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キツネと青春と吸血鬼と。 中編

※本作は、宇佐崎しろ 先生のイラストから物語を展開するイラストストーリーの中編です。詳しくは以下の記事をご覧ください。

また、前編・後編のリンクは本編後にございます。どうぞ併せてお読みください。



 私が務めている高校──浜那須高校から北へ2キロのところにある浜那須商店街は、所謂シャッター街であった。
 昔は往来の激しい活気ある場所だったそうだが、近年の流れに即し、周囲にコンビニや大手人気チェーン飲食店、しまいにはデパートまでできたということで、完全に社会的需要を失ってしまった。
 商店街をよく利用していた年配の人々はその状況を嘆いていたが、時代の変遷は残酷である。今や商店街は、単なる抜け道扱いとなり、活気とは程遠い寂れた地へと成り下がっていた。

 だから、そんな場所で吸血鬼を発見できたのはまだ運が良かった方だといえよう。

 商店街に入った私は憎きその怪物を探し回る。
 この場所に着いて開口一番にメッセージの送り主に話を聞いたところ、商店街前のパチンコ屋の裏で女性を襲おうとしていた吸血鬼を、偶然近くにいたヴァンパイアハンターが発見したとのことだった。が、そのヴァンパイアハンターはまだ成りたての新人で、討伐しようとして返り討ちに遭い、吸血鬼もそのまま商店街へと逃亡したそうだ。
 その後新人が命果てる寸前に組織に連絡を入れたことで、すぐさま商店街にバリケードが張られ、私を含めこの地域に派遣されたヴァンパイアハンターが呼び集められた。そして数分前、私含め集まった同志達で部隊を組んで商店街に突入し、現在に至るという状況だ。

「どこだ。どこにいる」

 思ったことがつい口に出る。我ながら相当怒りが募っているらしい。
 吸血鬼に襲われかけた女性は怪我の一つもしていなかった。曰く、彼氏そっくりに化けていて、吸血鬼だとはまったく疑わず付いて行ってしまった、と。そして今にも喰われてしまうという場面で、二人を怪しみ付けてきたと思われる新人が助けてくれた、と。女性は彼の優れた観察眼と群衆から巨悪を嗅ぎ分ける嗅覚、そして真っ直ぐな正義に命を救われたのだ。

 ……そんな風に思えば、死んだ彼は報われるだろうか。

 吸血鬼に家族や友人、恋人を殺された者は、大抵の場合ヴァンパイアハンターを志願する。そして大抵の場合、復讐を果たせず死んでしまう。きっと彼もその内の一人だろう。
 何も組織では珍しいことではない。名の知れたベテランでさえもほんの一瞬の判断ミスで殉職する仕事だ。いちいち誰々が死んだなどと覚えていてはキリがない。

 だがやはり、吸血鬼に人生を狂わされ、その集まりに属する者としては、たとえ面識がなくとも、思うところがないといえば嘘になる。
 自然と虚を握りしめる拳は固くなり、まだ見ぬ吸血鬼への憎しみが膨らむばかりだった。

 私は商店街から枝分かれしている細道を行ってみることにした。左右には変わらず通りにシャッターを下ろす家々が並んでいる。
 まだここに住んでいる人だっているはずだが、避難させる前に件の吸血鬼に逃げ込まれてしまった。商店街の拡声機がしきりに家の中でじっとしてくださいと伝えているが、ドアの奥で震えながら危機が過ぎ去るのを待つのがとても苦痛だろうとは想像に難くない。

 迅速に、且つ的確に事を済まさなければ。最悪、人質を取っている可能性も考慮しつつ、捜索を続ける。
 そうしてしばらく路地裏を歩き回り、丁字路に差し掛かった時だった。

 突き当りを右に回った先、商店街から抜け出し大通りに出るという方向から、何か物音が聞こえた。
 慎重に角を曲がり、朝に胸ポケットに仕舞っておいた拳銃を取り出し構える。そこには、塀にもたれて座り込む血塗れの少年の姿があった。

