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真理を追求する判断力の極意:西洋の議論文化から学ぶ、正確な事実認識のための多角的な視点の持ち方とは?【学問のすすめ2.0:十五編】福沢諭吉から学ぶ

十五編
ものごとを疑い、選び捨てる哲学
真実を求める世界には詐欺が溢れ、疑念を抱く世界には真実が潜んでいる。よく見てみよう、この世には多くの人々が他人の言葉を信じ、書物を信じ、物語を信じ、風の噂を信じ、神や仏を信じている。ある者は占いを信じ、親の病気には伝統的な治療を選び、娘の結婚相手を選ぶ際には家の運命を基に判断し、熱を持った際には医者を呼ばずに念仏を唱える。これは彼らが阿弥陀如来や不動明王といった存在を深く信仰しているためだ。もし、このような人々の間で真実がどれほど存在するかを問うのであれば、多いとは言えないだろう。真実が少なければ、詐欺は増えるのが当然である。しかしながら、この多くの人々はものごとを信じていると言っても、実は彼らが信じているのは偽物である。だからこそ、「真実を求める世界には詐欺が溢れている」と言えるのである。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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  異説争論の際に事物の真理を求むるは、なお逆風に向かいて舟を行《や》るがごとし。その舟路を右にし、またこれを左にし、浪に激し風に逆らい、数十百里の海を経過するも、その直達《ちょくたつ》の路を計れば、進むことわずかに三、五里に過ぎず。航海にはしばしば順風の便ありといえども、人事においてはけっしてこれなし。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際に間切《まぎ》るの一法あるのみ。しこうしてその説論の生ずる源は疑いの一点にありて存するものなり。「疑いの世界に真理多し」とはけだしこの謂《いい》なり。  然りといえども、事物の軽々信ずべからざることはたして是《ぜ》ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明《めい》なかるべからず。けだし学問の要はこの明智を明らかにするにあるものならん。わが日本においても、開国以来とみに人心の趣を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起こし、新聞局を開き、鉄道・電信・兵制・工業等、百般の事物一時に旧套を改めたるは、いずれもみな数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革せんことを試みて功を奏したるものと言うべし。

  文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても、無形の人事にても、その働きの趣を詮索して真実を発明するにあり。西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑いの一点より出でざるものなし。ガリレオが天文の旧説を疑いて地動を発明し、ガルハニが蟆《がま》の脚の※[#「てへん+畜」、第3水準1-84-85]搦《ちくじゃく》するを疑いて動物のエレキを発明し、ニュートンが林檎《りんご》の落つるを見て重力の理に疑いを起こし、ワットが鉄瓶の湯気を弄《もてあそ》んで蒸気の働きに疑いを生じたるがごとく、いずれもみな疑いの路によりて真理の奥に達したるものと言うべし。格物窮理の域を去りて、顧みて人事進歩の有様を見るもまたかくのごとし。売奴法の当否を疑いて天下後世に惨毒の源を絶えたる者は、トーマス・クラレクソンなり。ローマ宗教の妄誕を疑いて教法に一面目を改めたる者はマルチン・ルーザなり。フランスの人民は貴族の跋扈《ばっこ》に疑いを起こして騒乱の端を開き、アメリカの州民は英国の成法に疑いを容れて独立の功を成したり。今日においても、西洋の諸大家が日新の説を唱えて人を文明に導くものを見るに、その目的はただ古人の確定して駁《ばく》すべからざるの論説を駁し、世上に普通にして疑いを容るべからざるの習慣に疑いを容るるにあるのみ。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 文明の発展は、目に見える物理的なものや人々の行動・考えにおいて、その動きや背後にある意味を深く探ることで、真実を見つけ出すものである。西洋の国々が現代の文明に至った原動力を追えば、疑問や疑念から始まったものばかりである。ガリレオは従来の天文学の説を疑って地球の動きを明らかにし、ガルヴァニはカエルの足が動く現象に疑念を抱き、動物の電気を発見した。ニュートンはりんごが落ちるのを見て重力の法則に疑問を持ち、ワットは鉄のケトルからの蒸気を観察し、その動きに疑問を感じた。これらの偉人たちは、疑問を持つことから真実の深い部分へと進んだのである。この理念をさらに広げ、人間の行動や進化を見ても同じことが言える。奴隷販売の是非に疑問を持ち、その悪しき実践を終わらせたのはトーマス・クラークソンである。カトリックの教義に疑問を持ち、宗教改革を起こしたのはマルティン・ルターである。フランスの人々は貴族の圧制に疑問を持ち、革命を起こし、アメリカの市民はイギリスの法律に疑問を感じて独立を果たした。現代でも、西洋の学者たちが新しい理論を提唱して人々を文明に導くとき、その目的は過去の人々が確固として信じて疑わなかった考えや、一般的に疑われていない習慣に疑問を持つことにある。

