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1958年の映画劇『彼岸花』と楠木正成・正行


太平記と日本の権力闘争

1185年12月21日(文治元年11月28日)、鎌倉に38歳の源頼朝(みなもとのよりとも、1147年5月16日~1199年2月16日)の軍事政権が成立した。

13世紀の温暖化は、大陸北部の遊牧民の大移動の要因となった。

1206年、チンギス・カンが高原のモンゴル諸部族を統一した。

1215年、モンゴル軍ジン(金)の従来の首都のイエンジン(燕京)(現ベイジン)を包囲・陥落させた。

2023年(令和5年)11月11日、YouTubeチャンネル「春木で呉座います。」で、43歳の呉座勇一(ござ ・ゆういち、1980年8月26日~)「【呉座勇一の日本史講義】『逃げ上手の若君』アニメ化決定記念第6弾楠木正成の実像」(95分)が公開された。

悪党」研究の歴史が語られる。

14世紀は寒冷化により、大陸の人口密集地で疫病が大流行し、経済活動が衰退した。

1333年7月17日(元弘3年6月5日)、鎌倉政権を打倒した44歳の後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日~ 1339年9月19日)が、建武の新政(けんむのしんせい)を始めた。

1336年7月4日(建武3年5月25日)、湊川みなとがわ(現・神戸市)で、天皇政権を倒すため、九州から東上して来た30歳の足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305年8月18日~1358年6月15日)、足利直義(あしかが・ただよし、1306年~1352年3月13日)兄弟らの軍と、これを迎え撃った天皇方の新田義貞(にった・よしさだ、1301年~1338年8月17日,)、楠木正成(くすのき・まさしげ、1294年~1336年7月4日)の軍との間で戦争がおこなわれた。

戦場に赴く前、桜井駅(現・大阪府三島郡島本町桜井)で、楠木正成は数え11歳の嫡子・正行(まさつら、1326年~1348年2月4日)を呼び寄せて故郷の河内かわちへ帰した。

楠木正成は自害し、新田義貞は負傷し、京へ帰還した。

1370年頃、1318年3月29日(文保2年2月26日)の29歳の後醍醐天皇の即位以後、約半世紀の日本の動乱を物語る全40巻の書物『太平記』が成立した。

第一部、巻1から巻11までは、後醍醐天皇による政権奪取計画から政権確立まで、楠正成(くすのき・まさしげ)らの動きを軸として描き、完結した物語をなしている。

第二部、巻12から巻21までは、天皇政権を批判しつつ、新政に対する諸国の武士の不満を背景に、足利、新田の対立と足利の勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。

15世紀の京都では商業が繁栄し、現代の全国的な日本文化の原型を形成した。

徳川時代の初期になると、太平記読(たいへいきよみ)と呼ばれる講釈師が道端などで、武士に向けて、『太平記』の物語とその歴史観、道徳観を教えた。

1994年(平成6年)2月1日、講談社が一般教養人向けの廉価で軽装の学術専門分野入門叢書「講談社選書メチエ」を創刊した。

1995年(平成7年)11月10日、「講談社選書メチエ」、45歳の兵藤裕己(ひょうどう・ひろみ、1950年10月3日~)著『太平記「よみ」の可能性歴史という物語』(講談社、税込み1,500円)が刊行された。

1999年(平成11年)6月20日、「平凡社選書」、38歳の若尾政希(わかお・まさき、1961年2月4日~)著『「太平記読み」の時代近世政治思想史の構想』(平凡社、本体2,800円)が刊行された。

2005年(平成17年)9月10日、「講談社学術文庫」、兵藤裕己著『太平記「よみ」の可能性歴史という物語』(講談社、本体1,000円)が刊行された。

2012年(平成24年)11月1日、「平凡社ライブラリー」、若尾政希著『「太平記読み」の時代近世政治思想史の構想』(平凡社、本体1,700円)が刊行された。

1829年、大阪の秋田屋などで、頼山陽(らい・さんよう、1781年1月21日~1832年10月16日)による日本史『日本外史』全22巻が刊行された。

2019年(令和元年)10月26日、広島で、身延典子(1955年~)著『頼山陽と戦争国家』(南々社、本体2,700円)が刊行された。

王政復古と日本の中央集権化

1868年1月3日(慶応3年12月9日)、15歳の天皇(1852年11月3日~1912年7月30日)が大日本帝国王政復古を宣言した。

1868年2月10日(慶応4年1月17日)、他の七つの事務科とともに神祇事務科が設置され、七科の筆頭に置かれた。

1868年6月17日(慶応4年3月13日)、統治機構について定めた太政官の布告「政体書」が公布された。
冒頭に「御誓文(ごせいもん)」を掲げた。
祭政一致の制度を復興し、諸神社が所属する神祇官が正式に復興し、太政官の下に置かれた。

1869年8月15日(明治2年7月8日)、職員令により、神祇官が太政官から独立して、行政機関の「筆頭」に置かれた。
神祇官内に大教(国教)の全国での宣布・宣教を目的として官庁「宣教使(せんきょうし)」を設置した。

1871年9月2日(明治4年7月18日)、大日本帝国が、東京・神田の湯島聖堂内に、全国での教育・学術などを担当する行政官庁として文部省を設置した。

1872年11月(明治5年10月)、太政官正院歴史課が設置された。

1875年(明治8年)4月、太政官正院歴史課太政官正院修史局に改組された。

楠木正成・正行父子の話は、1882年(明治15年)の天皇の勅命を受けた侍講・元田永孚(もとだ・ながざね、1818年10月30日~1891年1月22日)によって編纂され、1882年(明治15年)12月2日に宮内省より頒布された勅撰修身書幼學綱要』では「忠節」の課に置かれ、親子 2 代にわたる天皇への忠節として位置づけられた。

