1962年の社会主義映画劇『キューポラのある街』と歌(ネタバレ)
早船ちよ『キューポラのある街』
『母と子』1959年(昭和34年)9月号から1960年(昭和35年)10月号まで日本共産党員の早船ちよ(1914年7月25日~2005年10月8日)著『キューポラのある町』が連載され、1961年(昭和36年)4月5日発行、早船ちよ著『キューポラのある街』(彌生書房、280円)が刊行された。
カバー裏表紙より引用する。
1961年(昭和36年)12月15日、「双書世界と日本」、40歳の寺尾五郎著『朝鮮 その北と南』(新日本出版社、380円)が刊行された。
装幀は32歳の粟津潔、表紙・口絵写真は55歳の田村茂だ。
早船ちよ原作、同時代の川口市を舞台とする、31歳の浦山桐郎(1930年12月14日~1985年10月20日)、35歳の今村昌平(1926年9月15日~2006年5月30日)脚本、浦山桐郎監督、身長157㎝の16歳の吉永小百合(1945年3月13日~)主演の日活映画劇『キューポラのある街』(99分)の撮影は1961年(昭和36年)12月24日より開始され、1962年(昭和37年)2月1日に終了した。
撮影監督は45歳の姫田真佐久(ひめだ・しんさく、1916年11月19日~1997年7月29日)だ。
1962年(昭和37年)3月20日、47歳の関貴星(せき・きせい、1914年12月 ~1986年)著『楽園の夢破れて:北朝鮮の真相』(全貌社、200円)が刊行された。
1962年(昭和37年)4月8日、映画劇『キューポラのある街』が公開された。
音楽作曲は32歳の黛敏郎(1929年2月20日~1997年4月10日)だ。
同時上映は、源氏鶏太(1912年4月19日~1985年9月12日)原作、43歳の西河克己(1918年7月1日~ 2010年4月6日)監督、27歳の石原裕次郎(1934年12月28日~1987年7月17日)、26歳の芦川いづみ(1935年10月6日~)主演、総天然色の熱血サラリーマン映画劇『青年の椅子』(93分)だった。
映画劇『キューポラのある街』のあらすじ(ネタバレ)と歌
映画『キューポラのある街』の導入部で、川口市の川口駅東口前の「鋳物は川口」の標語が屋上の看板に表示された「川口鋳物工業協同組合」の2階建ての建物が「川口」という物語世界の社会的貧困の象徴的建築物として示される。
零細企業の松永鋳工が丸三鉄工場という大工場に買収され、松永庄治社長(殿山泰司、1915年10月17日~1989年4月30日)とは長い付き合いの鋳造工の石黒辰五郎(東野英治郎、1907年9月17日~1994年9月8日)の解雇が決まった日、辰五郎の妻トミ(杉山徳子、1926年8月16日~2014年8月28日)が路地裏の長屋で産気づいた直後、川口市立第二中学校(ロケ地は南中学校)3年生の長女ジュン(吉永小百合)は隣家の塚本家で大相撲のテレビ中継を観ている上の弟、川口第三小学校6年生の12歳のタカユキ(市川好郎、1948年1月20日~1993年6月25日)、下の弟、7歳のテツハル(岩城亨)に赤ちゃんが生まれることを知らせる。
その時、14インチのモノクロのブラウン管テレビでは21歳の大鵬(1940年5月29日~2013年1月19日)と22歳の柏戸(1938年11月29日~1996年12月8日)の対戦(蔵前国技館での1961年秋場所優勝決定戦、1961年9月24日。大鵬は柏戸を土俵際、うっちゃりで破った。場所後の10月2日、大鵬と柏戸は同時に横綱に昇進した)が始ろうとしていたが、テレビは切られてしまう。
ある職工(澄川透)とトミさん(青木富夫、1923年10月7日~2004年1月24日)と辰五郎の三人の突然解雇が告げられた松永鋳工の事務所で、石黒家の隣家の中卒で組合活動に熱心な20歳の職工・塚本克巳(浜田光夫、1943年10月1日~)が組合を代表して社長に抗議する。
