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短編 「母娘のCavatina」

〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜

Cavatina ;
カヴァティーナ (イタリア語)

アリアのように
劇的で装飾的ではなく

独唱のように素朴かつ
心情に訴えかける
抒情的な表現を指す
音楽から派生した言葉

そして、ある母と娘の
物語を紡ぐ__





 
激しい衝撃が起きた__
突然、樹里じゅりが運転していた
軽自動車が宙を舞い
割れたリアガラスから
身体が空中に放り出された。

(一体、何が起こったの?)
 
樹里はいつの間にか、
路面に横たわり
少し離れた視界の先に
大破した自分の車と、
この状況の原因と見られる
トラックが停車しているのを見た。

全身を路面に強打してしまい、
息苦しい。

(私、このまま死んじゃうのかな?)

遠くからサイレンの音が
近づいてくる。
警察と救急車が到着し、
「大丈夫ですか?」と樹里に
救命士が声をかける。

樹里は小さくうなづく。

安堵したのか意識が遠のく間、
ようやく事態を飲み込む。
(私、事故に遭ったのね?)

担架で運ばれている間、
パトライトが赤い点幻を
冷たく光らせていた__。




樹里は意識を失っている間
夢にうなされていた__ 。

見知らぬ山中を彷徨っている。

(ここはどこだろう?)
 
緑深い森で
木漏れ日が柔らかに射している。

幻想的な雰囲気に包まれた中
落葉をかき分けて歩いている。
森のずいぶんと奥まで
来てしまっているのだろうか。

やがて__
ぼんやりとした視界の奥に
何かの気配を感じた。

一頭の牡鹿が現れた。
ジーッとこちらを見つめている。
その姿は威風堂々と
金色の毛並みを
日差しで輝かせている。

樹里は近づくことが出来ず
その場で立ち尽くしていると
頭の中で誰かが語りかけてきた。

「帰るのだ__ 。」
 
(えっ? この鹿、喋ってる?)
樹里は狐につままれた想いで
声の主を見る。

「ここはお前の来るところではない。」

樹里は呆気に取られている間
牡鹿は金色に輝く毛並みを翻して
目の前から立ち去っていった。




穂乃香ほのかには
父親の記憶がない。
物心がつく前には、
父は他界していた。

今年4月から
都内の高校に進学した。

穂乃香は
父親のいない家庭で育ったため
高校を出てからは
アルバイトをしようと
おぼろげながら考えていた。

昨日、母親の樹里からは
「部活には入らないの?」
とたびたび訊かれていたが

「もうちょっと、考えてみるね。」
(ホントは何をしたいか、
 わかんないんだけどな。)

授業を受けながら、
教室の窓の外に目を向けてみる。

夏空が眩しい。
蝉の合唱に紛れて、遠くから
救急車のサイレンが聞こえてくる。

ぼんやりと外の景色を眺めながら
ハッと我に還る。
(いけない__
暑くて集中力が途切れちゃう。)

一時限目の授業が終わって
担任の先生に呼び出された。

「櫻井さん。
 君のお母さんが通勤の途中
  事故にあったらしい。」

絶句する穂乃香の顔色は強張る。

「早く病院に行ってあげなさい。」

その言葉を担任が発するのを
背中越しに聴くようにして
穂乃香は既に駆け出していた。




穂乃香は病院に向かう途中、
激しい動悸が鳴り止まない。

(どうしよう?
 お母さんに何かあったら)

穂乃香にとって、
たったひとりの肉親だ。

病院に駆けつけ
ナース・ステーションの受付で
病室に案内される。

304号室 櫻井 樹里さくらい じゅり

ネームプレートを確認する。

病室の奥で母は眠りに着いていた。

ほどなく医師が来て、
病状を説明する。

母は__
大きな事故であったにも関わらず
幸いにも一命を取り留めたようだ。

「肋骨が折れていたので、
ギプスをしておきました。
二週間安静です。」
「一部、肋骨が肺に刺さり
穴が空いていました。」

気胸ききょうになっていたが、
医師は「自然に治るから大丈夫。」
と言ってくれた。

とりあえずは安堵した。
穂乃香は学校に連絡を入れた。

ほどなく携帯に友達からの
お見舞いLINEメッセージが届く。

(大したことなかったみたい。
  大丈夫だから。)
 
返信を繰り返しながら

(心配してくれてありがとう。)
 
気持ちも少し落ち着いてきた。

病室の白い壁を見つめながら
母の傷が癒えるのを
孤独に待つしかなかった。





(不思議な夢だったわ。)
 
