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日本が直面する「怨望」の問題とは?〜他人の幸福をうらむ心の影響と、真の自由を追求する新時代の社会モデルの提案【学問のすすめ2.0:十三編】福沢諭吉から学ぶ

十三編
怨望の人間に害あるを論ず
 およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望《えんぼう》より大なるはなし。貪吝《たんりん》、奢侈《しゃし》、誹謗《ひぼう》の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。これを施すべき場所柄と、その強弱の度と、その向かうところの方角とによりて、不徳の名を免るることあり。譬《たと》えば銭を好んで飽くことを知らざるを貪吝と言う。されども銭を好むは人の天性なれば、その天性に従いて十分にこれを満足せしめんとするもけっして咎《とが》むべきにあらず。ただ理外の銭を得んとしてその場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出《い》で、銭を求むるの方向に迷うて理に反するときは、これを貪吝の不徳と名づくるのみ。ゆえに銭を好む心の働きを見て、直ちに不徳の名をくだすべからず。その徳と不徳との分界には一片の道理なるものありて、この分界の内にあるものはすなわちこれを節倹と言い、また経済と称して、まさに人間の勉《つと》むべき美徳の一ヵ条なり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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怨望が人間に及ぼす害について

人間の持つ欠点は数多くあるとされるが、その中でも交際における害が最も大きいのは怨望である。貪欲、浪費、中傷などは確かに欠点とされる行動であるが、これらを深く考察すると、本質的には必ずしも悪ではない。これらの行動は、どの状況で行われるか、どれだけの強度で行われるか、どの方向に向かって行われるかによって、欠点とは言えないこともある。例えば、お金を欲しがることを貪欲と言うが、お金を好むのは人間の本能であり、この本能に従って満足させることは悪いことではない。ただ、適切でない方法でお金を得ようとしたり、お金を欲しがる心が度を超えてしまったり、お金を求める方向が正しくない場合、それを貪欲と呼ぶ。だから、お金を好む心を見てすぐに欠点と判断してはならない。その行動が徳か欠点かの境界には一定の理由があり、その境界内にある行動は節約や経済と呼ばれ、実際には人間が努めるべき美徳の一つである。

 奢侈もまたかくのごとし。ただ身の分限を越ゆると否とによりて、徳不徳の名をくだすべきのみ。軽暖を着て安宅に居《お》るを好むは人の性情なり。天理に従いてこの情欲を慰むるに、なんぞこれを不徳と言うべけんや。積んでよく散じ、散じて則《のり》を踰《こ》えざる者は、人間の美事と称すべきなり。
 また誹謗と弁駁《べんばく》とその間に髪《はつ》を容《い》るべからず。他人に曲を誣《し》うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄むもうの公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易《やす》からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 奢侈についても、その行為が本当に自分の範囲を超えているかどうかで、良し悪しを判断すべきだ。誰もが快適な服を着て、安らかな家に住むことを望むのは、人間の本能だ。自然の法則に従って、この欲求を満たすことが悪いとは言えない。収めたものを適切に使い、過度に使わない人は、人間としての美徳と言える。

 また、他人を批判することや反論することについても、簡単に判断してはいけない。他人の間違いを指摘することを批判と言い、自分の考えが正しいと思うことを反論と呼ぶ。しかし、この世には絶対的な真実や正しい道が明確に示されていないため、どちらが正しくてどちらが間違っているのか、一概には言えない。正しい答えがまだ定まっていない中で、多くの人々の意見を正しいとするのは難しい。だから、他人を批判する人をすぐに悪いとは言えない。その批判が本当にただの批判なのか、それとも正当な反論なのかを見極めるためには、まずは真実を追求する必要がある。