 今の人事において男子は外を務め婦人は内を治むるとてその関係ほとんど天然なるがごとくなれども、スチュアルト・ミルは『婦人論』を著わして、万古一定動かすべからざるのこの習慣を破らんことを試みたり。英国の経済家に自由法を悦ぶ者多くして、これを信ずる輩はあたかももって世界普通の定法のごとくに認むれども、アメリカの学者は保護法を唱えて自国一種の経済論を主張する者あり。一議したがって出ずれば一説したがってこれを駁し、異説争論その極《きわ》まるところを知るべからず。これをかのアジヤ諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱《ふこ》神仏に惑溺し、あるいはいわゆる聖賢者の言を聞きて一時にこれに和するのみならず、万世の後に至りてなおその言の範囲を脱すること能わざるものに比すれば、その品行の優劣、心志の勇怯、もとより年を同じゅうして語るべからざるなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 現在の社会構造において、男性が外での仕事を、女性が家庭を担当するという役割は、まるで自然の摂理のように思われている。しかし、スチュアルト・ミルは『婦人論』を執筆し、この古くからの不変と思われる慣習に挑戦を試みた。イギリスの経済学者の中には自由主義的な経済方針を支持する者が多い。その考えは、まるで普遍的な原則であるかのように信じられている。しかし、アメリカの学者の中には保護主義的な経済方針を主張する者もいる。一つの意見が提起されれば、別の意見がそれを反駁する。様々な意見が飛び交い、どれが正しいのかの結論は出ていない。これをアジアの国々の人々が、不確かな信念を盲信し、神や仏や神秘的な力に迷い込む様子や、いわゆる賢者の言葉を聞き、その言葉に固執する様子に比べれば、その思考の質や勇気の有無、更には時代背景を同じくして考えることはできないであろう。

 異説争論の際に事物の真理を求むるは、なお逆風に向かいて舟を行《や》るがごとし。その舟路を右にし、またこれを左にし、浪に激し風に逆らい、数十百里の海を経過するも、その直達《ちょくたつ》の路を計れば、進むことわずかに三、五里に過ぎず。航海にはしばしば順風の便ありといえども、人事においてはけっしてこれなし。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際に間切《まぎ》るの一法あるのみ。しこうしてその説論の生ずる源は疑いの一点にありて存するものなり。「疑いの世界に真理多し」とはけだしこの謂《いい》なり。  然りといえども、事物の軽々信ずべからざることはたして是《ぜ》ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明《めい》なかるべからず。けだし学問の要はこの明智を明らかにするにあるものならん。わが日本においても、開国以来とみに人心の趣を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起こし、新聞局を開き、鉄道・電信・兵制・工業等、百般の事物一時に旧套を改めたるは、いずれもみな数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革せんことを試みて功を奏したるものと言うべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 異なる意見や議論が交差する時、真実を求めるのは逆風に向かって船を進めるようなものだ。船の進路を右にしたり左にしたりして、波や風に立ち向かいながら長い距離を進んでも、実際に直進した距離はわずか数キロメートルに過ぎないことがある。航海には時々、好条件となる順風が吹くが、人間の活動や議論にはそうした順風はほとんど期待できない。真実に辿り着くための方法とは、異なる意見や議論を通じて進むことだけである。そして、議論が生まれる原点は疑問にある。「疑問の中に多くの真実がある」とはまさにこのことを指している。

 しかしながら、物事を安易に信じるべきでないと言っても、それを無闇に疑うべきでもない。信じることと疑うことの間には、常に適切な判断が求められる。学問の本質は、この明確な判断力を磨くことにあるのかもしれない。我が日本でも、開国以降、人々の意識が変わり、政府が改革され、貴族が失墜し、学校が設立され、新聞が発行され、鉄道や電信、軍制、工業など、あらゆる分野で革命的な変化が起こった。これはすべて、長年の伝統や習慣に疑問を投げかけ、新しい方法を試みることが成功の鍵であったと言えるだろう。