ジュンが荒川沿いの河川敷の川口市立南中学校のグラウンドでおこなわれているよその中学とのソフトボールの試合の7回裏ツーアウト満塁、2対1で負けている場面でサヨナラヒットを打った直後、観戦していたタカユキの同級生の二人の男の子たちは、NHKのプロ野球実況放送の解説者・小西得郎(1896年7月10日~1977年6月9日)とアナウンサー志村正順(1913年10月2日~2007年12月1日)の真似をする。
読売ジャイアンツの野球帽をかぶったズク(西田隆昭)が右手を突き出し、マイクを差し出す真似をしながら「どうです、小西さん」というと、半袖シャツの金山サンキチ(森坂秀樹)がマイクをつかんで音が入っているかどうか確かめる真似をして「ア、ア」と言い、腕組みをして小西の口調と口癖を真似、「いやあ何と申しましょうか、打ちも打ったりと申しますか、まったくいい当たりですねえ」と言う。
その日、タカユキ、サンキチ、ズクが荒川鉄橋の橋桁の近くを歩いている。三人が立小便していると、土手のほうで、タカユキたちの同学年の美少女カオリ(岡田可愛、1948年10月19日~)と2人の女友だちが歩いてきながら唱歌「思い出」を歌う。
トマス・ヘインズ・ベイリ(Thomas Haynes Bayly、1797年10月13日~1839年4月22日)作曲の「ずっと、ずっと昔」Long, Long Ago(1833)に
古関吉雄(1908年~1995年)が作詞した「思い出」は1947年(昭和22年)7月発行の教科書『六年生の音楽』(文部省)に掲載された。
出産後、北條病院を退院したトミにジュンが付き添って川口駅東口前の商店街を歩き、1953年(昭和28年)創業の今川焼屋「太郎焼本舗」の前で立ち止まるショットの次のショット、タカユキ、サンキチ、ズクが本町緑地を駆け抜けるショットの端に映る映画館で総天然色のアメリカ映画劇『謎の大陸アトランティス』Atlantis, the Lost Continent(1961年3月3日公開。90分)が上映されている。日本公開は日本語吹替版で1961年(昭和36年)9月15日に公開された。
タカユキ、サンキチ、ズクが入る映画館で上映されているのは1961年(昭和36年)8月6日公開の日活映画劇『拳銃横丁』(76分)、1961年(昭和36年)8月13日公開の日活映画劇『高原児』(85分)、1961年(昭和36年)9月23日公開の東映映画劇『若さま侍捕物帳 黒い椿』(94分)の3本立てだ。入場料金は大人120円、小人50円、学割90円だ。
家出したタカユキが屑鉄屋のサンキチの家へ逃げ込み、サンキチの母・美代(菅井きん、1926年2月28日~2018年8月10日)が働く大衆食堂「鶴亀食堂」でサンキチと一緒に中華ソバを食べた夜、石黒家では辰五郎が畳に横になり、ラジオ放送の広沢虎造(1899年5月18日 ~1964年12月29日)の浪曲「清水次郎長伝」を聞いている。「義理にゃ強いが情に弱い、女房想いの次郎長は思わずポロリと男泣き」。
塚本克巳が仲間から集めたカネを届けに来る。
9月末頃、ジュンの同級生でサンキチの姉・金山ヨシエ(鈴木光子)の紹介でジュンがアルバイトする、おそらく在日朝鮮人が経営するパチンコ屋で小林旭(1938年11月3日~)「ダンチョネ節」が流れている。
1960年(昭和35年)3月1日、日本コロムビアから、日活映画「海から来た流れ者」主題歌、小林旭、コロムビア・オーケストラ「ダンチョネ節」(3分4秒)、日活映画「渡り鳥またいつ帰る」主題歌、小林旭、こまどり姉妹、コロムビア・オーケストラ「おけさ数え唄」(3分52秒)のシングル盤(SA-348、370円)が発売された。
両曲共に、41歳の西沢爽(1919年1月9日~2000年7月19日)作詞、27歳の遠藤実(1932年7月6日~2008年12月6日)作曲だ。
22歳のこまどり姉妹は並木栄子(1938年2月16日~)と葉子(1938年2月16日~)の双子の姉妹だ。
ジュンと自転車を押すヨシエが一緒に帰る途中、同級生の中島ノブコ(日吉順子)が自宅で数学を教えてもらうためにジュンを呼びに来る。
2階にあるノブコの部屋の場面でノブコの兄のステレオからブラームス(Johannes Brahms、1833年5月7日~1897年4月3日)作曲「交響曲第4番」第1楽章が聞こえてくる。