 右のほか、驕傲《きょうごう》と勇敢と、粗野と率直と、固陋《ころう》と実着と、浮薄と穎敏《えいびん》と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。譬えば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足するところあれば、わが有様を進めて満足するの法を求めずして、かえって他人を不幸に陥《おとしい》れ、他人の有様を下して、もって彼我の平均をなさんと欲するがごとし。いわゆるこれを悪《にく》んでその死を欲するとはこのことなり。ゆえにこの輩の不平を満足せしむれば、世上一般の幸福をば損ずるのみにて少しも益するところあるべからず。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 「自慢や勇気、乱暴さや率直さ、頑固さや実直さ、軽薄さや鋭敏さ、これらは状況や強さ、方向性によって、悪い特質にもなり得るし、良い特質にもなり得る。ただ、その特質だけで絶対に悪となる人は、不満を持つ人の典型だ。不満は行動の裏側に隠れており、自分からは何も取らず、他人の状態を見て不満を感じ、自分を見ずに他人に多くを求める。その不満を解消する方法は、自分を利益させるのではなく、他人を損させることにある。例えば、他人の幸せと自分の不幸を比べ、自分が不足していると感じたら、自分の状態を改善する方法を探すのではなく、他人を不幸にすることで、平等を求めるようなものだ。これは、他人を妬み、その不幸を望むことと同じだ。だから、このような人たちの不満を解消すると、世の中全体の幸福が損なわれ、何の利益もない。」

 或る人いわく、「欺詐《ぎさ》虚言の悪事も、その実質において悪なるものなれば、これを怨望に比していずれか軽重の別あるべからず」と。答えていわく、「まことに然るがごとしといえども、事の原因と事の結果とを区別すれば、おのずから軽重の別なしと言うべからず。欺詐虚言はもとより大悪事たりといえども、必ずしも怨望を生ずるの原因にはあらずして、多くは怨望によりて生じたる結果なり。怨望はあたかも衆悪の母のごとく、人間の悪事これによりて生ずべからざるものなし。疑猜《ぎさい》、嫉妬、恐怖、卑怯の類は、みな怨望より生ずるものにて、その内形に見《あら》わるるところは、私語、密話、内談、秘計、その外形に破裂するところは、徒党、暗殺、一揆、内乱、秋毫《しゅうごう》も国に益すことなくして、禍《わざわい》の全国に波及するに至りては主客ともに免るることを得ず。いわゆる公利の費をもって私を逞《たくま》しゅうするものと言うべし」

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 「詐欺や虚言は、その本質において悪であるため、これを恨望と比較して軽重を問うべきではない」と、ある人が言った。対して、別の者が答える、「確かにその通りであるが、事の原因と結果を明確にすると、必ずしも軽重の差がないとは言えない。詐欺や虚言は確かに大きな悪であるが、それが恨望を生む原因とは限らない。多くの場合、恨望が原因となって詐欺や虚言が生じる。恨望は多くの悪の源であり、人間の悪行はこの恨望から生じることが多い。疑念、嫉妬、恐怖、卑怯などはすべて恨望から生まれるもので、その内面的な現れは陰口や密談、秘密の計画であり、外面的な現れは集団行動、暗殺、反乱、内乱となる。これらは国に利益をもたらさず、災厄が全国に広がると、関与する者も逃れられなくなる。公共の利益を私的に利用して自己を強化するものである」と。

 怨望の人間交際に害あることかくのごとし。今その原因を尋ぬるに、ただ窮の一事にあり。ただしその窮とは困窮、貧窮等の窮にあらず、人の言路を塞《ふさ》ぎ、人の業作《ぎょうさ》を妨ぐる等のごとく、人類天然の働きを窮せしむることなり。貧窮、困窮をもって怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆《しっかい》不平を訴え、富貴はあたかも怨みの府にして、人間の交際は一日も保つべからざるはずなれども、事実においてけっして然らず、いかに貧賤《ひんせん》なる者にても、その貧にして賤《いや》しき所以《ゆえん》の原因を知り、その原因の己が身より生じたることを了解すれば、けっしてみだりに他人を怨望するものにあらず。その証拠はことさらに掲示するに及ばず、今日世界中に貧富・貴賤の差ありて、よく人間の交際を保つを見て、明らかにこれを知るべし。ゆえにいわく、富貴は怨みの府にあらず、貧賤は不平の源にあらざるなり。

