(笠井叡舞踏会事務所)第1号「稚児之草子」に、40歳の土方巽神聖な柳腰」、34歳の小島俊明(こじま・としはる、1934年4月27日~)「舞踊とバフォメ」、64歳の瀧口修造(1903年12月7日~1979年7月1日)「舞踏よ笠井叡のために」、67歳の稲垣足穂世界のはて」、24歳の笠井叡(かさい・あきら、1943年11月25日~)「星雲体に」、37歳の白石かずこ(1931年2月27日~)「畸型のラブ・畸型の芸術」、39歳の加藤郁乎(かとう・いくや、1929年1月3日~2012年5月16日)「傲岸なるレクイエム」、49歳の吉岡實(1919年4月15日~1990年5月31日)「変宮の人 笠井叡」が掲載された。
アート・ディレクターは牛久保公典だ。

1968年(昭和43年)8月30日、新宿厚生年金会館小劇場笠井叡の独舞「稚児之草子」の公演がおこなわれた。

1969年(昭和44年)11月25日、水上勉著『男色だんじき)』(中央公論社、530円)が刊行された。
装幀・挿画は粟津潔だ。

1969年(昭和44年)11月28日、「稲垣足穂大全」Ⅲ(現代思潮社、2,000円)が刊行された。

A感覚とV感覚
異物と滑翔
Prostata~Rectum 機械学
澄江堂河童談義
『稚児之草子』私解
秋夜長物語
北山の春
山ン本五郎左衛門只今退散仕る
少年愛の美学

1970年(昭和45年)4月25日、69歳の稲垣足穂(いながき・たるほ、1900年12月26日~1977年10月25日)著『増補改訂少年愛の美学』(徳間書店、1,400円)が刊行された。
装幀・飾絵は亀山巌だ。
秋夜長物語」(『作家』(作家社)1966年8月号)を収めた。 

第1章「幼少年的ヒップナイド
第2章「A感覚の抽象化
第3章「高野六十那智八十
秋夜長物語

1970年(昭和45年)9月28日、「稲垣足穂大全」Ⅵ(現代思潮社、2,600円)が刊行された。
世界のはて」が再録された。

1973年(昭和48年)5月30日、「角川文庫」、稲垣足穂著『増補改訂 少年愛の美学』(角川書店、240円)が刊行された。
解説は40歳の種村季弘(たねむら・すえひろ、1933年3月21日~2004年8月29日)だ。
カバー装画は40歳の杉浦康平(1932年9月8日~)だ。

1973年(昭和48年)6月10日、「今東光代表作選集」第5巻『短編集 お吟さま ほか』(読売新聞社、950円)が刊行された。
装幀は78歳の芹沢銈介(せりざわ・けいすけ、1895年5月13日~1984年4月5日)だ。
初めて削除個所を補った「稚児」を収めた。

1974年(昭和49年)9月30日、「角川文庫」、水上勉著『男色(だんしき)・好色』(角川文庫、300円)が刊行された。
解説は39歳の川嶋至(かわしま・いたる、1935年2月15日~2001年7月2日)だ。
カバー装画は45歳の栃折久美子(とちおり・くみこ、1928年12月7日~2021年6月25日)だ。

1986年(昭和61年)7月4日、「河出文庫」、稲垣足穂著『少年愛の美学』(河出書房新社、500円)が刊行された。
58歳の澁澤龍彦回想の足穂」を収めた。

2005年(平成17年)5月12日、「ちくま文庫」、萩原幸子(1925年~)編「稲垣足穂コレクション」5、『少年愛の美学』(筑摩書房、本体1.050円)が刊行された。
少年愛の美学」「A感覚とV感覚」を収めた。

2007年(平成19年)12月7日発売の月刊文芸誌『新潮』(新潮社)2008年1月号(特別定価税込み1,153円)か~2008年5月7日発売の6月号(特別定価税込み996円)に、丹尾安典(たんお・やすのり、1950年1月~)の評論『いはねばこそあれ男色(なんしょく)の景色』が連載された。

2008年(平成20年)9月19日、「講談社現代新書」、性別越境者の53歳の三橋順子(1955年5月23日~)著『女装と日本人』(講談社、本体900円)が刊行された。

2008年(平成20年)11月14日、「平凡社新書」、54歳の松尾剛次(まつお・けんじ、1954年2月14日~)著『破戒と男色の仏教史』(平凡社、本体720円)が刊行された。

宗性(そうしょう、1202年~1278年6月29日)は36歳の時点ですでに関係した男色相手が96人にのぼっていたという。

2008年(平成20年)12月20日、丹尾安典著『男色(なんしょく)の景色いはねばこそあれ』(新潮社、本体2,200円)が刊行された。

2013年(平成25年)12月21日、「歴史新書y」、乃至政彦(ないし・まさひこ、1974年~)著『戦国武将と男色知られざる「武家衆道」の盛衰史』(洋泉社、本体940円)が刊行された。

2017年(平成29年)2月7日、「河出文庫」、「21世紀タルホスコープ」、稲垣足穂著『少年愛の美学A感覚とV感覚』(河出書房新社、本体1,200円)が刊行された。
澄江堂河童談義」「A感覚とV感覚」「異物と滑翔」「少年愛の美学」を収めた。

2019年(平成31年)3月23日、「角川ソフィア文庫」、丹尾安典著『男色(なんしょく)の景色』(KADOKAWA、本体960円)が刊行された。
今はなき東京の盛り場を訪ねた「東都戦後男色地図」を増補した。

2021年(令和3年)2月28日、辻晶子著『児灌頂の研究犯と聖性』(法藏館、本体8,500円)が刊行された。

2023年(令和5年)5月1日、「祥伝社新書」、62歳の大塚ひかり(1961年2月7日~)著『ヤバいBL日本史』(祥伝社、税込み1,034円)が刊行された。

2023年(令和5年)10月10日、「平凡社ライブラリー」、69歳の松尾剛次著『[増補]破戒と男色の仏教史』(平凡社、本体1,600円)が刊行された。


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