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くもりのちはれ、躁のち鬱

長く続いた鬱が終わった。
わたしは春のはじまりである3月〜4月は体調を崩しやすく、例年通り今年もひどい鬱状態に陥った。自分はこの時期に落ち込みやすいということもちゃんと自覚していたし、それなりに心構えもしていたつもりだったけれど、それでもだめだった。
希死念慮にすべてのエネルギーを吸い取られ、一日中横たわっていることしかできない毎日。起きている間は「死んでしまえ」「なんで生きているんだ」「早く死ぬべき」というような思考が四六時中、片時も静まることなく生きているわたしを死へと誘った。意識があると気が狂いそうだった、まさに生き地獄。そんな思考から逃げるように寝てばかりいた。寝ることしかできなかった。

そんな生活を続けているうちにも時は流れ、5月末のある日、雲の隙間から明るい光が差し込むように、鬱々としていた心が晴れ渡っていくのを感じた。靄がかかったように見えていた世界が、キラキラとクリアな輝きを取り戻す。

その日からわたしは、今までの鬱が嘘だったかのように元気になった。やりたいことが次から次へと思い浮かび、冴え渡る頭。なんでもできるような自信がみなぎる。そこに、鬱だった頃のわたしはいない。
鬱で失った時間を取り返すかのように溢れ出てくるエネルギーは止まることを知らず、わたしはそれをひとつも無駄にしないように動いた。寝ることすら無駄だ、もったいないと感じるくらいに。
やりたいことができる、好きに動ける喜び。楽しくて、幸せで、やっと元気になれたんだって嬉しかった。

でも、この元気がただの元気じゃないことも分かっていた。
わたしは、躁鬱病(双極性障害)だから。

今のわたしの元気は、ただの前借りであり、健やかなものではない。元気ゆえに病気が治ったと思ってしまいがちだけど、治ったわけではなくこの元気こそ「躁状態」という病気の症状。

やっと鬱が終わったのに、せっかく元気になれたのに。これすら病気の症状だなんて、認めたくなかった。躁状態だとしたら、いつかかならず終わりがくる。そしてその先には鬱がある。また鬱になるなんて嫌だから、これが本来の自分の元気で、この元気がずっと続くものだと信じていたかった。

だけど、元気でいればいるほど、今の自分が元気すぎることを自覚してしまう。「ずっと元気でいられる気がする!」と思う自分に、それこそが躁状態なんだと冷静な自分が言う。

まただ、またこの繰り返しだ。躁、鬱、躁、鬱……上がって下がってを繰り返す人生。ジェットコースターみたいに、上がり下がりくらいはわかるけど操縦できない気分の波。それに流され溺れ、振り回される人生。
鬱も病気、元気(躁)も病気なら、本来のわたしって一体どこにいるんだろう。

この元気はいつかは終わってしまう。楽しくて、幸せで、そして儚い躁状態。
終わらないで、と叶わぬ夢を見るよりも、躁のあとの鬱でなるべく下がらないように、上がりすぎないように生きていかなければいけない。
晴れのあとが雷雨にならないよう、せめて曇りになるように。


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