しかし、1875年(明治8年)以降、太政官正院修史局・修史館で修史事業に関わった重野安繹(しげの・やすつぐ、1827年11月24日~1910年12月6日)は、1881年(明治14年)、『大日本編年史』編纂に参加し、『太平記』の伝承を創作であって史実ではないと考え、同書にしか記述のない児島高徳や「桜井の別れ」は国史に載せるべきではないと唱えた。

これに対し、川田甕江(かわた・おうこう、1830年8月1日~1896年2月2日)は、『太平記』を初めから創作と決め付けるべきではないと反対して、両者は激しく論戦をおこなった。

重野と国学系・水戸学系歴史学者との対立が激化した結果、1881年(明治14年)、川田甕江は修史館を去り、宮内省に移った。

1877年(明治10年)11月21日、宮中吹上御苑ふきあげぎょえん御茶亭にて、25歳の天皇が菊花上覧宴に59歳の元田永孚侍講を召し、吟詠を命じ、元田が「芳山(はうざん)楠帶刀(くすのき・たてわき)の歌」を吟じた。

2005年(平成17年)12月10日発行、立花隆(1940年5月28日~2021年4月30日)著『天皇と東大大日本帝国の生と死』上(文藝春秋、2,667円)の前半の文庫版、2012年(平成24年)12月10日発行、立花隆著『天皇と東大①大日本帝国の誕生』(文春文庫、本体714円)、第9章「東大国史科の「児島高徳抹殺論」」を引用する(265~266頁)。

 人々を憤激させた点では、「桜井駅の別れ」の否定も同じだった。これは、太平記の主人公の一人である忠臣楠木正成の子別れの場面で、教科書などでもよく絵になっていたから、昔の人ならみんな記憶にある名場面なのである。
 一三三六年、楠木正成は、九州から大軍を率いて東上する足利尊氏を兵庫の港川で迎え撃つことを命ぜられるが、多勢に無勢で、はじめから負け戦覚悟の出陣となる。
 その途中、河内国に住んでいた息子正行まさつらを摂津の桜井駅に呼びだして別れを告げる。その場面、当時の小学校の歴史教科書に従えば、こうなっている。
「されば、正成、今は是なりと心をさだめて、摂津の桜井駅に到り、其子正行に告ぐるよう、『吾死して後は、天下は尊氏のものとなるべし。されども、汝命を惜みて敵に降参するが如きこと万々あるべからず、一族のもの、一人にても生きのこらん限りは、必ず忠義の旗をあげよ』と、かたくいましめて、河内の我が家に送り還せり。正行其時年十一なりき。(略)
 正行は、河内に帰りし後、父の遺言を忘れずして、常に子供同士遊び戯むるゝにも、自ら大将となりて、尊氏を斬るまねなどせり。かくて、年二十に及びて、忠義の兵をおこし、たびたび敵を破りけるが、遂に河内の四條畷しじようなわてに戦ひて討死せり。武勇にして、忠義の心深きこと、此父子の如きは古今に稀なり。誠に我が国民のかがみといふべし」(『帝国小史』〈明治二十六年検定〉巻之二第十六章)
 これまた忠義心のお手本のような話で、歴史の教科書にのっていたばかりでなく、宮内省から直々に地方行政長官を通じて全国の小学校に配布された修身用の教科書『幼学綱要』(元田永孚著)の忠義の項には、もっと詳しい形でのっている。小学生に忠義心の何たるかを教えるには最良の教材と考えられたのである。

楠木正成の騎馬像と藤原鎌足の百円券

皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた39歳の楠木正成のブロンズ製の騎馬像は、愛媛県にあった別子(べっし)銅山を開いた住友家が、1889年(明治22年)末、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友総理人の61歳の広瀬宰平(ひろせ・さいへい、1828年6月16日~1914年1月31日)が住友家13代当主・住友友忠(1872年~1890年11月30日)と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めたものだ。

東京美術學校に依頼し、図案は募集により、学生・岡倉秋水(おかくら・しゅうすい、1867年12月11日~?)のものが選ばれた。
甲冑かっちゅうは歴史画家で同校の教授だった川崎千虎(かわさき・ちとら、1837年1月8日~1902年11月27日)が考証を担当した。

原型は木彫を使用した。木彫科の主任教授の高村光雲(たかむら・こううん、1852年3月8日~1934年10月10日)が頭部を担当し、山田鬼斎(やまだ・きさい、1864年~1901年2月20日)と石川光明(いしかわ・こうめい、1852年10月1日~1913年7月30日)が身体と甲冑かっちゅう部分を、後藤貞行(1850年2月4日~1903年8月30日)が馬を担当した。

日本初の分解鋳造法による鋳造を担当したのは助教授の岡崎雪聲(おかざき・せっせい、1854年2月26日~1921年4月16日)と杉浦滝次郎(1856年11月?~1901年5月3日)だった。

1891年(明治24年)11月15日、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、614年~669年)の肖像を図案とする日本銀行改造100円券が発行された。

藤原鎌足の肖像のモデルは当時の大蔵大臣、56歳の松方正義(まつかた・まさよし、1835年3月23日~1924年7月2日)だ。
図案制作は、58歳のエドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone、1833年1月21日~1898年4月11日)だ。

大山助一(おおやま・すけいち)が肖像彫刻を担当した。
当時、超高額紙幣であったため、主に銀行間の支払いに用いられた。

1896年(明治29年)9月に高さ約4mの楠木正成のブロンズ製の騎馬像が完成し、高さ約4mの台座は宮内省により造られた。
1900年(明治33年)7月に台座に載った銅像が完成した。

『學校生徒行軍歌 湊川』

1899年(明治32年)6月25日、神戸市の熊谷久榮堂から、37歳の従六位落合直文(おちあい・なおぶみ、1861年12月16日~1903年12月16日)先生作歌、40歳の岡山縣師範學校教諭・奥山朝恭(おくやま・ともやす、1858年9月12日~1943年4月9日)先生作曲『學校生徒行軍歌 湊川』(5銭)が刊行された。
第一歌から第六歌までの歌詞は「櫻井訣別」と題された。