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 怨望が人間の交際に及ぼす害はこのようである。その原因を探ると、それは「窮」にある。ただし、この「窮」とは経済的な困窮や貧困の意味ではなく、人の考え方や行動を制限し、人間の自然な活動を妨げるような状況を指す。もし経済的な困窮や貧困が怨望の原因であるとするならば、世界中の貧しい人々は皆不平を感じ、裕福な人々は怨みの対象となり、人間の交際は一日も続かないはずである。しかし、実際にはそうではない。たとえ貧しい人であっても、自分の状況の原因を理解し、その原因が自分自身に起因することを認識すれば、他人を無闇に恨むことはない。その証拠として、現在の世界において貧富や身分の差が存在しながらも、人々の交際が継続していることを見れば明らかである。したがって、裕福であることが怨みの原因ではなく、貧しいことが不平の原因ではないと言える。

 これによりて考うれば怨望は貧賤によりて生ずるものにあらず。ただ人類天然の働きを塞《ふさ》ぎて、禍福の来去みな偶然に係るべき地位においてはなはだしく流行するのみ。昔孔子が「女子と小人《しょうにん》とは近づけ難し、さてさて困り入りたることかな」とて歎息したることあり。今をもって考うるに、これ夫子みずから事を起こしてみずからその弊害を述べたるものと言うべし。人の心の性は男子も女子も異なるの理なし。また小人とは下人《げにん》と言うことならんか。下人の腹から出でたる者は必ず下人と定まりたるにあらず。下人も貴人も生まれ落ちたる時の性に異同あらざるはもとより論を俟《ま》たず。しかるにこの女子と下人とに限りて取扱いに困るとは何ゆえぞ。平生卑屈の旨《むね》をもってあまねく人民に教え、小弱なる婦人・下人の輩を束縛して、その働きに毫《ごう》も自由を得せしめざるがために、ついに怨望の気風を醸成し、その極度に至りてさすがに孔子さまも歎息せられたることなり。

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 これを考慮すると、不満や絶望は貧しい状態から生まれるわけではない。ただ、人々の自然な動きを制限し、幸福や不幸が偶然に依存する状況では、不満は特に増える。昔、孔子は「女性や下級の人々は扱いが難しい」と嘆いたことがある。今考えると、孔子自身が問題を引き起こし、その問題の悪影響を指摘したのだと言える。人の心の性質は、男性であろうと女性であろうと変わらない。また、下級の人々が必ずしもその身分であるとは限らない。下級の人も上級の人も、生まれたときの性質に違いはない。それにもかかわらず、なぜ女性や下級の人々だけが扱いが難しいとされるのか。普段から人々に卑屈な態度を教え、弱い女性や下級の人々を束縛し、彼らの行動に自由を与えないことで、結果的に不満や絶望の感情が生まれ、それが極端になった結果、さすがの孔子も嘆くこととなった。

 元来人の性情において働きに自由を得ざれば、その勢い必ず他を怨望せざるを得ず。因果応報の明らかなるは、麦を蒔《ま》きて麦の生ずるがごとし。聖人の名を得たる孔夫子がこの理を知らず、別に工夫もなくしていたずらに愚痴をこぼすとはあまりたのもしからぬ話なり。そもそも孔子の時代は明治を去ること二千有余年、野蛮草昧そうまいの世の中なれば、教えの趣意もその時代の風俗人情に従い、天下の人心を維持せんがためには、知りてことさらに束縛するの権道なかるべからず。もし孔子をして真の聖人ならしめ、万世の後を洞察するの明識あらしめなば、当時の権道をもって必ず心に慊《こころよ》しとしたることはなかるべし。ゆえに後世の孔子を学ぶ者は、時代の考えを勘定のうちに入れて取捨せざるべからず。二千年前に行なわれたる教えをそのままに、しき写しして明治年間に行なわんとする者は、ともに事物の相場を談ずべからざる人なり。

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 基本的に、人が行動する際に自由を持たないと、他人を恨む傾向が出てくる。因果応報は明確で、麦を蒔けば麦が生えるのと同じだ。孔子という聖人の名を持つ人がこの原理を理解していないとして、特に工夫もせずにただ不平を言うのは、ちょっと信じがたい話だ。そもそも、孔子の時代は明治から約2000年以上前の未開な時代で、その時代の教えや価値観は、その時代の社会や人々の感情に基づいていた。その時代の人々の心を保つためには、知っていても意図的に制約する必要があったのかもしれない。もし孔子が真の聖人であり、未来を予見する能力があったとしても、当時の方法を完全に受け入れることはなかったであろう。だから、後の時代に孔子の教えを学ぶ人は、時代の背景を考慮に入れて選択しなければならない。2000年前の教えをそのまま受け入れて、明治時代に適用しようとする人は、物事の価値を正しく評価できない人だ。