「た、たすけて……」
「大丈夫!?」

 駆け寄り、怪我の具合を確かめる。腹部に大きな切り傷が見えた。

「何があったの?」
「きゅ、吸血鬼が、こっちに来て……『邪魔だ!』って言って……」
「吸血鬼はどっちに行ったの?」
「あっち……」

 息も絶え絶えながら、少年は弱々しく大通りの方を指差した。その先に設置していたバリケードが破壊されている。この道は細くて建物で日の光が遮られた暗い所だから、大通りに繋がる道の中でも取り分け目立たない。野次馬がここまでやってきて壊したとは考えにくい。

 これはつまり……。

「逃げられたってことか……ありがとう、ボク」
「ねぇ、おねぇさん……痛いよぅ……」
「大丈夫。大丈夫よ」
「痛いよぅ、助けてよぅ……」
「だから大丈夫だって」




 私は少年の胸に向けて発砲した。

「──そんな見え見えの嘘、吐かなくていいから」
「ギャアアアアアァァァッッッ!!!」

 少年──否、少年に化けていた吸血鬼は咄嗟に身体を転がし、致命傷を免れた。が、完全に避け切ることは不可能だったようで、二の腕をもう片方の腕で抱えながら立ち上がった。

「テメェ、ナンデ分カッタ」

 私の目の前にいるそれは、もはや瀕死の少年とはあまりに程遠い存在となっていた。

 2メートルを優に超える体躯にそれを完全に包み込む真っ黒な影、加えて2枚の羽と異様につま先の長く鋭い手足、そして簡単に肉を食い千切れそうなくらい大きな牙。
 これが、今回私が討伐せねばならない悪魔の全貌であった。

「傷モ演技モ、完璧ダッタ。完璧ナ餓鬼ダッタハズダ! ナノニ、ナンデ!」
「お前、よくそんな知能で今まで生きてこれたな」
「アァ?」
「一人で日の光の入らない所へはいかない。それくらいの子どもでも知ってる常識だ」

 私はふう、と一度溜息を吐いてから。

「さて、殺す前にお前にいくつか聞いておきたいことがある」
「ンナモン、オレ様ガ答エルトデモ──」

 私は奴の脚に一発撃ちこんだ。

「アアアアァァァッッ!!」
「関係ない事をほざくな。主導権は私にある」
「テ、テメェ!」

 またしても奴は何事か咆えかけたが、私がその頭に銃口を向けると奥歯を噛み締めながら押し黙った。
 奴の腕と脚からだらだらと血が流れている。普通の銃弾ならばすぐさま傷口が塞がり、奴も私を嬉々として襲いに掛かってきただろう。

 だが、吸血鬼には太陽と並んで有名な弱点がある。民話にも登場し活躍するその物質の名は銀だ。
 銀は吸血鬼の能力の一つである再生能力を大幅に弱める効力があった。そうなれば吸血鬼の脅威は幾分か取り除かれるし、こうして怪物相手でも優位に立つことができる。

 尤も、このまま心臓や脳味噌を撃ち抜いてしまえば、さっさと任務を終えることができるのだが、情報収集も仕事の内。それに簡単に殺してしまえば私の気が済まない。

「最初の質問だ」

 私は言った。

「お前は何の為に人を喰らってきた? 人を喰わなくても他の肉や野菜を摂取すれば生きられることは分かってるんだ」
「ハァ、ハァ……ハッ。テメェコソ馬鹿ダロ。ンナモン、喰イタイカラニ決マッテンダロウガ。騙サレタ間抜ケガ、オレ様ノ姿見テ腰抜カスノモ、オモシレ──アアァッ!!」

 もう何十回と聞いた答えが返ってきたので、私は途中でもう片方の腕を撃った。

「次の質問。お前は今までにいつ、どこで、どれだけの人を喰ってきた?」
「覚エテ、ル訳、ネェダロ……ハァ、ハァ……マァ、100人トカ、ソンナモンダロ」

今度はもう片方の脚を撃った。

「次。お前には仲間の吸血鬼がいるか?」
「知ラ、ネェヨ。ンナモン……マァデモ、俺ガ知ラナイダケデ、コノ街ノ何処カニイルカモナァ」
「そうか。じゃあ最後の質問だ」

 脇腹を撃って奴の悲鳴を聞き終えた後、どうせ違うのだろうな、とは思いつつ私は尋ねた。

「12年前の夏、午後8時頃に民家に侵入して一組の男女を殺して喰らい、その現場を女子高生に見られたことはあるか?」
「ハァ、ハァ、ハァ……ナンダ、ソレ。イヤ……アー、ソウイウコト、カ」