1900年(明治33年)8月20日の勅令で「小学校令」が改正され、日本歴史高等小学校で教えることとされ、尋常小学校の歴史科が廃止された。

最初の国定教科書は、修身・国語・地理・歴史の4教科で始まった。
1903年(明治36年)年10月6日、『小學日本歴史』一(本文68頁)、同年10月16日、『小學日本歴史』二(本文70頁)が発行された。

天皇と東大①大日本帝国の誕生』、第10章「天皇「神格化」への道」を引用する(304頁)。

 明治三十六年の『小學日本歴史』では、
「これより、同時に二天皇あり。吉野の朝廷を南朝といひ、京都の朝廷を北朝といふ。かくて、宮方、武家方の争は、つひに両皇統の御争の如くなれり。(略)これより後、南北両朝あひ争ふこと、五十余年の久しきに及べり」
 とこれまた客観主義だった。これが、はじめての国定教科書で、東京大学国史科教授の三上参次が編集にあたり、実際の執筆には、教え子の多貞吉(文部省編輯官へんしゆうかん)があたっていた。

1907年(明治40年)3月21日の「小学校令」改正で、義務教育年限4年が6年に延長され、尋常科第5・6学年歴史科を学ばせることになった。

それに応じて、1909年(明治42年)9月、歴史国定教科書の『尋常小學日本歴史』が発行された。この教科書でも、南北両朝は並立していたものとして書かれていた。

1909年(明治42年)に文部省が発行した国語国定教科書尋常小學讀本』巻七の「第1課」、つまり尋常小学4年生(9~10歳)が最初に習うのが「楠木正行(一)」と「楠木正行(二)」だった。

1911年の南北朝正閏問題

ところが、1910年(明治43年)の『尋常小學日本歴史』の教師用教科書改訂にあたって南北両朝は並立していたとの記述が問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水(こうとく・しゅうすい、1871年11月5日~- 1911年1月24日)の発言が、これに拍車をかけた。
歴史学界で「南北朝正閏(せいじゅん)問題」が起きた。「正閏せいじゅん」とは正しい系統とそうでない系統のことだ。

1911年(明治44年)1月19日付の『讀売新聞』は半嶺子こと豊岡茂夫(1870年?~1912年6月27日)の「南北朝對立問題國定敎科書の失態」と題した社説で「説し兩朝の對立をしも許さば、國家の旣に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かる可し。何ぞ文部側の主張の如く『一時の變態』として之を看過するを得んや」と国定教科書を批判した。

豊岡茂夫はのちに1912年(明治46年)6月20日発行、『大楠小楠(だいなん・しょうなん)』(敬文館、65銭)を出版したが、同年6月27日に42歳で亡くなった。

読売新聞の社説を機に、南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り、帝国議会で、野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが64歳の桂太郎(1848年1月4日~1913年10月10日)内閣を糾弾した。
このため、政府は1911年(明治44年)2月4日、帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。

1911年(明治44年)2月27日、文部省は教科書執筆責任者である39歳の喜田貞吉(きた・さだきち、1871年7月11日~1939年7月3日)を休職処分とし、7月21日に教科書改訂をおこなった。

最終的には『太平記』に基づき、1906年(明治39年)に完成した『大日本史』の記述を根拠に、天皇の裁断で、三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることになった。 

1971年(昭和46年)7月30日発行、49歳の橋川文三(1922年1月1日~1983年12月17日)、39歳の鹿野政直(かの・まさなお、1931年8月20日~)、41歳の平岡敏夫(1930年3月1日~2018年3月5日)編集『近代日本思想の基礎知識』(有斐閣、1,700円)、36歳の飛鳥井雅道(あすかい・まさみち、1934年11月26日~2000年8月31日)「南北朝正閏問題」を引用する(187頁)。

 明治四四年二月一日、蘆花が一高で『謀叛論』を講演したとき、政府部内では校長の新渡戸稲造を攻撃しようとした部分が存在した。しかし、直接新渡戸を休職にする根拠が見出せず、代わって持ち出されたのが、「南北朝正閏問題」であった。
 当時の『小学日本歴史』のなかに南朝、北朝の取扱いを「これより同時に二天皇あり。吉野の朝廷を南朝といひ、京都の朝廷を北朝といふ。かくて宮方、武家方の争は、つひに両皇統の御争の如くなれり」としている記述につき、二月四日、折から開かれていた衆議院で質問書が提出されたのである。
 要旨は、「国民をして順逆・正邪をあやまらしめ」るというものだが、実際には当時の明治天皇が北朝系であり、水戸学以来南朝が正統と評価してきた皇国史観との矛盾をついて政府を窮地に追いこもうとするものだった。この教科書は明治三六年にすでに作られ使用されていたものだった。二月二三日衆議院は秘密会でもって立憲国民党が改めて提出した「大逆事件・南北朝正閏論に関する閣臣問責決議案」を一応否決したが、その背景には、明治天皇自身の裁可があったと伝えられ、教科書編纂委員の喜田貞吉は文部省によって休職を命ぜられたのである(明四四・二・二七)。
 科学的・客観的叙述はこの教科書の使用禁止、翌年の新教科書の改訂版発行によって息をとめられ、以後敗戦まで後醍醐天皇と楠木正成の神格化がおしすすめられた。皇室は自らすすんで南朝正統論採用、水戸学の全面的支持を暗黙のうちにうち出し、政府は併立時における北朝の天皇を教科書から削除したのだった。天皇の現人神あらひとがみとしての性格はしだいに強化された。

1911年(明治44年)4月から使われた修身の国定教科書『尋常小學修身書』巻四、第四課「忠君愛國(其の二)」も楠木正成の功績の教えだった。この第二期国定修身教科書で初めて「忠君愛国」の表題が用いられました。

1911年(明治44年)11月、『尋常小學日本歴史』の改訂版が発行された。改訂版では、南朝正統とし北朝は皇位として認めないとする立場が示され、「南北朝両立」という表記は「吉野の朝廷」と改められた。また、国体や忠孝の道徳を教えることを強化する方針が取られた。

