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多様性と美味いシェラスコ

こんにちは。
息子の福太郎がヒトメタニューモウイルスを貰ってきて2週間、やっと本調子に戻ったと思ったとたん、復帰した保育園から秒で鼻風邪を貰ってきた欲張り君の母、たいたいです。

今回は単なる鼻風邪なので症状的には大したことないのだが、とかく体を横たえたときの鼻詰まりが酷すぎる。
私も重症花粉症患者なので嫌というほど分かるのだが、一瞬たりとも鼻が通る瞬間がない。
当然夜は眠れない。

ということで、明け方6時頃にどういうメカニズムなのか突然鼻が通り、ようやく眠りにつく福太郎を真っ白い灰と成り果て見つめる私と夫アゲイン。

昨夜永遠に明けない夜に、呼吸が苦しくて唸る息子を見ながらnoteの記事について思いを馳せた。
なにか素晴らしいことを思いついた気がする。
想像の翼が広がりに広がり世界中を自由に飛び回った。
宇宙の真理を垣間見た気さえした。
慌ててスマホにメモをする。

翌朝、読み返してみた。

海外行かなくても丁寧に生ければ多様性だのはわかる
ブラジル人とマカオに懐かれてシェラスコ食べに行った話

明け方5時31分:宇宙の真理の一角

ちなみに、シェラスコとは、牛や羊などの肉を鉄製の串に刺し通し、岩塩を振って炭火でじっくりと焼くブラジルの料理である。

…うん。

うん、うん。

あるよね。

非常によくある。


この支離滅裂な感じ。
深夜帯って、そういうところ、あるよね。

なんか、自分の経験に思いを巡らせて、多様性について考えてみたんだろうね。
朝起きたら夏木凛さんが多様性に関する記事を書いていらしてビックリした。

この意味不明なメモを見ながら、昨夜自分が何を考えていたのかつぶさに思い出してみようと思った。
多分8割くらいは思い出せたと思うので以下記載する(本編までがいつも長いんだ)

私は10代後半から20代にかけて3年間を海外で過ごした。
英語圏と非英語圏の2か国に自分の意志で留学した。
今やたらと声高に叫ばれている多様性について、海外で暮らす外国人は否応なしに考える機会が増える。

何故ならその国にとっては自分自身がまさにマイノリティーだからだ。

日本にいると、「日本は単一民族の国だからよそ者や違う価値観を受け入れられない」などとまことしやかに叫ぶ人がいるが、果たしてそれは本当なのか。

例えば私はオーストラリアで暮らしたことがある。
オーストラリアは移民の国で様々なルーツを持つ人々が住んでいる。
だからこそ多様性を受け入れることのできる最先端で懐の広いユートピアだろうか?

実はオーストラリアは、ほんのちょっと前までは「白豪主義」の国なんて言われていた。
白豪主義とは白人最優先主義のことで、非白人を排除しようという考え方のことである。

実際に同じ語学学校に通っていたアジア系の女性が、道を歩いていただけでガタイのいい白人男性に背中を蹴られたり、類似の事件が時々起こり、学校側から注意喚起されることが何度もあった。

人種のサラダボウルと言われるアメリカは、差別のない理想郷か。

一つの国に様々な人種が共存していると、「自分とは違う人がいる」という事実を実感する機会は確かに多い。
だが、だからと言ってそれと、多様性を受け入れられるかどうかにはあまり相関性がないのである。
こう言っちゃ身も蓋もないが、結局のところこういうことは個人の資質に左右されるところが多いと感じる。

私はどうだろう。
小学校一年生の頃からの仲良しグループにゲイの男の子がいた。
彼は小学校一年生の時点で明らかに普通の男の子とは少し違った。
いわゆるマイノリティーだ。

常に女子と一緒にいて、女子の遊びを喜び、本来気安い存在であるはずの同性男子と話すことはとても緊張するのだと言っていた。

その頃の私は「ゲイ」だの「同性愛者」だのの言葉も概念すら知らない無邪気な子供だった。
だが、物心つく前からいつもその男の子が自然と存在していて、彼はただただそういう人なんだと理解していた。

また、同じグループに、サンリブで暴れた友人Mがいるのだが、彼女は昔からとんでもない自己中でわがままな少女であった。
私たちはMもまたそういう人なのだと理解していた。