 奴は何やら妙に納得した様子で頷くと。

「テメェノクダラネェ都合デ、オレ様ノ邪魔ナンカスンジャネェ!!」

 突然、奴が襲ってきた。腕や脚、腹の痛みに耐えながら、どす黒い殺意を持って鋭利なその手を伸ばす。いくら弱り切った奴でも、私を殺すことくらいは容易だろう。

 ……無論、それは無駄な足掻きというものだが。

 奴の脳天に一発撃つと、奴は直前までの威勢を失って倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。

 任務達成。スマホを取り出して、その旨を組織に報告する。
 達成感、なんてものはない。これでしばらくはこの街に平和が訪れるという安心感はあるが、これで世界に潜む吸血鬼のすべてを撃ち払えた訳ではないのだから。

 それに、またしても私の両親を殺したアイツへの手掛かりを得られなかった。私の復讐は、まだ終わっていないのだ。

『ゴメンネ』

 アイツの言っていた言葉が、笑っているようで悲しんでそうな表情が、脳内で再生される。

 何がごめんだ、殺しておいて。なんで悲しそうなんだ、悲しいのは私の方なのに。
 お父さんの身体を踏み潰した癖に、お母さんの遺体を喰い荒らした癖に、何勝手なことほざくんだ。


 吸血鬼はどうしてこう例外なく自己中心的で、他者の尊厳を踏み躙り、人間を自身の快楽の為の道具や食料としか思っていないのだ!


 収まりつつあった怒りが湧き出でていく。吸血鬼を殺した後はいつもこうだった。
 分かってはいる。こんなところで一人で怒り嘆いても仕方ない。今はただ、アイツを殺せるその瞬間が来ることを願いながら、仲間の到着を待って──。

「……せんせー?」

 聞き馴染みのない声が聞こえた。
 聞き馴染みがなくとも、聞き覚えのある声。

 すぐさま大通りの方を見る。ピンクのメッシュが入ったハーフツインの黒髪が、夕日に照らされ輝いていた。

小米こごめさん……?」

 どうしてここに、と思ったが、そういえば彼女もこの辺りに住んでいるのだった。

 彼女の視線が手に持つ拳銃に向いている。
 私は咄嗟にそれを後ろに隠したが、もはや無意味な行為だろう。それに返り血塗れ白スーツや、何より足元に横たわる吸血鬼の死骸が言い逃れできない事実を形成していた。

 最悪だ。偶然とはいえ、仲間以外には一番見られたくないところを、よりにもよって受け持ちのクラスの生徒に見られるなんて。こんな血腥く穢らわしい仕事をしてることが彼女にバレてしまうなんて!

「せん、せー、は」

 動揺を隠せず、途切れ途切れになりながら、彼女は必死に言葉を紡ぐ。

「せんせー、は……せんせー、じゃ、ないの……?」
「…………えぇ。私は英語教師じゃない。世に蔓延る吸血鬼を殺すヴァンパイアハンター。それが私の仕事」
「……」

 諦めて私が頷くと、彼女はしばらく石のように固まり、そして飛び跳ねるように逃げて行った。
 追いかけようとも思ったが、これ以上彼女を怖がらせるべきではないし、追いかけたところで何を話せばいいのか分からなかったので止めた。

 人の姿になれる吸血鬼。それを殺す私達は、言わば政府公認の殺し屋だ。救世主や英雄だと称えられる一方で、吸血鬼と悪縁のない人からは人殺し呼ばわりされることも少なくない。有名で無知なインフルエンサーにSNS上で、『ヴァンパイアハンターは殺人以上の犯罪を犯した囚人達で、吸血鬼を殺すのは囚人労働の一環だ』なんて言われたこともあった。

 もし、彼女もヴァンパイアハンターという仕事を忌み嫌い、私を恐れて遠ざけてしまったら。きっともう誰も、彼女の孤独を埋められない。
 吸血鬼を討ち、あの学校にいられる時間も少なくなったはず。その短い期間だけでも、彼女に寄り添ってあげたいのに。