ジュンのアルバイト先のパチンコ屋の店内で植木等(1926年12月25日~ 2007年3月27日)歌、ハナ肇とクレージーキャッツ、宮間利之とニュー・ハード・オーケストラ(WPT)演奏「スーダラ節」が流れている。
1961年(昭和36年)8月20日、東芝音楽工業から、植木等、ハナ肇とクレージーキャッツ、宮間利之とニュー・ハード・オーケストラ(WPT)「スーダラ節」(2分46秒)、「こりゃシャクだった」(3分29秒)のシングル盤(JP-1300、300円)が発売され、80万枚の大ヒットとなった。
両曲共に、29歳の青島幸男(1932年7月17日~2006年12月20日)作詩、36歳の萩原哲昌(1925年5月26日~ 1984年1月13日)作曲だ。
弟のタカユキが松永社長の息子の高校1年生のノッポ(川勝喜久雄)に鳩泥棒をさせられそうなのを知ったジュンが、ビリヤード場「白雪」で、ノッポたちチンピラのボス(木下雅弘)と話をつけた夕方、川口市役所に「すくすくと明るくのびよう青少年」の横断幕が見える。午後5時の日暮れ時を告げる「家路」のメロディのチャイムが鳴る。
ドゥヴォジャーク(Antonín Dvořák、1841年9月8日~1904年5月1日)作曲の交響曲第9番「新世界より」From the New World第2楽章「ラルゴ」を1922年(大正11年)にウィリアム・アームズ・フィッシャー(William Arms Fisher、1861年4月27日~1948年12月18日) が編曲した「家路」Goin' Homeに続き、1925年(大正14年)頃、堀内敬三(1897年12月6日~1983年10月12日)が作詞した「遠き山に日は落ちて」で始まる「家路」は、戦後長らく小学校の音楽教科書に載っていた。
ジュンの後を追ってきた「スーパーマン」の綽名の担任の先生(加藤武、1929年5月24日~2015年7月31日)がパチンコ屋に入ろうとして、通りがかった昔の教え子・塚本克巳に呼び止められ立ち話する時、小林旭「ダンチョネ節」が流れる。
川口第三小学校の体育館の学芸会、六年男女「劇 にんじん」はジュル・ルナール(Jules Renard、1864年2月22日~1910年5月22日)の中篇小説『にんじん』Poil de carotte(1894)をアンドゥレ・アントゥワヌ(André Antoine、1858年1月31日~1943年10月19日)が1900年(明治33年)に一幕劇に翻案、同年3月1日に初演された同名劇に基づいている。
主役の赤毛でソバカスのある「にんじん(Poil de carotte)」ことフランスワ・ルピック(François Lepic)役はサンキチ、アンネット(Annette)役はカオリが演じる。
全校生徒たちに交って体育館に並べられた木製椅子に座って観劇しているサンキチの同級生シミヅ(坂本勇男)が立ち上がり、「ようサンキチ、朝鮮人参!」と野次を飛ばす。サンキチはうなだれ、観劇中の生徒たちは大騒ぎになる。
カオリはサンキチに近づき「サンちゃん。サンちゃん。「仲よくしよう」、ほら!」とセリフの続きを促す。
11月4日、修学旅行の朝、ジュンが自宅で修学旅行にもっていく荷物を点検している場面にラジオからヨーハン・シュトラウス (Johann Strauss II、1825年10月25日~1899年6月3日)作曲「アンネン・ポルカ」Annen-Polka作品117(1852)が流れる。
ジュンとタカユキがあまりに身勝手な父と口げんかする場面で、壁に貼られた、21歳の佐川ミツオ(1939年11月9日~)、34歳のセリア・クルス(Celia Cruz、1925年10月21日~2003年7月16日)「月影のキューバ」Magica Luna、17歳の橋幸夫(1943年5月3日~)「おけさ唄えば」の宣伝用の円盤型の紙印刷物が見える。
1960年(昭和35年)9月、日本ビクターから、セリア・クルス、ソノーラ・マタンセーラ楽団(La Sonora Matancera) 「月影のキューバ~マヒカ・ルナ」Magica Luna(2分01秒)、「ポル・ケ・セラ」Por Que Sera(2分28秒)のシングル盤(SCO-1006、350円)が発売された。
