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万華鏡で見るフロイトとレヴィ=ストロース

カタストロフィという概念のもとに提示される歴史の流れは、子どもの万華鏡以上に、思想家の心をとらえることはできない、そこでは、万華鏡を回すたびに、秩序づけられていたものはすべて崩壊し、新しい配列に姿を変える。このイメージには徹底したそれなりの正当性がある。支配者層の概念は常に「秩序」のイメージを作り出す鏡であった。万華鏡は壊されなくてはならない。

Walter Benjamin. (1991). 'Zentralpark', in Gesammelte Schriften, Bd. I, p. 660.
Walter Benjamin Selected Writings Vol.4, 1938-1940, p. 164
のEdmund JephcottとHoward Eilandによる英訳を参考に拙訳。

精神分析と「接続」されるレヴィ=ストロース

夏休みの読書リスト作りも一段落し、早速そのインプットを始めている今日この頃。これまでの復習の意味も込めて、講義ノートのおさらいも一緒に始めた。ふと、思い出したのは去年出席していた(といっても聴講生として)授業で、ある発表の機会をもらえたことだ。今日はそれを共有したい。
その担当の先生から最後の4週は学生に発表の機会を設けたいけどどうですか?的な提案があった。もちろん(中間と期末レポートのみでの成績評価なので)その発表は成績に考慮しないから、履修生はトピックに沿っていればどんな発表でもいいみたいな感じだったと思う。私は単位取得を目的としない聴講生だったので、私に機会が回ってくるとは思ってもいなかった。履修生により3週分はすぐに埋まったにも関わらず、残り1枠は誰からも申し出がなかった。小さな沈黙の後に「聴講生からでもいぃ...」ぐらいのタイミングでは右手がすでに上がってしまっていた。なんでか今でも分からない。別に暇であったわけでもなく、むしろ結構忙しかった時期だったと思う。誰も手を挙げない気まずさをただ回避したかっただけなのかもしれないし、もしかしたら、本当にせっかくの機会だから色々経験しておこうと思ったのかもしれない。とにかく発表することになった。
しかも、それがフロイトの『夢判断』を読んできた後のレヴィ=ストロースの『野生の思考』という授業の構成的にも重要な転換点で、その人類学の古典的名著の第1章を「いつもフロイトを無意識に忍ばせながら」どう読むかというと結構重要なパートだった。必死で時間を作っては割いて、作っては割いて、の繰り返し。その結果、発表前日には「これはすごい発表になるかもしれない」と鼻息を荒くしていたと記憶している。そして発表当日。

万華鏡は、万華鏡は壊されなくてはならない?

普通、発表後って拍手とかもらえるんじゃなかったっけ、あれ、拍手とかってないんだっけ、あれでも先週の発表者には拍手あったよね。私にとってはそれほど長く感じられた小さな沈黙の後、先生がそのぽっかり空いた沈黙の穴にダンプカーで土砂を埋めるように、
「良かった、良かったんじゃないかな、美しい断片のかけらたちをかき集めたみたいな発表で、うん、なんていうのかな、万華鏡?みんな万華鏡って知ってる?若い学生は知らないかもしれないけど、こう、筒を回すと色んな模様に変化するおもちゃなんだけどさ、それみたいで、フロイトが見えたり、レヴィ=ストロースが見えたり、精神分析が見えたり、人類学が見えたり、その間に一瞬ラカンが見えたり、うん、まぁ良かったんじゃないかな」
みたいなコメントだったと思う。私的には、映画『桐島、部活やめるってよ』の吹奏楽部が最高の演奏をした後にその部員の1人が「今のすごい良かったんじゃない?良かったよね?」というシーンがあるが、最大のリアクションとしてそれぐらいのを期待してしまっていた。けど現実はそんなに甘くはなかった。でも発表する機会がもらえて良かった。フロイトを下敷きにしてレヴィ=ストロースを読めるようになったし、精神分析と人類学の接近に対する抵抗も薄れていったし。以下は、その発表原稿をDeepLで日本語訳し、それを6ヶ月後先の私が大胆に手直した内容になっている。そう、万華鏡は翻訳者の使命として壊されなくてはならない!

万華鏡で見るフロイトとレヴィ=ストロース

『野生の思考』の第1章と関連する、そして関連しない、断片的なごく短いエピソードをいくつか紹介したいと思う。

先週、大学近くの映画館で、1920年代にオクラホマ州で起きた先住民オセージ族(オーセージ族)連続殺人事件を描いたマーティン・スコセッシ監督の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を観てきた。特に印象に残っているシーンがある。それは、金持ちのネイティブ・アメリカンであるモリーと、日和見主義の白人であるアーネストとの間に生まれた2人の子供たちを目の前に、白人の老夫婦が彼らの肌の色について悪く言うシーンだ。そしてこのシーンはこんなセリフで終わる:「野蛮人め。」災難への扉は、人を人間以下の動物のように扱うときに必ず開かれる。2人の子供たちを見る老夫婦の眼差しが、すでにカタストロフィへの入り口だったのである。レヴィ=ストロースは『人種と歴史』の中でこう述べている: 「野蛮人とは、何よりもまず、野蛮を信じる人間のことである」。文化の誤った解釈は、容易に搾取につながる。もう一度、文化の誤った解釈は、容易に搾取につながる。