 また近く一例を挙げて示さんに、怨望の流行して交際を害したるものは、わが封建の時代に沢山なる大名の御殿女中をもって最《さい》とす。そもそも御殿の大略を言えば、無識無学の婦女子群居して無智無徳の一主人に仕え、勉強をもって賞せらるるにあらず、懶惰《らんだ》によりて罰せらるるにあらず、諫《いさ》めて叱らるることもあり、諫めずして叱らるることもあり、言うも善し言わざるも善し、詐《いつわ》るも悪し詐らざるも悪し、ただ朝夕の臨機応変にて主人の寵愛を僥倖《ぎょうこう》するのみ。

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 近くの例を一つ挙げて説明しよう。交際が悪化している主な原因として、我々の封建時代に多く存在した大名の御殿の女中たちを考えると良いだろう。簡単に御殿の状況を述べると、知識も教養もない女性たちが集まり、知恵も徳もない一人の主人に仕えていた。彼女たちが勉強をして褒められることはなく、怠けても罰されることはなかった。時には諫言して叱られることもあれば、何も言わずに叱られることもあった。言っても良く、言わなくても良い。嘘をついても悪いし、嘘をつかなくても悪い。彼女たちの目的はただ、日々の状況に応じて主人の寵愛を得ることだけであった。

 その状あたかも的《まと》なきに射るがごとく、当たるも巧なるにあらず、当たらざるも拙なるにあらず、まさにこれを人間外の一乾坤けんこんと言うも可なり。この有様のうちに居《お》れば、喜怒哀楽の心情必ずその性を変じて、他の人間世界に異ならざるを得ず。たまたま朋輩に立身する者あるも、その立身の方法を学ぶに由《よし》なければ、ただこれを羨むのみ。これを羨むのあまりにはただこれを嫉《ねた》むのみ。朋輩を嫉み、主人を怨望するに忙《いそが》わしければ、なんぞお家のおんためを思うに遑《いとま》あらん。忠信節義は表向きの挨拶のみにて、その実は畳に油をこぼしても、人の見ぬところなれば拭《ぬぐ》いもせずに捨て置く流儀となり、はなはだしきは主人の一命にかかる病の時にも、平生、朋輩の睨《にら》み合いにからまりて、思うままに看病をもなし得ざる者多し。なお一歩を進めて怨望嫉妬の極度に至りては、毒害の沙汰もまれにはなきにあらず。古来もしこの大悪事につきその数を記したるスタチスチクの表ありて、御殿に行なわれたる毒害の数と、世間に行なわれたる毒害の数とを比較することあらば、御殿に悪事の盛んなること断じて知るべし。怨望の禍《わざわい》豈《あに》恐怖すべきにあらずや。

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 その状況はまるで目標がない状態で矢を放つようなものである。当たっても特別な技術があるわけではなく、当たらなくても下手というわけではない。これはまさに人間の世界を超えた領域と言えるだろう。このような状況の中にいると、感情の喜怒哀楽は変わってしまい、他の人々の世界とは異なるものとなる。時折、同僚や友人が成功する者がいても、その成功の方法を学ぶことはできず、ただ羨むだけである。そして、その羨望は嫉妬へと変わる。同僚を嫉妬し、上司を恨むことに忙しく、家族や親のためを思う余裕はない。忠誠や義理堅さは表面的なものとなり、実際の行動は不注意や怠慢になる。特に、上司や主人が重い病にかかった時でも、普段の小さな争いや嫉妬から解放されず、適切な看病をすることができない者も多い。さらに、怨望や嫉妬が極端になると、毒殺などの犯罪も起こることがある。歴史的にも、宮廷や貴族の間での毒殺事件の統計があり、それを一般の世間と比較すると、宮廷での犯罪の多さが明らかである。怨望の災厄は、どれほど恐ろしいものかを理解するべきである。