教科書の改定に伴って改定された児童用の参考書、1912年(明治45年)1月20日発行、歴史研究會改定尋常小學日本歴史問答尋常五年用』(田中宋榮堂、10銭)より「吉野朝廷の盛衰」を引用する(57頁)。

北畠顕家キタバタケアキイヘは、尊氏の軍と戰うて和泉で戰死し、新田義貞は越前で戰死したが、間もなく後醍醐天皇もおかくれになり、後村上天皇が立たれた。この御代には、吉野朝廷の柱石とたのまれた顕家の父親房チカフサや、楠木正行が力をつくして守護し奉り、九州には菊池武光キクチタケミツがあつて、一時、兩朝の勢が盛であつたけれども、正行は、尊氏の將師直モロナホの大軍と四條畷シデウナハテで戰うて討死ウチジニし、ついで親房も病んでこうじたので、これから吉野朝廷の勢は、しだいにふるはぬやうになつた。

尋常小學讀本唱歌』は文部省編の準国定教科書だ。
楠木正行の忠君愛国の美談についての歌「桜井のわかれ」は、1912年(大正元年)12月15日発行の第四学年唱歌』20曲のうち2曲目だ。
これは『尋常小學讀本』巻七、第一・第二課「楠木正行」、『尋常小學修身書』巻四、第三課、第四課「忠君愛國」と連動している。

2017年(平成29年)3月22日、「集英社新書」、「シリーズ〈本と日本史〉」④、67歳の神田千里(かんだ・ちさと、1949年12月~)著『宣教師と『太平記』』(集英社、本体700円)が刊行された。

同書によると、『太平記』は16世紀から17世紀にかけて日本語教養の「百科全書」的教材として普及していた。

 同書の終章「国家と未来」を引用する(173頁)。

 明治末から大正初めにかけて文部省により出版された『尋常小学唱歌』には、歴史物語を題材としたものが少なくない。主なものを拾うと、『太平記』の逸話による「桜井のわかれ」「大塔宮おおとうのみや」「児島高徳」「鎌倉」、『平家物語』の逸話による「那須与一」「鵯越ひよどりごえ」「斎藤実盛」などがみられ、それ以外では『大鏡』による「菅公」「三才女」、『曾我物語』による「仁田四郎」「曾我兄弟」、『古今著問集』による「八幡太郎」「三才女」、『義経記』による「牛若丸」「鎌倉」、他に「豊臣秀吉」「川中島」「八岐やまた大蛇おろち」「加藤清正」などがあるが、一見して『太平記』『平家物語』が多いという印象が強い(なお、「鎌倉」「仁田四郎」「曾我兄弟」の出典には『吾妻鏡あずまかがみ』も考えられる)。

『太平記』で華々しい活躍を描かれている楠木正成の名前は、太平記の諸本では一貫して「楠正成」と表記されている。
「楠木」と表記とされるようになったのは明治時代以後のことで、国定教科書で「楠木」の表記が広まった。

日本語映画劇の草創期の功労者として知られる小津安二郎(1903年12月12日~1963年12月12日)と笠智衆(りゅう・ちしゅう、1904年5月13日~1993年3月16日)の世代は、1900年(明治33年)8月2日の小学校令が1907年(明治40年)3月21日に一部改正され、尋常小学校の修業年限が4年から6年に延長された最初期の世代だ。
修業年齢は、尋常小学校1年が、6歳から7歳、尋常小学校6年が11歳から12歳だった。

小津安二郎は、三重県松阪町の松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)で、楠木正行の偉大さを国定教科書を通じて学んだ。

小津安二郎より4歳年下の中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年4月29日 ~1937年10月22日)は、1915年(大正4年)1月、山口県の下宇野令村立下宇野令尋常小学校(第一学年、7歳の時、4歳の次弟・亜郎を亡くした。
中也が、この弟を追悼する詩で詩作を始めた時の模範となったのも国定教科書の「楠木正行」だった。
第四学年向けの読本を第一学年で読んでいたことになる。
1936年(昭和11年)に中也が書いた「詩的履歴書」を引用する。

 詩的履歴書──大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々の最初である。學校の讀本の、正行が御暇乞の所、「今一度天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。

 

太平記』の「櫻井驛の別れ」の挿話は、1920年(大正9年)3月13日発行の国定教科書尋常小學國史』上巻に掲載された。

1921年(大正10年)4月18日発行、木藤重徳著『尋常小學國史詳説及敎法』上巻(五學年用)(集成社、2円80銭)から引用する(240頁)。

 正成櫻井驛に至った時、かつて天皇より賜はった菊水の刀をかたみとして其の子正行に授け、「此の度の合戰は味方の勝利おぼつかない。われ戰死の後は、世はまた足利氏のものとなるであらう。されど汝必ずわれに代って忠節を全うせよ。一族郎黨の一人にても、死殘ってあるならば、どこまでも敵とたヽかって、卑怯なことがあってはならぬ。これ汝が第一の孝行である。」とねんごろに諭して河内にかへした。

1930年(昭和5年)8月1日、印面に皇居前広場の楠木正成像を図案にした新しい郵便はがきが発行された。
この「楠公(なんこう)はがき」は、1銭5厘2銭3銭5銭と額面を上げて、1945年(昭和20年)まで発行された。

1931年(昭和6年)7月21日、藤原鎌足談山神社十三重塔の図案の20円日本銀行券が発行された。
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰とうのみねにある神社だ。
藤原氏の祖である鎌足の死後の678年、長男で僧の定慧(じょうえ、643年~666年)がタンからの帰国後に、父の墓を摂津国せっつのくに安威あいから大和国やまとのくにの当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが発祥だとする。
少し歩いたところに鎌足の次男、不比等(ふひと、659年~720年)の墓といわれる石塔がある。

