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キツネと青春と吸血鬼と。 前編

※本作は、宇佐崎しろ 先生のイラストから物語を展開するイラストストーリーの前編です。詳しくは以下の記事をご覧ください。

また、中編・後編のリンクは本編後にございます。どうぞ併せてお読みください。

ーあらすじー
 
高校時代、人の姿に化けることができる吸血鬼によって両親を殺された「私」は、その復讐を果たすべくヴァンパイアハンターになった。

両親の仇を探して12年。ある日、「私」は吸血鬼が潜むと噂される街の高校に教師として潜入し、そこでクラスで浮いた存在の生徒 小米こごめ カスミと出会う。「私」は彼女が潜伏中の吸血鬼ではないかと疑いながらも、孤独で寂しそうな彼女に高校時代の悲惨な自分を重ね合わせ、どうにか救いたいと行動を起こす。

それが、自らにとって最悪な結末を迎えることを知らないで。

これは、青春を奪われた「私」と青春を失いつつある少女が、幸せの為に奮闘する、愛と憎悪の物語。


 学校から帰って家の扉を開けた時、私は鼻を刺すような鉄の臭いを感じた。

「おかーさん? おとーさん?」

 呼び掛けても反応がない。両親は共働きとはいえ、部活で帰りが遅くなった私が一番早く帰宅することなんて初めてのことだ。

 本当にそうなのか? 嫌な予感に足が竦む。

 でも取り敢えずこの異臭の原因を確認しなければならない。火事とかの事故の素かもしれないし。
 そうやって自分を言い聞かせ、恐る恐る玄関ㇸ、廊下へと進み、リビングへと向かう。異臭はリビングに近づく度により強まっていた。そこで何かが起きてしまったのだろうか。電気が点いておらず何も見えない。

 本能が退避せよと警鐘を鳴らす。けれども私はそれに従わなかった。本当はそうした方いいと分かってはいたのに、この異臭が一体何なのか、子どもながらに悟っていたのに。
 リビングに辿り着き、暗がりの中で私は照明スイッチに手を伸ばした。

 瞬間、私の目に飛び込んで来たのは、得体の知れない化け物だった。全身を真っ黒な影で包み、背中に2枚の翼を持った化け物。
 化け物は何かを手に持っていた。口元から流れる赤い液体がその何かに滴り落ちている。
 ……いや、これの正体についても私は分かっていた。あまりに異質な状況に脳が理解を拒んだだけなのだから。

「ゴメンネ」

 化け物はくぐもった低い声で言った。母の頭を齧り、脳髄を啜りながら。バラバラになった父の背中を踏みながら。

 その表情は愉快そうに笑っていながらも、どこか悲しげで、目元に小さく涙を浮かべているように、私には見えた。



 何度も見てきた悪夢にうなされ、私は目を覚ました。
 時刻は午前5時23分。スマホのアラームが喧しく部屋中に響き渡るまであと7分といったところ。二度寝する時間ではないし、悪夢のせいでもう目が冴えきっている。私は起き上がってリビングへと向かった。

 パンを焼き、昨日の晩の残りの味噌汁を温め直しながら、携帯をいじっていつものようにニュースアプリで情報収集を行う。
 ずらりと並ぶ情報群を適当にスクロールして、めぼしい内容が目に入ればタップしてその詳細を読んでみる。やはり注目することが多いのは、吸血鬼の出現やその被害状況だ。

 近年その存在が明らかとなり、人類の敵として恐れられる吸血鬼共。奴らは自らの正体を公に明かさず、人に化けて暮らし、虎視眈々と人を喰らう機会を窺っている。そうして奴らに欺き殺された者は多く、年間で数百から数千もの尊き命が下賤なる悪魔共に弄ばれているのが現状だった。
 東京、神奈川、愛知、大分。昨日はなんと4件あったらしい。

 朝から鬱屈とした気分になりながらも、朝食を終える。ふと時間を見てみるともう40分が過ぎていた。
 噂には聞いていたが、教師というのはやはり大変な職業だ。こんな朝早くに起きて、授業を始めとした諸々の準備をしなくてはならないのだから。私は急いで身支度を整え、学校へと向かった。