 然りといえども、わが人民の精神においてこの数千年の習慣に疑いを容れたるその原因を尋ぬれば、はじめて国を開きて西洋諸国に交わり、かの文明の有様を見てその美を信じ、これに倣《なら》わんとしてわが旧習に疑いを容れたるものなれば、あたかもこれを自発の疑いと言うべからず。ただ旧を信ずるの信をもって新を信じ、昔日は人心の信、東にありしもの、今日はそこを移して西に転じたるのみにして、その信疑の取捨如何いかんに至りては、はたして適当の明あるを保すべからず。余輩いまだ浅学寡聞、この取捨の疑問に至り、いちいち当否を論じてその箇条を枚挙する能わざるは、もとよりみずから懺悔するところなれども、世事転遷の大勢を察すれば、天下の人心この勢いに乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑うものは疑いに過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失するものあるは明らかに見るべし。左にその次第を述べん。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 それにしても、私たちの国民の心において、数千年の伝統に疑問を抱いた原因を探ると、国が開かれ、西洋の国々と交流を持ち始め、その先進的な文明を目の当たりにして、その素晴らしさを認識し、それを模範にしようとした結果、私たちの伝統に疑問を持ったのである。しかし、これを完全に自発的な疑問とは言えない。ただ単に、かつての信念を捨てて新しいものを受け入れるだけで、かつては東に向けられていた信頼は、今は西に向けられているだけであり、その信じる、疑うの判断には、本当に適切な考えが保たれているとは言えない。私はまだ学びが浅く、この選び取ることの問題において、正しいか否かを詳細に論じる能力は持ち合わせていない。しかし、時代の流れを見れば、多くの人々が流れに乗せられ、信じることには過度に信じ、疑うことには過度に疑う傾向があり、信じることや疑うことのバランスを見失っていることは明らかである。以下で、その詳細を述べよう。

 東西の人民、風俗を別にし情意を異にし、数千百年の久しき、おのおのその国土に行なわれたる習慣は、たとい利害の明らかなるものといえども、とみにこれを彼に取りて是《これ》に移すべからず、いわんやその利害のいまだ詳《つまび》らかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、ようやくその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。しかるに近日世上の有様を見るに、いやしくも中人以上の改革者流、あるいは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、およそ智識、道徳の教えより治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆《しっかい》西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。あるいはいまだ西洋の事情につきその一斑をも知らざる者にても、ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むるもののごとし。なんぞそれ事物を信ずるの軽々にして、またこれを疑うの粗忽《そこつ》なるや。西洋の文明はわが国の右に出ずること必ず数等ならんといえども、けっして文明の十全なるものにあらず。その欠点を計《かぞ》うれば枚挙に遑《いとま》あらず。彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらず、我の習慣ことごとく醜にして疑うべきにあらず。

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 東と西、両方の文化や国々の人々は、風俗や感情が異なる。何千何百年もの長い歴史を通じて形成されたそれぞれの習慣や文化は、たとえそれが利点が明確であるとしても、簡単に一方から他方へと移入することはできない。特にその利益が明確でないものについてはなおさらである。これを取り入れるには、深く考え、長い時間をかけて、その本質を理解し、採用するか否かを判断しなければならない。しかし、最近の世の中を見ると、中流以上の階層や自称改革者、あるいは啓発家たちが、西洋文明の素晴らしさを口にする。一人が西洋の良さを語れば、多くの人々がそれに賛同する。教育から国の運営、経済、生活の細かい部分まで、ほとんどのものが西洋を模倣しようとする傾向がある。しかも、西洋の状況や背景を全く知らない人々までが、古いものを捨て新しいものを求める傾向が強い。なぜ彼らは事物を簡単に信じ、また疑わないのか。西洋の文明は我が国に劣らず優れているかもしれないが、決して完璧ではない。その欠点は数えきれないほどある。西洋の全ての習慣や文化が美しいわけではなく、我々の文化や習慣が全て悪いわけでもないであろう。

 譬《たと》えばここに一少年あらん。学者先生に接してこれに心酔し、その風に倣わんとしてにわかに心事を改め、書籍を買い、文房の具を求めて、日夜机に倚《よ》りて勉強するはもとより咎《とが》むべきにあらず。これを美事と言うべし。然りといえどもこの少年が先生の風を擬するのあまりに、先生の夜話に耽《ふけ》りて朝寝するの癖をも学び得て、ついに身体の健康を害することあらば、これを智者と言うべきか。けだしこの少年は先生を見て十全の学者と認め、その行状の得失を察せずして悉皆これに倣わんとし、もってこの不幸に陥りたるものなり。
 支那の諺に、「西施《せいし》の顰《ひそ》みに倣う[#「顰《ひそ》みに倣う」は底本では「顰《ひそみ》みに倣う」]」ということあり。美人の顰みはその顰みの間におのずから趣ありしがゆえにこれに倣いしことなればいまだ深く咎むるに足らずといえども、学者の朝寝になんの趣あるや。朝寝はすなわち朝寝にして、懶惰《らんだ》不養生の悪事なり。人を慕うのあまりにその悪事に倣うとは笑うべきのはなはだしきにあらずや。されども今の世間の開化者流にはこの少年の輩《はい》はなはだ少なからず。