1939年(昭和14年)7月21日、藤原鎌足の肖像画の図案の5円切手が発行された。

楠木父子の「桜井のわかれ」の場面再現劇は、1941年(昭和16年)4月1日に発足した国民学校の5年生、6年生の上演する学芸会、あるいは中学校の学芸会の定番の演目になった。

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、民間人抑留地として創設されたシンガポールジュロン(Jurong)抑留所は1946年(昭和21年)頃まで抑留所としての機能を果たし、映画関係者や出版関係者らが多数、抑留していた。

敗戦により小津安二郎組一同もジュロン抑留所に収容された。
小津は現地で「文化部長」として、文・画を施したガリ版新聞を発行した。小津が『太平記』『平家物語』や日本の古典文芸をよく勉強していたことは、84歳の井上和男(1924年12月27日~2011年6月26日)の証言からわかる。
井上は小津についての回想記「うで卵 くふ 塘眠堂」『日本映画監督協会会報』2009年(平成21年)2月号で、こう述べている。

 さて、ジュロン収容所の小津さん達の生活や動静は、どんなものであったか、この際、もう少し知りたいものと、著作権者として、当時の日記を克明に整理している小津ハマさん(実弟小津信三さんの未亡人)にお訊ねした所、小津さんらしいと言えば実に小津さんらしい、びっくりするような資料のコピーを送って頂いた。食って寝つ、呑んで寝つなんて呑気なものではない。小津さんはやっぱり他人には余り見せないが、凄い勉強家なのだ。〈文学覚書〉というノートには、「太平記」「平家物語」の構成やメモがびっしりで、つづいて芭蕉研究、蕉門十哲の研究となり、一転して自らの小津塘眠堂の句集を整理している。また、〈俳諧の季題は連歌に基づくものだ〉として、「古今集」「新古今集」に及び、今度は、連句の定りや作句上の約束を勉強している。

http://www.dgj.or.jp/0010_mtt/article/000849.html

1944年(昭和19年)11月1日、皇居前広場の楠木正成像を図案にした日本銀行券5銭券が発行された。

1945年(昭和20年)4月15日、藤原鎌足談山神社拝殿の図案の200円日本銀行券が発行された。

1945年(昭和20年)9月2日、大日本帝国アメリカ連合国軍の占領統治下に入った。

1946年(昭和21年)5月13日、占領軍(GHQ)の「日本郵便切手及通貨ノ図案ニ就テノ禁止事項ニ関スル件」と題する指令で靖国神社1円切手勅額切手等が使用禁止となった。
しかし、それらの例外を除き、軍国主義、神道の象徴の図案の切手が使われていた。

1946年(昭和21年)8月1日、GHQの指導の下、逓信省の発行する郵便切手の国名表示を「大日本帝國郵便」から「日本郵便」に変更し、「民主図案」を採用した新普通切手の第1号として、葛飾北斎(かつしか・ほくさい、1760年~1849年)の富士山の図版画集「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」中の「山下白雨(さんかはくう)」を図案にした1円切手が発行された。

1947年(昭和22年)6月29日、占領の最高責任者、67歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)の意向で、逓信省は軍国主義、国家神道に関わる図案の郵便切手、郵便はがきの発売停止を全国の郵便局に指示した。

発売禁止となった郵便切手、郵便葉書には、藤原鎌足5円切手楠公銅像1銭5厘はがき2銭はがき3銭はがき5銭はがきが含まれていた。

さらに同年7月23日付の逓信省令でそれらの使用を禁止した。
同年8月31日限りで、該当する切手・はがきに関しては、手持ち分についても全面的に使用を禁止し、使用可能な切手と交換させることになった。

2019年(平成31年)2月7日、28日発行、谷田博幸(たにた・ひろゆき、1954年~)著『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか非常時日本の楠公崇拝』(河出書房新社、本体2,900円)が発売された。

敗戦後の日本では、アメリカ連合国軍の指導により、公的な学校教育だけでなく、私的な娯楽においても、天皇崇拝の象徴である楠木父子は、講談に代わる大衆文芸の題材に用いられなくなった。

1954年(昭和29年)9月25日、岡山市の後楽園外苑に、唱歌「湊川」の作曲者・奥山朝恭の顕彰碑が建てられた。

映画劇『彼岸花』と楠木正成・正行

1958年(昭和33年)の日本人人口は約9,200万人、平均寿命は男性が65歳、女性が70歳だった。
多くの企業において55歳が定年退職の年齢だった。

1958年(昭和33年)9月7日、64歳の野田高梧(のだ・こうご、1893年11月19日~1968年9月23日)、54歳の小津安二郎脚本、小津監督、49歳の佐分利信(さぶり・しん、1909年2月12日~1982年9月22日)主演の総天然色の映画劇『彼岸花』(118分)が公開された。
撮影は同年5月12日~8月25日におこなわれた。

映画劇『彼岸花』は、東京駅丸の内駅舎のドームに設置された直径1.4mの塔時計のアラビア数字の文字盤の上の針が午後2時50分を指している画面で始まる。

東京の玄関口として1908年(明治41年)3月25日に、53歳の辰野金吾 (たつの・きんご、1854年10月13日~1919年3月25日)設計で、建設工事を開始した東京駅は、1914年(大正3年)12月20日に開業した。

長さ約335mにも及ぶ鉄骨レンガ造りの地上3階、地下1階建てだった。
皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎の中央に皇室口が設けられたことから「天皇の駅」と位置づけられた。
南側のドームが乗車口、北側のドームが降車口とされ、駅前は広大な広場が作られた。
レンガは構造用に約767万個、外壁を彩る化粧用の赤レンガは92万7,000個使われた。