 ……銀の銃弾が装填された拳銃を真っ白なスーツの胸ポケットに仕舞って。




「──はい、この naive は、日本語でもある『ナイーブな』、つまり『繊細な』という意味があります。他には『純粋な』『世間知らずな』という意味もありますね」

 黒板に書いた英文の一部に下線を引き、生徒達の表情を窺う。授業も後半に差し掛かってきた頃、1限目の授業ということもあり、全体の1割が机にうつ伏し、2割が眠気に打ち勝とうと努めているも、彼ら含めて授業に付いて来れているようだった。

 この学校周辺で吸血鬼の被害が出ているという情報を聞き、教師として赴任してから早2週間。私は未だヴァンパイアハンターとしての任務を果たせないでいた。
 私以外にも何人ものヴァンパイアハンターが学内外を調査しているにも関わらず、今も週に2〜3人が無惨にも吸血鬼にやられている。やるせなさや焦燥感、怒り、憎しみが胸中で渦を巻き、それが顔に出そうになるところを笑って誤魔化し、授業終了のチャイムを乞い願うのが、この2週間に私が過ごした日々だった。

「What makes the desert beautiful is that somewhere it hides a well......さて、この英文を訳せる人はいますか?」

 再び生徒達を見渡す。
 まったく分かっていなさそうな人。分かっていそうだが、目を逸らして教科書を読んでいるフリをする人。そもそも聞いてなかった人。

 極々日常的な授業風景。しかしこの中に、人に化けた吸血鬼がいるかもしれない。夜な夜な無実で善良な一般人を殺し、喰らい、快楽を得ている奴がいるかもしれない。そう思うと、ひたすら居眠りを続けるすぐ前の席の男子生徒への苛立ちも幾分か増すことは当然といえよう。
 とはいえ、彼らの中で特別怪しい者はいない。学校での振る舞い、家庭環境、面談した時の態度や話し方。いろいろ探ってはみたものの、皆健全な、青春を謳歌する美しき若人で、殺人やカニバリズムなんてものとは無縁の存在であるようだった。

 ……たった一人を除いては。

「誰もいないかな。じゃあ適当に当てますね。今日は8日だから……小米さん」
「は、はいっ!」

 突然名前を呼ばれて驚いたのか、上擦った返事が聞こえた。
 一番後ろの窓際の席。そばかすが広がる地味な顔立ち。なのに髪型はピンクのメッシュを入れた黒髪ハーフツインと、お世辞にもピッタリとはいえないオシャレをする少女。そんな彼女が恐る恐る立ち上がった。

 小米こごめ カスミ。このクラスの中で私が吸血鬼だと疑っている子だ。

「小米さんはこの文訳せますか?」
「わかりません」
「分かるところだけでいいですよ」
「…………わかんないです」

 自信無さげに彼女は俯いた。本当に少しも分からないらしい。
 今回授業で取り扱っている題材はサン=テグジュペリの『星の王子さま』で、私が読み上げた文は物語終盤での王子のセリフだ。

『砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているから』

 一応中学英語の知識があれば読めるはずだが、教科書や受験用の文章に慣れている学生にはやや難しいのかもしれない。実際、出版社側もそれを理解しているのか、ほんの数ページしか教科書に載せていない。
 皆が日本語訳を読んでいれば、もっと踏み込んだことを教えられるのだが、残念ながらそこまでは英語教師の仕事の範疇ではないし、ヴァンパイアハンターの仕事の範疇でもない。

「OK. 座っていいよ。じゃあ皆もあまり分かってないみたいだし、単語レベルで分解して読み解いていきましょう」

 大丈夫ですよ、小米さんに微笑んでみせる。すると彼女は安心したように席に座った。

 資料によると、彼女は去年両親を事故で亡くし、一人暮らしをしているそうだ。また他の生徒のように去年の春に入学してきたのではなく、同じ春でも2年目の春、つまり私が来る3ヶ月前にやってきた転入生でもあるらしかった。
 クラス替えのない学校で、もう完全にクラス内のグループが固まっている時期。誰とも馴染めず、その地味で派手な外見も相まって生徒達の中でも浮いた存在になっている、というのが面談時に他生徒から聞いた内容だった。

 勿論これだけでは彼女が吸血鬼だと疑う理由にはなり得ない。問題は転入前の高校で大きな事件が幾度もあったことだった。

 調べてみたところ、なんとその高校では1年の間に3人の生徒が行方不明、あるいは殺害されたらしい。しかもその殺害方法は非常に猟奇的で、見つかった遺体には頭部や手足が無く、いずれも何者かに喰われたような形跡があったとのこと。
 そしてそんな事件も彼女が転入してからはぱったりとなくなり、代わりにこの高校付近で同様の出来事が多発するようになった。故に確たる証拠はないにせよ、彼女が吸血鬼である可能性は非常に高いといえよう。