Mへの理解とゲイの友人への理解は全く同質のもので、何一つ先入観やバイアスのかかっていない「ただそういうもの」というシンプルなものだった。

そんな土壌のある私が、2か国でマイノリティーとして3年間生活をして、まあまあたくさんの人種と関わった。

で、そういう私は多様性を受け入れられる素晴らしき人物となり得たのだろうか。
んなわけない。

私が辿り着いた結論は実にシンプル。
世の中にはいろんな人がいて、相容れる人もいれば相容れない人もいる。
理解が及ぶ人もいればどうしたって理解出来ない人もいる。

こんなこと、日本の西の果て九州から一歩も外に出なくたってちゃんと丁寧に生きていれば分かることだ。

ただ、自分と似た人や考え方が必ず正しいものでも、相容れない人や考え方が常に間違っているわけでもないことだけは肝に銘じていようと思う。
それだけ分かっていれば、声高に多様性を叫ぶ必要があるだろうか。

自分の理解の範疇を超えるもの、受け付けない考え方に接した時に、他者へ敵意を向けてしまう人が一定数いるため、昨今こんなに煩く叫ばれているのだろうと理解はするのだが…

ただ、これを叫ぶ人って革新的であることが善という考え方に自らが囚われているように見えることも多い。

保守的な概念を好む人を時代錯誤だとか古い価値観だとかの言葉で責めていやしませんか。
全ての女の子がピンクを好きだと思わないでと主張するのはいいが、ピンクやレース、フリルやスカートが好きな女の子の否定をしないでほしい。

お嫁さんになることが夢だという子がいたっていいし、専業主婦になって夫や子供の世話をかいがいしくしたいと思っている女性は別に時代錯誤ではなく、時代遅れでもなく、ただただそういうことを好む性質をもった人だと認めてほしい。

私だってほんとは結婚したら夫の有り余る稼ぎで優雅にVERY[ヴェリィ]などの雑誌を読みつつ、ポーセラーツやらフラワーアレンジメントやらのお教室に通う生活がしたいのよ!
「ほほほ、たくの主人は会社をいくつも経営しておりますの」とか夫の権威を笠に着て偉ぶった振る舞いをしてひそひそと陰口を叩かれてみたいのよ!
そんな私を責めないで!(責められてない)

話を戻そうか…

あと、国民性の違いってもの、実際にあると断言する。
そんなことを言うと、ひとくくりにして差別しないで!って怒られそうだが、やっぱりどう考えても日本人は相対的に真面目だし、ブラジル人はイケイケだ。

もちろん全員がそうだなんて言うつもりは全くないから怒らないで!(火の粉を払うのに必死)あくまで大雑把に国によってそれぞれ傾向があるよねという話。

オーストラリアに留学していた時、私は何故か2人のブラジル人にえらく気に入られた。一人は当時21歳の美女、もう一人は19歳の丸い瞳がキリンに似たかわいい男子。

なぜかこの二人から、教室でやたらと話しかけられる。
私が付けていた花モチーフのヘアゴムを控えめにつついて「花だね」と言って恥じらい笑うキリン君。
「たいたい、次の休み時間にコーヒー買いに行こう!」と誘ってくれる美女。

日本人は日本人と、ブラジル人はブラジル人と固まってることが多いのに何故だ?

「私、ブラジル人だけど、ブラジル人のノリにどうしても合わなくて」
なるほど。当然だが全ブラジル人がイケイケというわけではなかったのだ。

ある日私は件のキリンみたいな草食系のブラジル人男子からシェラスコを食べに行こうと誘われた。それを隣で聞いていたマカオ男子が、俺も付いていきたいと言う。

何故この3人なんだろう。
これはどういう組み合わせなのだろう。
分からなかったが3人で食べたお肉は格別だった。

おいしい!
下手な英語でマカオ君と二人そう言うとキリン君ははにかみつつも自国の料理を褒められ誇らしげな顔をした。

人種や性別が違っても結局のところ仲良くなる人と仲良くなる。
仲良くなれない人もいる。
なんか嫌い、という自分の心の声を無視して「多様性を受け入れねば」と無理する必要なんてない。

その人たちの生きる世界を奪わず、自分の生きる世界を奪わせず。
時々重なり合って「あ、どもー。やっぱり相容れませんなぁ、ガハハ」と衝突しない距離を取る。
野性動物と同じだ。

その程度のことを学ぶために、今人類は「多様性を受け入れる」ことについてお勉強しているのかもしれない。

ちなみに、今でもオーストラリアには白豪主義の人が普通に存在していて、アジア系だからという理由だけで背中を蹴ってくるような奴もいる。
そんな奴は地獄に落ちたらいいが、気が合って愛情深くて一生笑い続けられるような人だって山ほどいる。

それも多分どの国でも同じこと。



とんでもなくわがままで自己中でドタキャンの女王、友人Mの話はコチラ




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