建設段階では中央停車場と称されていたが、中央停車場の設計作業が最終的に完了したのは1910年(明治43年)12月だった。

開業まで2週間ほどしかない1914年(大正3年)12月5日に、ようやく鉄道院総裁達により、中央停車場を東京駅とすることが正式に発表された。

1945年(昭和20年)5月25日、22時30分頃から約2時間半に渡って、米軍の戦略爆撃機B-29約250機による東京空襲がおこなわれ、東京駅丸の内駅舎降車口(北口)付近に焼夷弾が着弾して炎上した。
火勢が強く駅舎全体に延焼し、鎮火したのは26日の朝7時頃で、最終的に丸の内駅舎などを焼失した。八重洲やえす駅舎は焼失を免れた。

1947年(昭和22年)3月15日、丸の内口駅舎復旧工事が完了した。
安全性の配慮から、南北ドーム部の3階建て部分が角屋根化され、駅舎も3階建てから2階建てに縮小された。

1951年(昭和26年)11月15日、東京駅丸の内駅舎内の東京ステーションホテルの宿泊施設が営業再開した。

1954年(昭和29年)10月14日に地下2階、地上6階の本格的な八重洲やえす駅舎が竣工した。

1956年(昭和31年)11月19日、東海道本線全線電化が完成し、特急「つばめ」「はと」はEF58形電気機関車が全線を通して牽引するようになった。

2007年(平成19年)5月30日、東京駅の丸の内駅舎を創建当初の3階建てに復原する工事が始まり、2012年(平成24年)10月1日に完成した。時計塔の文字盤は、アラビア数字から創建当初のローマ数字に戻された。

15時20分頃の東京駅の12番線、湘南電車のプラットホームの場面に続いて、
佐分利信
が演じる、大企業の大和商事株式会社の取締役・平山渉(ひらやま・わたる)の友人・河合利彦中村伸郎)の娘・伴子清川晶子)の結婚披露宴が東京駅丸の内駅舎内の東京ステーションホテルで催される一日の午後3時10分前から夜までが描かれ、平山、河合、堀江平之助北竜二)の中学(14歳~19歳)時代からの共通の友人、三上の欠席と、平山渉と婚期を迎えた娘・節子の現在置かれている状況が暗示される。

披露宴の晩の赤坂の料亭「若松」の場面で、堀江平山河合の三人が一緒に呑んでいる。

堀江「ウーンと、あれはいつだっけな? 17年か8年か、山口へ行った帰りにね、くれへ寄ったんだ」
平山「へえ、その時分、三上まだ呉にいたのかい」
堀江「いたよ。そのあとが艦長だ。(河合の顔を見て)水交社で一晩ご馳走になってね。随分あったよ、いろんな酒が」

1958年(昭和33年)の時点から振り返ると、1943年(昭和18年)は15年前だ。この会話から、三上が戦争末期に海軍艦長だったことがわかる。

水交社(すいこうしゃ)は、1876年(明治9年)3月21日に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体だ。名称は『荘子』の「君子之交淡若水君子(くんし)の交わりは淡きこと水の若(ごと)」に由来する。
海軍士官専用の旅館や喫茶店なども経営し、会員と施設利用は海軍士官・高等文官・士官候補生などの海軍幹部関係者限定だった。

呉(くれ)鎮守府(ちんじゅふ)開設に伴って、洋風木造二階建ての軍政会議所兼「水交社」が1889年(明治22年)に建てられた。
この建物は、1890年(明治23年)4月21日の呉鎮守府開庁式へ37歳の天皇が行幸されるときの行在所あんざいしょとして使われることとなり、初めてこの建物を使用したのは天皇だった。

水交社の守り神として1943年(昭和18年に)海軍によって水交神社が建立された。天照大神あまてらすおおみかみを祀っている。

1943年(昭和18年)12月2日発行、50歳の岩田豊雄獅子文六、1893年7月1日~1969年12月13日)著『海軍隨筆』(新潮社、1円70銭)に、1943年(昭和18年)頃の呉の描写として「街を歩いていると撞球場の多いのに驚いた。反面、士官はめったに街の撞球場に足を踏み入れないという話も聞いた。彼らは水交社の撞球場で遊ぶという」とある。

同書については、2014年(平成26年)2月2日発行、83歳の半藤一利(はんどう・かずとし、1930年5月21日~2021年1月12日)著『若い読者のための日本近代史私が読んできた本』(PHP文庫、本体680円)、第三話「「撃ちてしやまむ」の時代」、「真珠湾に突撃していった青年獅子文六『海軍随筆』」が参考になる。

2016年(平成28年)11月12日に日本国内63館で封切られた、こうの史代(ふみよ、1968年9月28日~)原作、56歳の片淵須直(かたぶち・すなお、1960年8月10日~)監督の長篇アニメーション映画劇『この世界の片隅に』(129分)の主人公すずのん)は、戦時下の1943年(昭和18年)12月、呉鎮守府軍法会議録事(書記官)の北條周作細谷佳正)の妻となる。
すずが周作に帳面を届けに行く場面に登場する呉海軍下士官兵集会所は、軍艦が帰港した時の海軍下士官の厚生施設だ。

1903年(明治36年)、海軍下士官・兵のための厚生施設として呉海軍下士卒集会所が設置された。
1921年(大正10年)、呉海軍下士卒集会所が「呉海軍下士官兵集会所」に改称された。
1936年(昭和11年)に、地上3階・地下1階・一部塔屋付きの鉄筋コンクリートの建物が完成した。

2018年(平成30年)1月19日、呉市は、老朽化から解体も検討していた旧呉海軍下士官兵集会所(青山クラブ)を保存する方針を明らかにした。

平山の娘・節子有馬稲子)の河合利彦仲人なこうどを務める結婚式のあとの、平山たちのクラス会の場所は、愛知県蒲郡がまごおり市の蒲郡ホテルだ。
三河湾を見下ろす丘の上で、1934年(昭和9年)4月に開業した。外観を城郭風にして、内装をアール・デコ調の洋風にした和洋折衷様式だ。

大東亜戦争中の1944年(昭和19年)12月、常盤(ときわ)館蒲郡ホテル緑別館共樂館竹島館日本陸軍病院に提供され、営業中止した。

1945年(昭和20年)10月、蒲郡ホテルは敗戦後に進駐した米軍により接収され、1952年(昭和27年)の日本独立回復後の5月31日に全館の接収が解除され、一般開放された。