 遠くの方から仲間が私の名を呼んでいる。
 この死骸を見て、彼らは無能で視野の狭い私を称賛するだろう。

 よくやった、流石だ、ありがとう、と。

 夕焼け空はいつの間にか星が瞬き、夜闇が大通りの風景を少しずつ黒く染めようとしていた。



 吸血鬼がヴァンパイアハンターによって倒された、というニュースはすぐさま全国規模で報道され、翌日の学校は生徒や教師関係なくその話題で持ち切りだった。
 組織の根回しにより、私の名前は出ていない。それに私を目撃した小米さんもそのことを言いふらすような性格ではない。そもそも、悲しいことに彼女が仲良く会話できるような友達なんていない。

 だから私の正体が学校中に露見することなく、いつも通り授業を行うことができたのだった。

 問題は、その小米さんについてだが。

「し、失礼します……」

 昼休みに入ってすぐのこと。職員室の引き戸が開き、緊張した表情を浮かべる彼女が入ってきた。

「小米さん、どうしたの?」
「えっと、その、あの……」

 もじもじする彼女の回答を待つ。
 昨日の一件もあって、私もどう接すればよいのか分からない。お友達になりましょう、なんて言いはしたものの、果たしてアレ●●を見た後に私を受け入れてくれるのかどうか。

 彼女を救いたい、けれどもその為にはまず彼女から動いてくれないと話にならない。


 だから、どうか。どうか私を嫌わないで。


 不安を微笑みで隠しながら、彼女の次の言葉を待ち続ける。
 そのまま1分が過ぎ、2分経ち、3分に差し掛かった時。覚悟を決めた様子の彼女は強張った笑顔を見せながら、震えた声でこう言った。

「せ、せんせーが昨日言ってた英文って、あれなんて言ってたの?」

 こうして、私は無事に彼女と友達になったのだった。

 初日こそ緊張する彼女にただただ英語を教えるだけで終わったが、2日目は少しばかり雑談も混ざり、3日目になるともはや雑談がメインになった。
 土日を挟んで、4日目からは放課後にも話すようになった。5日目は一緒に昼食を取った。6日目は夜更けまでラインや通話で盛り上がった。7日目は大雨なのに傘を忘れたという彼女を車で家の近くまで送ったりもした。流石にやり過ぎだ、と学年主任の先生に怒られたが。だから8日目は私も自転車で帰ることにした。

 ドラマの話。俳優の話。漫画の話。ファッションの話。彼女が好きなスマホゲームの話。
 いつでも、どこでも、そんな他愛のない話ばかり。

 けれどもそんな当たり前の、他人にとってどうでもいい会話が、失われた私の青春を、失いつつあった彼女の青春を、蘇らせ、取り戻してくれる。私達は黄金の日々を謳歌していたのだ。

「──それでさ! アメリカでめっちゃ人気なファッションショップが近くに出来たから行ってみたの。そしたらもう、可愛いものしかなくて! 見てるだけでもすっごく楽しかったんだ~」

 食堂で買ってきたパンを食べながら、彼女が嬉しそうに話す。
ここは屋上前の階段。本当は屋上で一緒に食べる予定だったが、流石に施錠されてあったし、夏の日差しを甘く見過ぎだという私の忠告に彼女も従ったのだった。
 階段に並んで座る私達。冷房なんてものがないから、じわじわと汗が流れ出る。それでも彼女は二人きりになれるこの場所を選んだ。

「へぇ。この辺ってあまり若者向けの店、みたいなのないし、良かったじゃない」
「いやいや。せんせーもまだ若いでしょ? 多分二十……八才とかそんくらい?」
「おっ、正解。よく当てたね」
「えっ、マジで28? あたしすごくない?」
「このまま誕生日とか当てちゃう?」
「誕生日かぁ~。なんとなく、2月~4月ってカンジがするけど」
「何? 実は私の誕生日知ってるの?」
「あっ、もしかしてそこも合ってるワケ? じゃあ、3月3日とか?」
「惜しい。ひな祭りじゃないのよね。3月7日よ」
「うっわ、惜っし~。てかなんで月まで当てられたの? あたしエスパーになっちゃった?」

 蒸し暑さなんて何のその。彼女はかれこれ30分間、ひたすらテンション高めに喋っていた。
 最初に話した時と比べて今の彼女はずっと幸せそうで、積極的で、その派手な髪型に見合う魅力的な少女になっていた。