 ……この2週間で、多少なりともこのクラスに愛着を抱いている。この中に吸血鬼がいるなんて考えたくはないのだが。

「じゃあ授業はここまで。期末試験も近づいてきるから、今のうちにしっかり復習しておきましょうね」

 チャイムが鳴り、生徒達が来たる期末試験に溜息を漏らす中、彼女の正体をどうやって探るべきか思考を巡らせながら私は教室から出て行くことにした。



 世界中でその存在が確認されつつも、完璧に人間社会に溶け込む吸血鬼。しかしその起源は分かっていない。古代ギリシアや古代バビロニアにおけるラミアーやアフカルといった何千年も前の伝承が本当であったとか、吸血鬼伝説で有名なルーマニアで現れたのだとか、あるいは某国が秘密裏に開発していた細菌兵器の影響だとか、馬鹿馬鹿しい陰謀論含めいろいろ説はあるものの、これと断言するには裏付ける証拠がない物ばかりだった。
 しかしながら、科学技術の発達に伴い、メディアやSNSが登場したことで、吸血鬼の存在は公に周知されることとなった。過去に起きた変死事件や行方不明事件も、およそ8割が奴らの犯行であることが判明し、今や人類の敵として捕獲・討伐対象になったのである。けれども、人類の科学力では奴らの存在を暴くことができても、簡単に殲滅できる程の力はなかった。

 人間に完全に化けられる擬態能力。人体を容易く破壊できる圧倒的で純粋な力。そして致命傷を受けても一瞬で傷痕すら残さず回復できる再生力。
そんな奴が何百、何千と、日本中に蔓延っている。蹂躙、とまではいかないにせよ、人々は吸血鬼への不安を抱えながら日々を送らざるを得なかったのだった。




「──はい、連絡事項はこんなものですかね。あとは……まだ吸血鬼が近くにいるから、なるべく早く、複数人で帰るように」

 産休中の担任に替わって終礼を行う私は、職員会議でメモした内容を告げて、クラス委員に号令を促した。

 起立、礼、ありがとうございました。
 静寂から一転、ざわざわという喧騒が教室内に鳴り渡る。しかしそれに混じる声は、帰宅できる歓喜の叫びよりも、不平不満を漏らしている方が大きかった。

 高校2年生といえば、勿論受験勉強もあるだろうが、やはり部活も欠かせない。なのに春から続く吸血鬼騒動によって部活の時間が制限され、満足に取り組むことが許されない状況にあった。たった1体の吸血鬼によって、この地域で暮らす学生全員の貴重な青春が失われつつあるのだ。

 かくいう私も、両親を無惨に咀嚼されたあの日以降、墓場に入るまで輝きを帯びるはずだった青春時代の記憶がほとんど抜け落ちてしまった。部活が楽しく、友人と駄弁に興じるだけで時間を忘れられたのに、その日からは何をしても楽しさや嬉しさ、そんな感情が湧かなくなってしまった。

 復讐。その2文字だけで生きてきた私が、未来ある子ども達に教鞭を執っている。

 目的達成の為、そして偶然その空きがクラス担任の席だったとはいえ、本来は私のような者がこの場にいてはならないだろうに。
 生徒の未来にこれ以上の悪影響を及ぼさないよう、何としてでも吸血鬼を見つけ出し、討ち果たさねばならない。

「小米さん、ちょっといいですか」

 皆が友人達と帰る中、ぽつんと独りでノートを鞄に仕舞い込む彼女に私は声を掛けた。
 退屈そうな彼女と目が合い、にこりと微笑む表情を作る。

「これ、一緒に車まで運んでくれませんか? 早く帰ってって言っておいてこんなこと頼むのもどうかなとは、自分でも思ってるんだけど」
「……わかりました」

 何か不満をぶつけてくるかと思ったが、意外にも彼女はすんなりと私の頼みを聞いてくれた。

「ありがとう! 本当にごめんなさいね」
「これ運べばいいんですか」
「そうそう。重い方は私がやるから、小米さんはこっちのプリントの方をお願い」

 言われた通りに彼女はプリントの山を抱えた。

 口数少なめで、表情にも変化がない。制服という統一的な服装から逸脱するように髪型をオシャレに施して、少しでも表情を和らげれば周囲をときめかせるような容姿をしているというのに、そういうものに疎い私でも同性として勿体なさを感じる。