1955年(昭和30年)3月30日、蒲郡ホテルに、21歳の皇太子明仁(あきひと、1933年12月23日~)親王が泊った。

1957年(昭和32年)4月10日、蒲郡ホテルに、55歳の天皇(1901年4月29日~1989年1月7日89)、54歳の香淳(こうじゅん、1903年3月6日~2000年6月16日)皇后が2泊した。

1980年(昭和55年)3月31日、蒲郡ホテルは廃業し、蒲郡市に売却された。

1986年(昭和61年)8月5日、 国土計画が蒲郡市より旧蒲郡ホテルを買収した。

1987年(昭和62年)8月4日、旧蒲郡ホテルが改装され、蒲郡プリンスホテルとして営業を再開した。

2012年(平成24年)3月30日、呉竹荘グループが蒲郡プリンスホテルの事業継承し、蒲郡クラシックホテルと改称した。

『彼岸花』の同窓生たちが東京と大阪からそれぞれ蒲郡に移動する手段は、東海道本線特急だったと考えられる。

平山、三上、河合らが東京から蒲郡に行くには、まず特急「はと」で豊橋駅に行き、そこで東海道本線の普通列車に乗り換え蒲郡駅まで行き、そこからタクシーでホテルに向かったと考えられる。
それでも移動に半日を費やし、費用も往復の交通費だけで、庶民の月給に相当する額を使った可能性もある。

夜の蒲郡ホテルの場面で、平山渉三上周吉笠智衆)、河合利彦堀江平之助中西江川宇礼雄)、菅井菅原通済)、竹田法一)の7人だけになった時、堀江が三上に「ああ、三上、あれやってくれよ、久しぶりに」と言う。

三上「何?」
堀江「ほら、あれだよ、くれでやった正行まさつらの」
三上「ああ、あれはいかん」

結局、皆の求めに応じて、「だが、ちっと時代がずれとるぞ」と前置きし、三上元田永孚の詩吟「芳山楠帶刀の歌」を歌う。「楠木正行、如意輪堂の壁板に辞世を書するの図に題する」。

三上が歌う直前に画面が切り替わる。
背後に15世紀の藤原鎌足を神として描いた像の掛け軸が見える。
画面下の向かって左側は鎌足の息子の不比等、右側も同じく息子の定慧だ。
この図像の複製は大量にあるが、その1枚は東京国立博物館が所蔵している。

この図像に着眼し、特定したのは、2022年(令和4年)9月刊、74歳のキャスィ・ガイストゥ(Kathe Geist、1948年3月6日~)著『小津精査』Ozu : A Closer Look (Hong Kong University Press)だ。

2023年(令和5年)3月29日に、ホンコン大学(University of Hong Kong)のCenter for the Study of Globalization and CulturesのYouTubeチャンネルで公開された2023年(令和5年)2月28日のZoomの催し「Presenting Ozu: A Closer Look, A New Book by Kathe Geist」の11分43秒に、この図像が登場する。

さて、ここでいくつかの仏教の図像を見て見ますが、まず、「彼岸花」の別の図像の重要性を論じたいと思います。
Now we'll see some Buddhist imagery in a moment but first I want to discuss the significance of another image in "Equinox flower".
これは……映画作品の最後の方で、父親はここで酒を呑みます。娘に腹を立てている父親です。彼は皆中年男の元同窓生に会いに同窓会に出かけます。
This...towards the end of the film the father drink here. The father who's upset about his daughter. He goes and meets his former classmates at a reunion these are all middle-aged men.
彼らは皆、第二次世界大戦中、日本に御奉公し、少年時代から天皇への御奉公の必要性と道徳観を教え込まれていました。この道徳観はとりわけ戦時中に強化されました。つまりこの同窓会の場面は、すべて、天皇と天皇への御奉公を懐しむことに関するものなのです。
And they all served Japan during the World War II and they were from boyhood indoctrinated with the need to serve the emperor and the ethic. 
That was this ethic was particularly heightened during the war. So this reunion scene is all about nostalgia for the emperor and serving the emperor.
この登場人物は、笠智衆が演じていますが、あきらかに歌のうまい人物です。彼はここで、天皇と天皇に御奉公することについての歌を歌います。
And this character who's being played by Chishu Ryu who apprently a good singer. He's singing a song here about the emperor or about serving the emperor.
彼はこの映画作品の主要人物ではありません。彼もまた問題を抱える娘をもつ父親です。それでも彼は重要な主要人物ではありません。
He is not the main character in this film. And he's another father with a
troublesome daughter. But he's not the main contributing character.
ともあれ、とはいうものの、この画面における私の興味は、笠の背後にあるもの、つまりこの掛け軸です。この掛け軸は、この映画作品で常にピンボケですが、にもかかわらず、重要です。
Anyway, my interest in this shot though is what's behind Ryu, which is this scroll. And this is a scroll which in the film is always out of focus but it's nevertheless significant.
これは17世紀[7世紀]の政治家、藤原鎌足とその息子を描いた有名な掛け軸です。これは鎌足で、これらは彼の息子たちです。
It's a famous scroll depicting a 17th century statesman Kamatari Fujiwara and his son. This is Kamatari and these are his sons.