「まぁ、そんなことはどうでもよくて。あっ、せんせーの誕生日はどうでもよくないよ? それで、せんせーアラサーだけどまだ20代じゃん。全然10代のファッションとかイケると思うワケよ」
「流石にカスミさんみたいなオシャレはキツくないかしら」
「大丈夫だって。せんせー可愛いから。髪も綺麗だし、オシャレしないと損だよ」
「そうは言っても、私そんなにファッション分からないからねぇ。最近の流行りとかも全然知らないし」
「だったらあたしがさっき言ったとこに連れてってあげる。今度の土日とかにさ!」

 にこにこしながら彼女は私を誘う。
 私に少なからず好意を抱いていることが感じられて嬉しくは思う。けれども、そんな彼女が私以外の誰とも友達を作ろうとしていないのが気掛かりではあった。

 明日は期末試験が控えており、その採点が終われば、もう私はこの学校を出なくてはならない。今までは組織や、教師陣で唯一私の正体を知る校長と掛け合ってなんとか就任期間を延ばしてもらったのだが、ヴァンパイアハンターも人手が足りない。私がいないことで被害がさらに広がる訳にはいかないのだ。

 だからそれまでにどうにか彼女に友達を作ってもらって、私がいなくなっても幸せな学校生活を送れるようになってほしいのだが……。

「別に私じゃなくてもいいじゃない。今のカスミさんなら、たくさんお友達作れると思うよ」
「……大切にしたいバラは1輪だけでいいの。たくさんあるのも、それはそれで綺麗だと思うけどさ」
「バラ……? あっ、もしかして『星の王子さま』の?」

 どうやら彼女は『星の王子さま』の王子とバラの関係をたとえとして言いたいらしい。
 王子は自分の暮らしていた星で咲いていたバラとの喧嘩が理由でその星から旅立つ。その後様々な星を巡って地球へと辿り着くのだが、そこで5000輪のバラと出会い、自身の星に残したバラが如何に大切であったかを悟る、そんな粗筋だ。

「教科書に載ってないところなのに、よく知ってるわね」
「あの時せんせーが言ってた英文、『星の王子さま』に出てくるやつだったでしょ。もしかしたらせんせー好きなのかと思って」
「あれは、ちょうどその時の単元があの作品だったからで……まぁ、嫌いではないけれども」

 日本でも有名なフランスの名著というだけあって、やはり心惹かれる場面は多い。
 たとえばバラの話の前後での、王子とキツネが絆を深める場面。星に残したバラを憂う王子は、気分転換にキツネと遊ぼうとする。しかしキツネは『君に懐いてないから』と首を横に振る。王子はキツネを懐かせる為に、キツネから少し離れたところに座り、1日ずつその距離を縮めていく。そうして二人の心が少しずつ通い合い、絆が結ばれるのだ。

「どっちかというと、カスミさんはキツネかもね」
「え?」
「何でもないわ。とにかく、もう友達づくりに怖さなんかなくなったでしょう? もうまともにカスミさんとお話しできるのだって、実質今日で最後なんだし」
「……本当に、行っちゃうの?」

 寂しそうに尋ねる彼女に、胸がドスンと重苦しくなる。
 私だって、できることなら一緒にいたい。こんなに楽しいと感じる時間はいつ振りだろう。もしかすると、12年前のあの憎き吸血鬼によって人生を狂わされる直前の、部活の時間以来ではないか。

 彼女を救いたい。そんな思いから手を伸ばしたというのに、どうしてもこの手を離したくない。

 だけど。

「ごめん」

 その一言を発するのがどれだけ辛いことか。
 彼女は目を落としてまた尋ねた。

「この街からも、出て行くの?」
「……うん、そうだよ」
「な、夏休みに、会えたりする?」
「多分、難しいと思う」
「…………もう、会えないの?」

 きっと会えるよ。彼女が私にとって特別な子じゃなかったら、そんな無責任なことを言えてしまえるのに。

「そっか」

 無言が続き、彼女はそっと呟いた。
 気まずい空気に授業開始の予鈴が鳴り響く。
 彼女は立ち上がって、「じゃあね」と足早に階段を下りて行った。

 その日は、それ以上彼女が話しかけてくることはなかった。


後編に続く


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