1960年(昭和35年)10月5日、ビクターレコードから、橋幸夫、ビクター・オーケストラ「おけさ唄えば」(2分28秒)、「あいたいぜ」(3分04秒)のシングル盤(VS-407)が発売された。
両曲共に、57歳の佐伯孝夫(1902年11月22日~1981年3月18日)作詩、39歳の吉田正(1921年1月20日 ~1998年6月10日)作曲・編曲だ。
11月4日、埼玉県の文教地区にあたる浦和を訪ねたタカユキが浦和少年鑑別所を見る場面で、塀の中から庭で歌うボーイスカウト隊員たちの「雪山讃歌」の合唱が聞こえてくる。
アメリカ西部の民謡「ああ、わが愛しのクレメンタイン」Oh My Darling, Clementineに1927年(昭和2年)1月、西堀栄三郎(1903年1月28日~ 1989年4月13日)が「雪山讃歌」として作詞し、1958年(昭和33年)9月にテイチクからダーク・ダックスの歌で6曲入りシングル盤「ピクニック・ソング」(NEP-1052、500円)の1曲として発売され、1959年(昭和34年)6月に、ダーク・ダックス「雪山讃歌」(2分52秒)、「オー・ブレネリー」(2分45秒)のシングル盤(NS-116、250円)が発売され、大ヒットした。
修学旅行を行くのをやめた直後、荒川鉄橋の下の草むらで初潮を経験し、列車で浦和に志望校の「埼玉県立第一高等学校」(ロケ地は埼玉県立浦和第一女子高等学校)を見に行った11月4日の夜、家に帰る途中、ジュンは、大衆酒場「山一屋」の前を通り、外に出て男性客を見送る母を見る。
店内の男性客は「ノーチヨサン節」の一節「恋という字はヤッコラヤノヤ」を歌っている。
1960年(昭和35年)8月1日、日本コロムビアから、日活映画「東京の暴れン坊」主題歌、小林旭、コロムビア・オーケストラ「ノーチヨサン節」(3分15秒)、小林旭、ザ・エコーズ、コロムビア・オーケストラ「東京かっぽれ」(3分56秒)のシングル盤(SA-441)が発売された。
両曲共に、41歳の西沢爽作詩、狛林正一(こまばやし・しょういち)作曲・編曲だ。
11月4日の夜、ジュンは同級生の不良娘で、チンピラのボスの妹のリス(青木加代子)に連れていかれたバー「ラッキー」でリスと踊って気分転換したあと、リスの兄とノッポとほかの2人(武田晴道、杉山元)に輪姦されそうになるが、かろうじて免れる。本来は修学旅行を楽しんでいたかもしれない、この一日の経験はジュンにとって重いものだっただろう。
12月10日頃の夜7時半前、川口駅前に在日朝鮮人(実際の在日朝鮮人が演じている)が集まって、その夜上野に行き、翌朝の列車で新潟に向かい、そこから船で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に帰国する仲間を見送り、アコーデオンの伴奏でチョウサン語の歌を合唱する。北朝鮮の国旗も見える。ヨシエも歌っている。
当時、川口市在住の外国人は千人程度で、その大半が在日朝鮮人だった。
最後に駅構内ではキム・イルソンを称える1946年(昭和21年)のチョウサン語の歌「キム・イルソン将軍の歌」김일성장군의 노래が歌われる。
金元均(キム・ウォンギュン、김원균、1917年1月2日~2002年4月5日)作曲、李燦(リ・チャン、리찬、1910年1月15日~1974年1月14日)作詩だ。
1948年(昭和23年)7月15日発行、在日本朝鮮民主青年同盟東京本部文化部編集『人民解放歌謡集』(在日本朝鮮民主青年同盟東京本部文化部)に「金日成将軍の歌」日本語訳が掲載された。
その翌日、伝書鳩で届いた、サンキチが上野で書いた手紙を読んだタカユキが、サンキチの伝言をサンキチの母に伝えに行こうと鶴亀食堂に近い商店街を走る時、「スーダラ節」の一節が聞こえる。鶴亀食堂の前に鳩の籠をもったサンキチがいる。