これは、図像の掛け軸ですが、この特定の図像は大量に複製されました。私がここでキャプチャしたのは、実はプリンストゥン総合大学蔵の画像です。
And this is a scroll of image that was copied a great deal. This particular
image that I captured here is from actually at Princeton University.
ともあれ、7世紀の政治家だった鎌足は、日本における天皇の権力の強化に貢献しました。つまり、笠の背後の掛け軸も、男たちが歌う歌も、すべて天皇に関するものなのです。
Anyway Kamatari helped to consolidate who he was a seventh century statesman and he helped to consolidate imperial power in Japan. So the scroll that is behind Ryu and the songs the men sing are all about the
emperor.
この同窓会の場面全体は、その長さのせいで学者を困惑させてきましたが、この映画作品において重要です。なぜなら、この男たちの背景、そしてどうして主要人物が娘の反抗にこれほど動揺するのかを理解するのに役立つからです。
The whole reunion scene which has puzzled scholars because of its length is pivotal in this film because it helps us to understand where these men are coming from and why the main character is so disturbed by the daughter's disobedience.
この男たちは異なる世界の時代という背景をもっていました。しかし、この同窓会とこの懐古すべての後で、父親は前に進み、娘を許すことができます。だから、とても重要な場面です。
These men came of age in a different world. But after the reunion and all of this looking backwards the father is able to move on and forgive his daughter. So it's a very significant scene.
小津の映画作品には映画ポスターがたくさん出てきますし、この場合のように美術作品が出てくることもありますが、それは、たとえ、はっきりと見えないとしても、たんなる飾りではありません。
Ozu's films are full of movie posters and in cases like this one artwork
that is not simply decoration even when we can't, you know, see it very well.
それらはほとんどの場合、映画全体または特定の場面に関連しており、時には非物語従属的(non-diegetic)または映画の本筋の外部と呼ばれる事柄に関する示唆となることさえあるのです。
They're almost always pertain to the film as a whole or to a particular scene or sometimes even send a message regarding things that we would call non-diegetic or outside the film story.

三上元田永孚の詩吟「芳山楠帶刀の歌」を歌う。

乃父之訓銘干骨   乃父だいふおしえは骨に銘じ
先皇之詔耳猶熱   先皇せんこうみことのりは耳猶熱す

乃父だいふ」は「父」のことだ。「乃父だいふおしえ」とは、 父・楠木正成くすのき・まさしげ湊川みなとがわの合戦に向うときに桜井の駅で正行まさつらに与えた教訓のことだ。

先皇せんこうみことのり」は後醍醐天皇崩御の際のみことのりのことだ。

ここで三上は中断し「ちょっと長いからな、呑みながら聞いてくれよ」と言う。

十年蘊結熱血腸   十年蘊結うんけつす熱血のはらわた
今日直向賊鋒裂   今日こんにち直ちに賊鋒ぞくほうに向って裂く
想辭至尊重來茲   想う至尊しそんを辞して重ねて茲(ここ)にきた
再拜俯伏垂血涙   再拝さいはい俯伏ふふくして血涙けつるい

蘊結うんけつ」は、長らく思ってきたことがついに実現することだ。
賊鋒ぞくほう」は後醍醐天皇に背いて討伐した罪人の足利尊氏の先頭隊のことだ。
至尊しそん」は後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(1328年~1368年3月29日)のことだ。
ここ」は吉野山にある南朝御歴代天皇の勅願寺ちょくがんじ、浄土宗の如意輪寺にょいりんじの本堂のうしろにある後醍醐天皇の御陵ごりょうのことだ。
再拜俯伏さいはいふふく」は御陵ごりょうの前に再びぬかずき、ひれ伏したことだ。

同志百四十三人   心を同じゅうするもの百四十三人
表志三十一字詞   こころざしを表す三十一字のことば
「返らじと兼て思えば梓弓あずさゆみなき数にる名をぞとゞむる」
以鏃代筆和涙揮   やじりって筆に代え涙に和してふる
鋩迸板面光陸離   はさき板面はんめんほとばしって光陸離りくりたり

「百四十三人」は正行、正成の二男・正時まさとき以下、一緒に討死しようと決意した一族143人のことだ。
「三十一字」は 三十一文字の正行の辞世じせいの和歌「返らじと兼て思えば梓弓(あずさゆみ)なき数に入る名をぞとゞむる」のことだ。「梓弓あずさゆみ」にかかる「いる」は射る・入るの掛詞かけことばだ。
陸離りくり」は美しくきらめくさまだ。

北望四條賊氛黒   北のかた四條しじょうを望めば賊氛ぞくふんくら
賊將誰也高師直   賊将はたれ高師直こうのもろなお

四條しじょう」は1348年2月4日(貞和4年1月5日)、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣・高師直(こうのもろなお、?~1351年)との間の戦いの場所となった河内国北四條畷しじょうなわてのことだ。
賊氛ぞくふん」は賊軍の勢力のことだ。

三上は「賊将はたれ高師直こうのもろなお」までを唄い、唄を止め、なぜか皆の要望にそれ以上応じようとしない。
が「いやァ、やっぱりいいもんだなァ」と言うと、中西が嬉しそうに「ああ、いいなあ」と言いながら左にいる誰かのほうを向く。

続いて、河合が「青葉茂れる桜井のォ、か」と、「楠公の歌桜井のわかれ)」をごく自然に歌い始める。
菅井が歌詞の続き「里のわたりの夕まぐれ」を歌い、「下陰したかげこまとめて」以下を一同が唱和する。
「世の行く末をつくづくと、忍ぶよろいそでに、散るは涙かはたつゆか」。

『彼岸花』の最終場面は、京都〜博多間の特急かもめ」(電気機関車+客車10輛編成)の車内だ。
平山渉が乗っているのは2等車の3号車だ。京都発は8時30分、大阪着は 9時10分、博多着は19時10分だ。

平山は、車掌須賀不二夫)を呼ぶと、「14時18分広島に着く父」の電報を依頼し、車掌は「大阪でお打ちいたします」と応じる。

車掌がいなくなると、ほかに乗客のいない車両で、平山は低い声で「桜井のわかれ」を歌い始める。歌詞はほとんど聞き取れませんが、これが『彼岸花』を締めくくる語句だ。

 青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ、の下陰に駒とめて

特急「かもめ」が大阪市東淀川区の淀川鉄橋を渡る。京都から大阪に入る直前の特急が淀川を渡ったところまで遠ざかるのをとらえた最後のショットで列車は小さくなっていく。

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