 右御殿女中の一例を見ても大抵、世の中の有様は推して知るべし。人間最大の禍は怨望にありて、怨望の源は窮より生ずるものなれば、人の言路は開かざるべからず、人の業作は妨ぐべからず。試みに英亜諸国の有様とわが日本の有様とを比較して、その人間の交際において、いずれかよくかの御殿の趣を脱したるやと問う者あらば、余輩は今の日本を目してまったく御殿に異ならずと言うにはあらざれども、その境界《きょうがい》を去るの遠近を論ずれば、日本はなおこれに近く、英亜諸国はこれを去ること遠しと言わざるを得ず。英亜の人民、貪吝驕奢ならざるにあらず、粗野乱暴ならざるにあらず、あるいは詐る者あり、あるいは欺く者ありて、その風俗けっして善美ならずといえども、ただ怨望隠伏の一事に至りては必ずわが国と趣を異にするところあるべし。

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 宮殿の女官の例を見ても、世の中の状況は容易に理解できる。人間の最大の問題は不満や絶望にあり、その源は困窮から生まれる。だから、人々の意見や考えを封じ込めてはいけないし、人々の活動や仕事を妨げてはいけない。例として、ヨーロッパやアジアの国々と日本の状況を比較してみると、人々の交流の中で、どちらが宮殿のような閉鎖的な状況から脱却しているかという問いに、私は現在の日本が完全に宮殿とは異なるとは言えないが、その境界をどれだけ離れているかを考えると、日本はまだそれに近く、ヨーロッパやアジアの国々はそれから遠く離れていると言わざるを得ない。ヨーロッパやアジアの人々も欲深く、贅沢を好むこともあれば、粗野で乱暴なこともある。詐欺師や欺瞞的な人々もいるし、その文化や風俗が完全に良いとは言えないが、不満や絶望を隠すことに関しては、日本とは異なる点があるだろう。

 今、世の識者に民選議院の説あり、また出版自由の論あり。その得失はしばらく擱《お》き、もともとこの論説の起こる所以を尋ぬるに、識者の所以はけだし今の日本国中をして古《いにしえ》の御殿のごとくならしめず、今の人民をして古の御殿女中のごとくならしめず、怨望に易《か》うるに活動をもってし、嫉妬の念を絶ちて相競うの勇気を励まし、禍福譏誉ことごとくみな自力をもってこれを取り、満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意なるべし。  人民の言路を塞《ふさ》ぎ、その業作を妨ぐるは、もっぱら政府上に関して、にわかにこれを聞けば、ただ政治に限りたる病のごとくなれども、この病は必ずしも政府のみに流行するものにあらず、人民の間にも行なわれて、毒を流すこともっともはなはだしきものなれば、政治のみを改革するもその源《みなもと》を除くべきにあらず。今また数言を巻末に付し、政府のほかにつきてこれを論ずべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 現在、専門家の中には民選議院の提案や出版の自由に関する意見がある。その利点や欠点を一旦置いて、このような議論がなぜ起こるのかを考えると、専門家たちの目的は、現代の日本を古代の宮殿のようにしないこと、現代の市民を古代の宮殿の使用人のようにしないこと、不満を感じやすい人々に活動の場を提供し、嫉妬の感情を排除して競争の勇気を奨励し、幸福や不幸、評価や非難をすべて自分の力で取得し、全ての人々に自分の行動の結果を受け入れるようにすることだろう。

 市民の意見や行動を制限するのは、主に政府の責任である。一見、これは政治に限定された問題のように思えるが、この問題は政府だけでなく、市民の間にも広がっており、その影響は非常に深刻だ。だから、政治だけを改革するのではなく、問題の根源も取り除く必要がある。さらに、政府以外の側面についても考察するべきだ。