 教室を出て、帰宅する学生がごった返す廊下を歩く。しかし階段を降りて下駄箱前を通り過ぎると、驚くほど人気がなくなった。更に角を曲がると生徒の騒ぎ声も遠くなり、すれ違う人も数人くらいになった。
 私達はそのまま裏口を抜けて駐車場へ向かった。流石にここまで来ると誰もおらず、初夏の蒸し暑い風が肌を撫でる。

「この車に載せて頂戴」
「はい」

 愛車のドアを開け、彼女が座席にプリントの山を慎重に乗せた。
 こういった資料は普通、職員室に持っていくべきなのだが、なんとか二人きりの、誰にも被害が及ばない場所に彼女を連れていきたかった。

 ここは校舎が壁になって西日が差し込まない。吸血鬼は人に化けていない間、即ちその醜い正体を現している間は非常に高い攻撃力を得る代わりに、極端に太陽に弱くなってしまう。僅かな日光でも当たれば焼け爛れ、全身を数分も浴びれば焼死する。その為、私達以外の誰もいないこの場所、日光が届かないこの環境は、吸血鬼にとって絶好の捕食機会なのだ。

 勿論、彼女が吸血鬼であるという前提ではあるが。

「せんせー、もしかして嘘つくの下手?」

 不意に、彼女が口を開いた。

「嘘?」

 私が訊き返す。
 まさかヴァンパイアハンターだとバレてしまったのだろうか。心臓が早鐘を打つも、平静を装い惚けてみせる。

「だって、あんな強引にこんなとこまで連れて来るとか、絶対なんか理由あんじゃん。どうせぼっちなあたしを心配して〜とか、そんなとこなんでしょ?」
「あー……まぁ、そりゃ分かるよね」

 良かった。どうやら私の正体には気付いていないようだ。
 躊躇いがちに、彼女は続けた。

「あたしさ、あんまし人と関わりたくない、んですよね。独りが好き、ってカンジで」
「その割には、随分とつまらなさそうな顔してたけど」
「それは、その……あっ、あたし学校好きなんですよ〜。だからもう放課後になっちゃって悲しいなぁ、って思って」
「へぇ。部活もできない、友達と話さない、休み時間はいつも寝たフリをしてる。それなのに楽しいのね」
「な、なんで寝たフリってバレて……せんせー授業と終礼の時しか来ないのに」
「前に一人ずつ面談したでしょう? 意外と皆気付くものよ」

 それを聞いて信じられない、という顔をしている。
 そんな彼女に「逆になんでバレないと思ったのよ」なんて笑いつつ、彼女への警戒は緩めない。

 襲って来ないということは、彼女は人間、ということだろうか。それとも何らかの理由で襲わない、あるいは襲えない?

 ともかくこれだけでは吸血鬼かどうかは判断できない。
 教師という体裁を保ちながら、私は彼女の内面を探る。

「本当に友達を作りたくないの?」
「……作りたい、です。でも、怖くて」
「怖くないって。皆小米さんのこと気になってるのよ。とってもオシャレしてるから」
「いや、これは。あたしがあたしのこと好きになりたいからやってるってゆーか、それで近寄られても、ちょっと困るってゆーか……」
「自分のことが嫌いなの?」
「嫌いです。でも、誰かを好きになるより、自分を愛した方がいいって思って」
「それは……誰かを好きになるのが怖いから?」

彼女は頷いた。

「どうして怖いの?」
「だって! ……だって、好きになったら止まれないじゃないですか」

 止まれなくてもいいじゃない、私はそう言いかけたが、彼女の表情を見て寸前で止めた。心の底から苦しそうな、けれどもきっと誰にも理解されないだろうなという諦観を含んだその表情を。

 年頃の少女というのは何とも繊細で、面倒で、大人には決して推し量ることのできない心を持っている。安易で不用意な言葉を投げかけてしまうと、かえって彼女を傷つけてしまう恐れがある。

 ……もしかしたら彼女は、吸血鬼ではないのかもしれない。

 完全に疑いが晴れた訳ではないが、そんなことを思ってしまう。人間関係に悩み、愛されたいけど愛されるのが怖いと思う少女が、果たして人を人と思わず弄ぶ吸血鬼なのだろうか、と。