樹里はふと目を覚ますと
ベッドの傍らで娘の穂乃香が
椅子に座ったまま眠っていた。

(来てくれていたのね。
 心配かけてごめんね、穂乃香)

娘の寝顔を見つめながら
(お姉ちゃんになったわね。)
と感慨に耽る。

樹里は23歳の時に結婚した。

その結婚生活は4年と短く、
早くに夫の隆晴たかはるに先立たれている。

彼女の夫は、通勤中の不慮の事故で
その命を絶たれてしまったのだ。

あれから15年__

近くに住む母親の助けを借りながら
幼いひとり娘の穂乃香の
成長を見守り
シングルマザーとして
生計を立ててきた。

(このまゝ隆晴さんの居る所へと__。)
 
一瞬、そんな想いが頭をよぎったが

(穂乃香を独りにするのは、
不憫ふびんだものね。)

穂乃香の寝顔をいとおしく見つめ
樹里は自分自身を鼓舞こぶするのだった。




穂乃香も夢を見ていた__。

狩人の姿で山奥を彷徨っている。
ある獲物を追っていた。
 
岩肌を掴みながら
急流の沢を登り続けている。

夢の中で普段の自分では
出来ないことが出来ている。

険峻な山肌を軽快に踏破することが
自然と当たり前に出来る感覚だ。

そこにいささかの疑念を
抱くこともなく

(絶対に仕留めて見せるから__ )

夢の中の主人公である穂乃香は
颯爽と山肌の木々の間を
駆け抜けてゆく。
 
そして、ついに見つけた。
黄金色に輝く牡鹿の姿が現れた。

穂乃香は持っている弓を構えて
ギリギリと引き絞り始めた。

穂乃香と牡鹿は対峙する。

狙いを定める穂乃香
悠然と構える牡鹿

両者の凄まじい緊迫感の狭間で
静かに時が流れてゆく。

狙い澄まして矢を放った瞬間
穂乃香の前髪が風になびく。

矢は力強く一閃し__
牡鹿の身体を貫いた。

穂乃香は
仕留めた牡鹿の元に歩みよる。

牡鹿は黒く円い目から
涙を流しながら死の淵で
その身体を痙攣させていた。

「穂乃香.... 。」
頭の中で声が響いた。
 
(誰?わたしの名前を呼んだのは?)
 
頭の中で聴こえる声は
どことなく温かな響きがする。

(ひょっとして...お父さん?)
 
穂乃香は直感的に
記憶にない父の声色だと
思わずにはいられなかった。

その瞬間、
牡鹿の身体は砂のように崩れて
風にサラサラと舞い上がる。

目眩く砂塵の中で
記憶の回想が巡る。

穂乃香が最後に見た光景

それは__
手のひらを太陽にかざしている
父と思しき人の手が映っていた。

「もう大丈夫。
 これで__  さよならだ。」
声の主は別れを告げた。





 
穂乃香は目覚めた。

「穂乃香、起きたのね。」
 
「お母さん.,. あっ!お母さん!」
穂乃香は咄嗟に母親に抱きついた。

「大丈夫だったのね?お母さん!」
穂乃香は嬉し涙でクシャクシャの
泣き顔を見せる。

「心配かけてごめんね。」
樹里は痛みをこらえて
娘を抱き寄せた。

(ありがとう。穂乃香...。)

母と娘はお互いに見た
不思議な夢について語り合った。

樹里が見た夢は__
おそらく樹里が冥土に行くのを
止めていたに違いない。
と母娘の意見は一致した。

では、穂乃香の見た夢は
何だったんだろう?

「いやん。もし鹿がお父さんなら
 わたし仕留めちゃってるよ?」

樹里は思った。
(きっと隆晴さんだったのね。)
 
穂乃香は夢で見た父の面影について
「ねぇねぇ?お母さん。
 お父さんってどんな人だった?」
と訪ねる。

「そうね、素朴で口下手だったし、
気の効いたことも
あまり言わなかったけど、
でも、すごく優しい人だったな。」
 
(きっと、わたしを守って、
穂乃香を托したってことだよね?)

あの人らしいと言えば、
そうなのかも知れない。

不思議の夢で聴こえていた
淡々と奏でるギターの音

温かく澄んだ森の奥深くで
あの人の好きだった曲が
たしかに聴こえていたのだから。

「お母さん、あのね。」
 
「なあに?」
 
「わたし...弓道部に入るから。」
 
樹里と穂乃香はお互いに
顔を見合わせて笑い合った。

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この物語はフィクションです。
登場人物の名前は実在の人物と
何ら関係はありません。

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