 元来人の性は交わりを好むものなれども、習慣によればかえってこれを嫌うに至るべし。世に変人奇物とて、ことさらに山村僻邑へきゆうにおり世の交際を避くる者あり。これを隠者と名づく。あるいは真の隠者にあらざるも、世間の付合いを好まずして一家に閉居し、俗塵を避くるなどとて得意の色をなす者なきにあらず。この輩の意を察するに、必ずしも政府の所置を嫌うのみにて身を退《しりぞ》くるにあらず、その心志怯弱きょうじゃくにして物に接するの勇なく、その度量狭小にして人を容《い》るること能《あた》わず、人を容るること能わざれば人もまたこれを容れず、彼も一歩を退け我もまた一歩を退け、歩々相遠ざかりてついに異類の者のごとくなり、後には讐敵《しゅうてき》のごとくなりて、互いに怨望するに至ることあり。世の中に大なる禍《わざわい》と言うべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 基本的に、人間は社交的な生き物である。しかし、習慣や環境によって、逆に社交を避けるようになることもある。世には、変わり者や特異な人物として、敢えて山の中や隠れた村に住み、社会との交流を避ける者がいる。これを「隠者」と呼ぶ。また、真の隠者ではないけれども、社会との付き合いを避け、家に閉じこもり、世俗から離れることを自慢とする者もいる。このような人々の背景を考えると、必ずしも政府や社会の制度を嫌って隠れるわけではない。彼らの心は弱く、他者との関わりに勇気がない。その視野は狭く、他者を受け入れることができない。そして、彼らが他者を受け入れないが故に、他者も彼らを受け入れない。その結果、お互いに距離を置き、最終的にはまるで異なる存在のようになる。やがて、敵対的な関係となり、互いに恨み合うこともある。これは、社会にとって大きな問題である。

 また人間の交際において、相手の人を見ずしてそのなしたる事を見るか、もしくはその人の言を遠方より伝え聞きて、少しくわが意に叶わざるものあれば、必ず同情相あわれむの心をば生ぜずして、かえってこれを忌み嫌うの念を起こし、これを悪《にく》んでその実に過ぐること多し。これまた人の天性と習慣とによりて然るものなり。物事の相談に伝言、文通にて整わざるものも直談にて円《まる》く治まることあり。また人の常の言に、「実はかくかくのわけなれども、面と向かいてはまさかさようにも」ということあり。すなわちこれ人類の至情にて、堪忍の心のあるところなり。すでに堪忍の心を生ずるときは、情実互いに相通じて怨望嫉妬の念はたちまち消散せざるを得ず。古今に暗殺の例少なからずといえども、余常に言えることあり、「もし好機会ありてその殺すものと殺さるる者とをして数日の間同処に置き、互いに隠すところなくしてその実の心情を吐かしむることあらば、いかなる讐敵にても必ず相和するのみならず、あるいは無二の朋友たることもあるべし」と。

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 人間の交際において、相手の人格を見ずに行動だけを評価することや、遠くからの伝聞だけで、自分の考えに合わない言葉があれば、同情や理解の感情を持たず、逆に反感や嫌悪の感情を抱くことが多い。これは人の本質や習慣に起因するものである。伝聞や書簡だけでは解決しきれない問題も、直接話し合うことでスムーズに解決することがある。人々はよく、「実際の理由はこれこれだが、直接言うのは難しい」と言う。これは人間の深い感情や寛容の心を示すものである。一度、寛容の心を持つと、感情や理解は相互に通じ合い、怨望や嫉妬の感情はすぐに消え去る。歴史上、暗殺の例は多いが、一般的に言われることがある。「もし、殺す側と殺される側が数日間同じ場所にいて、お互いに隠し事なく真実の感情を話す機会があれば、どんな敵であっても和解するだけでなく、最良の友人になることもあるだろう」と。

 右の次第をもって考うれば、言路を塞ぎ、業作を妨ぐるのことは、ひとり政府のみの病にあらず、全国人民の間に流行するものにて、学者といえども、あるいはこれを免れ難し。人生活発の気力は物に接せざれば生じ難し。自由に言わしめ、自由に働かしめ、富貴も貧賤もただ本人のみずから取るにまかして、他よりこれを妨ぐべからざるなり。

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 この状況を考えると、意見を封じ込めたり、活動を妨げることは、政府だけの問題ではない。全国の人々の間で広まっている傾向であり、学者であっても、この問題から逃れるのは難しい。人々の活動や創造力は、外部との接触がなければ生まれにくい。人々に自由に意見を述べさせ、自由に活動させるべきで、富や貧しさは個人の努力によって決まるべきであり、他者がそれを妨げるべきではない。

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