あるインタビューでレヴィ=ストロースがワーグナーの『ニーベルングの指環』を薦めていたので聴いてみたところ、最初はフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』を思い出すだけだったが、次第に一曲の「ワルキューレの騎行」ではなく、全体の『ニーベルングの指環』を聴こうとしている自分に気づいた。まるで姉妹のような音楽と神話。もう一度、まるで姉妹のような音楽と神話。

今日11月30日は、スコットランドの祝日「セントアンドリュースデー(聖アンデレの日)」だそうだ。BBCによると、9世紀、スコットランド王アンガスの夢の中に聖アンドリューが現れ、イングランドとの戦いに勝利を約束したという。そしてその戦いの日の空には、聖アンドリューのシンボルであるX字が現れたという。アンガスは戦いに勝ったら聖アンドリューをスコットランドの守護聖人にすると誓った。セント・アンドリューズ・クロスと呼ばれるそのX字型の十字架は、誰もが知るように後にスコットランドの国旗に採用された。すべての神話は物語を語る。もう一度、すべての神話は物語を語る。

友人との読書会に向けて今読んでいる文学者の本の中に、こんな印象的な文章があったので、ここで共有したいと思う;

きっと、人には、人の体温でしか温められないものがある。その体温を、単なる「温度」として捉えるのか、それ以上の「何か」として捉えるのか。この「何か」として受け止めようとする力が「文学」なんじゃないか。そんなことを思ってみたりする。

人の体温でしか温められないものがある。もう一度、人の体温でしか温められないものがある。

今夜の夕食は何を作ろうか。魚がいいな、例えばサーモンマヨネーズ。いや、確か鯖の缶詰が2つほどあったな、そして冷蔵庫にはトルティーヤ、ベビーレタス、アボカドなどの残り物もある。さて、何を作ろうか。キッチンは苦学生たちの実験室として知られている。サバのブリトーでも作ろうか。オリーブオイルでサバを焼いた後、マヨネーズをトルティーヤに塗り、アボカド数切れと焼いたサバをベビーレタスで包む。「知への食欲」と実験としての料理。 今夜の夕食は何を作ろうか。もう一度、今夜の夕食は何を作ろうか。

「具体の科学」、ここでは「感覚的なものの知性」とでも呼ぼうか。それは対象を分割してではなく、総合的に把握しようとする。出来事の一連の流れではなく、総体として理解するのだ。分割された問題にはたった1つの解決策があるかもしれないが、総合的に把握しようとすれば、問題には常にいくつかの解決策があることが理解できるだろう。そして、今私がこうして提示している方法がその1つであることを切に願う。

制作意図

まずは『野生の思考』の第1章「具体の科学(La Science du Concret)」の要約になってないといけない。対象を分割せずに総合的に捉えること、感覚的なものを総体として捉え切る知性というのがこの章のざっくりとした要約である。だからこそ、見る(色)、聞く(音)、触る(感触)、嗅ぐ(匂い)や味覚といった感覚的なものが総体として現れるようにトピックを散りばめた。この作品自身がある種のブリコラージュ(器用仕事)だし、そしてオーディエンスがこの断片的なエピソードからブリコラージュ(器用仕事)できるような発表にしたかった。嗅ぐや匂いは味覚と一緒に夕食のパートです。というのも、レヴィ=ストロースは匂いは故郷であるという真実を人間は幼少期のキッチンで吸収すると言ってますから。
ちなみにその夕食のパートはサーモンマヨネーズからサバのブリトーにメニュー変更をしたのは、あり合わせの材料だけで料理を作るというブリコラージュをまさに表したかったから。ちなみにちなみに、どうしてサーモンやサバといった魚かというと『生のものと火を通したもの』というこれまた名著で火を使った料理こそが人間を人間たらしめている的なことをレヴィ=ストロースは言っているのですが、日本人が魚を使って、生の刺身・寿司か、火を通した焼き魚かで料理の話をしたら面白いかなと思っただけです。
あとは、各パートの最後に繰り返している言葉はフロイトの『夢判断』とレヴィ=ストロースの「具体の科学」で重なり合っている部分です。例えば文化/夢の誤った解釈はその搾取につながるとか、神話(≒無意識の構造化された知)は物語を語るとかです。
他には、最初の方は映画の名前を出してますが、実は各エピソードに映画が隠れています。例えば、セントアンドリュースデーのパートには非常にフロイト的な映画である黒沢清の最高傑作『CURE』がX字型の十字架と関連して隠れています。あとは、「苦学生たちの実験室」はその後レヴィ=ストロース超えに挑戦したラトゥールの「ラボラトリー・ライフ」から取ってきたり、多分「知への食欲(An appetite for knowledge)」もなんか意図があったのでしょうが、忘れてしまいました。まぁ、この記事が6年間で351ビューを超えたらフロイトの『夢判断』超えなのでよしとしましょうか。

そのサポートは投資でもなく、消費でもない。浪費(蕩尽)である。なぜなら、それは将来への先送りのためでも、明日の労働のためでもなく、単なる喪失だからである。この一瞬たる連続的な交感に愛を込めて。I am proud of your being yourself. Respect!