一人川口に残った日本人の母に会いたくなったサンキチは、上野を高崎線で出た後、大宮駅で降り、北朝鮮に行く父と姉と別れ、赤羽駅で京浜東北線に乗り換え、戻ってきたのだ。だが母は食堂を辞め、結婚するため、どこかに行ってしまったという。
ジュンと4人の3年生が先生と担当者の社員に連れられ、就職先候補の小平市の日立製作所武蔵工場を見学する。
昼休み、ジュンが頭に白いスカーフを巻いた若い女子工員(吉行和子、1935年8月9日~)に工場に勤めながらの夜間の定時制高校での勉強について助言を受ける時、工場の社員食堂の外の屋上で若い女子工員数十人がアコーデオンの伴奏で、寺島文夫(1910年1月15日~1975年6月25日)が1952年(昭和27年)1月号で創刊した、働く青少年のための人生論雑誌『人生手帖』(文理書院)1956年(昭和31年)6月号に掲載された、伊黒昭文作詩、寺原信夫作曲の「手のひらの歌」(1956)を合唱する。
2番(実際には3番)の途中からジュンの横の案内役の工員も合唱する。
2番が最後に歌われる。北朝鮮に帰るため川口駅を経った日にヨシエに貰った自転車で帰宅する途中のジュンの歌声も重なる。
「手のひらの歌」は評議会同盟(ソビエト連邦)の共産党を支持する日本共産党主導の「日本のうたごえ運動」でよく歌われた。
「日本のうたごえ運動」の功労者、日本共産党党員の関鑑子(1899年9月8日~1973年5月2日)は、1948年(昭和23年)2月10日、既存の日本青年共産同盟「中央コーラス隊」を母体として、「中央合唱団」を創設した。
1948年(昭和23年)9月20日発行、關鑑子監修、日本民主青年同盟中央文化部編 『青年歌集』(日本青年共産同盟出版部、文庫判型141頁、151曲収録、65円)が刊行された。この歌集の内容は、評議会同盟の歌やルースキ語民謡、アメリカン人、ドイチュ人、イタリアーノ人などの世界各民族の民族語の民謡、日本語の民謡だった。これらの歌は、軍歌や学校で習う唱歌しか知らない青年にきわめて斬新な印象を与えた。
ルースキ語民謡は、同時代の模範的で進歩的な評議会同盟(ソビエト連邦)と結び付くことから、評議会同盟を模範的社会とみなす後進国・日本の共産主義者の「うたごえ運動」への参加を青年に動機づけた。
1948年(昭和23年)11月26日、東京の帝国劇場で、評議会同盟の二番目の総天然色映画劇『シベリア物語』Сказание о земле Сибирской(1947年公開。114分)が公開された。
ルースキ人の交響曲、室内楽に加え、ニコライ・クリューコフ(Николай Крюков、1908年2月2日~1961年4月5日)作曲、イェヴゲーニ・ドーマトフスキ(Евгений Долматовский、1915年5月5日 ~1994年9月10日)作詞の主題歌「シベリアの大地」Уходил на войну сибиряк、デカプリスト(12月党員)の流刑囚の歌「さすらい人」Бродяга(「バイカル湖のほとり」По диким степям Забайкалья)、「君知りて」Зачем тебя я,милый мой,узнала?ほか9曲の挿入歌が歌われていたことから「うたごえ運動」に大きな影響を与えた。
1949年(昭和25年)11月発行、關鑑子監修『続青年歌集』(日本民主青年団出版部、文庫変形判70頁、49曲収録、40円)が刊行された。挿絵(カット)はちひろ(いわさきちひろ、1918年12月15日~1974年8月8日)だ。
1951年(昭和26年)7月22日、関は音楽センターの主宰者となった。同年11月25日、關鑑子編『青年歌集』(音楽センター)が刊行された。
1953年(昭和28年)3月20日、關鑑子編『青年歌集』第2編(音楽センター)が刊行された。同年11月29日、関は「1953年日本のうたごえ祭典」を日比谷公会堂・神田共立講堂で開催した。会場の舞台には標語「うたごえは平和の力」が掲げられた。
石黒家では再就職の見通しが立ち上機嫌の辰五郎が克巳と飲みながら浪曲「清水次郎長伝」「石松の代参」を歌う。
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