 しかし私がそう考える理由の一番は他にあった。

「分かった。小米さんも本当は独りが嫌なんだよね」
「……うん」
「じゃあ、先生とお友達になりましょう?」
「……へ?」

 私の提案があまりに意外だったのか、一瞬だけ少女は呆然とした。けれどもすぐにはっと我に返って。

「ど、どういうこと? あたし、誰も好きになりたくないって──」
「ええ、そうよ。だから、産休中の志島先生の代わりとして来た私なら、大して好きになんてならないでしょう? どうせ少ししたらこの学校からいなくなるんだから」

 正確には、この辺りに潜む吸血鬼を殺したら、だが。

「昼休みに一緒にお弁当を食べるとか、それが嫌なら授業のことを質問しに来るだけでもいいのよ。小米さん、英語そんなに得意じゃないみたいだし」
「い、いや、でも──」
「でもじゃない。とにかく独りでいる時間を減らしましょう? 嫌な時間が長いと、それだけ嫌なことばかり考えるものよ」

 私は彼女の肩をぽんと叩いた。
 彼女は困惑して、どう答えればいいのか分からないといった様子だった。

 けれども、こうした方が良いのだ。これがきっと、彼女の為になる。

 私の高校生活は、吸血鬼にぐちゃぐちゃにされた。身の入らない無為な日々を過ごし、1年以上不登校だった時期もあった。
 だが、それは両親を殺されたショックによるものだけではなかった。

 数少ない学生時代の記憶の一つが蘇る。
 誰にも自分の境遇を理解されない、誰しもが私のことを可哀想だと憐憫の目を向け、決して対等に扱ってもらえなかった地獄の空間。友達と話をしても満たされなかったどころか、心の傷がより広がったあの時間。

 真の孤独を、あの時感じていたのだ。

 だから、私は彼女の今の状況を恐れている。環境が違えど、あの頃の私と同じく孤独を感じ、孤独を嫌うこの状況を。
 彼女が吸血鬼の被害者かどうかは分からない。でも、孤独な時間が多いと、復讐に憑りつかれてしまった私のように人の思考は凝り固まってしまう。幸せなど感じなくなってしまう。

 助けを求めているのに、その手を掴めるのはきっと一握りの者だけだ。でも、もし私の虚無に満ちた、歪み狂わされた人生で、彼女に触れることができるのなら。

 そう思ってしまったから、私は彼女を人間だと信じたいのだ。

「……本当に、いいん、ですか?」

 おずおずと、彼女がそう訊いてきたので、私は笑ってこう答えてみせた。

「大丈夫。教師って、意外と暇なのよ」

 その時だった。
 ピピピ、とズボンのポケットのスマートフォンが振動しながら音を鳴らした。
 ごめんね、と彼女に会釈をした後、スマホを取り出し、通知内容を確認する。ロック画面には、同僚からのメッセージが映っていた。

『浜那須商店街前のパチンコ屋』

 たったそれだけの内容。
 だが同僚、即ち仲間のヴァンパイアハンターがそれを報せているということを踏まえると、その意味は一つしかない。

「ちょっと急用が入って、今すぐここから出ないといけなくなったんだけど、方向が一緒だし家の近くまで送ろうか? 私のせいで皆より遅く帰ることになっちゃった訳だし」
「ううん、いいよ別に。まだそんなに暗くないし」
「そう? 気を付けて帰ってね」

 彼女が首を横に振ったのを見て、私は車に乗り込んだ。
 そして逸る気持ちでエンジンを掛け、駐車場から出る為にブレーキペダルを踏もうとして。

 ふと、窓越しに見える彼女のことが気になった。

 勇気が出ず、一歩踏み出すことを躊躇っているのか、俯き、悩んでいる。
 彼女には良い学生生活を送って欲しい。社会に出れば二度と得られない時間。私が今でも羨む素敵な日々なのだから。
 だから窓を開けた私は、自虐的な意味合いを込めて、彼女にこれを告げた。

「Look up at the sky and you'll see how everything changes」
「な、なんて?」
「明後日の授業までにこれを訳して、私のところまで来ること。分かるところまででいいから。じゃあね」
「え、ちょ、ちょっと!」

 その声を無視して駐車場を出る。裏門を通り抜ける直前、バックミラーに映る彼女を改めて確認してみた。
 困惑しながら立ち尽くす少女。けれどもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 それを見て確信する。


 やはり彼女は人間だったのだ、と。


中編に続く


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