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 例として、ある少年がいるとしよう。彼は学者や教師に深く感銘を受け、彼のようになろうと心がけ、自らを変えて書籍を購入し、学習道具を手に入れ、日々勉学に励む。このような姿勢は非難されるべきものではなく、むしろ称賛されるべき行動である。しかし、もし彼が教師の生活様式を盲目的に模倣しすぎて、例えば、教師の深夜の会話にのめり込み、朝寝坊する悪習も真似るようになり、結果として健康を害してしまったら、その行動を賢明とは言えないだろう。この少年は教師の全てを理想として見て、その行動の良し悪しをきちんと見極めずに、すべてを模倣し、それが原因で問題を抱えることになったのである。

 中国には「西施のしかめっ面を模倣する」という故事がある。美人が顔をしかめるのは、その表情に特別な魅力があるためで、それを真似ることは特に問題視されない。しかし、学者の朝寝坊にはどんな魅力があるのだろうか?朝寝坊はただの朝寝坊であり、怠惰や不摂生の表れである。人を尊敬するあまり、その不良な習慣まで真似るのは、何と滑稽なことか。しかしながら、現代の開明的な人々の中にも、このような模倣を繰り返す人々は少なくないのである。

 仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促《うなが》しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。日本人は寝屋の内に尿瓶《しびん》を置きてこれに小便を貯《たくわ》え、あるいは便所より出でて手を洗うことなく、洋人は夜中といえども起きて便所に行き、なんら事故あるも必ず手を洗うの風ならば、論者評して言わん、「開化の人は清潔を貴ぶの風あれども、不開化の人民は不潔の何ものたるを知らず、けだし小児の智識いまだ発生せずして汚潔を弁ずること能《あた》わざる者に異ならず、この人民といえどもしだいに進んで文明の域に入らば、ついには西洋の美風に倣《なら》うことあるべし」と

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 もし今、東西の習慣を比較し、進歩的な評論家の意見を仮定してそれを記述するとしよう。西洋人は毎日お風呂に入るが、日本人は月に数回しか入浴しない場合、評論家はこう評するだろう。「先進国の人々は定期的にお風呂に入り、皮膚の健康を保つことで健康を守るが、知識のない日本人はこの重要性を理解していない」と。日本人は寝室に用便器を置き、便所から出た後も手を洗わないが、西洋人は夜中であってもトイレに行く際は必ず手を洗う場合、評論家はこう言うだろう。「進歩的な人々は清潔さを重視するが、未開の国民は不潔さの問題を理解していない。彼らの態度は、まだ知識が発展していない子供と変わらない。しかし、この国の人々も時間とともに進化し、やがて西洋の良い習慣を取り入れることだろう」と。

 洋人は鼻汁を拭うに毎次紙を用いて直ちにこれを投棄し、日本人は紙に代わるに布を用い、したがって洗濯してしたがってまた用うるの風ならば、論者たちまち頓智を運《めぐ》らし、細事を推して経済論の大義に付会して言わん、「資本に乏しき国土においては、人民みずから知らずして節倹の道に従うことあり。日本全国の人民をして鼻紙を用うること西洋人のごとくならしめなば、その国財の幾分を浪費すべきはずなるに、よくその不潔を忍んで布を代用するは、みずから資本の乏しきに迫られて節倹に赴くものと言うべし」と。日本の婦人、その耳に金環を掛け、小腹を束縛して衣裳を飾ることあらば、論者、人身窮理の端を持ち出して顰蹙《ひんしゅく》して言わん、「はなはだしいかな、不開化の人民、理を弁じて天然に従うことを知らざるのみならず、ことさらに肉体を傷つけて耳に荷物を掛け、婦人の体においてもっとも貴要部たる小腹を束《つか》ねて蜂の腰のごとくならしめ、もって妊娠の機を妨げ、分娩の危難を増し、その禍《わざわい》の小なるは一家の不幸を致し、大なるは全国の人口生々の源を害するものなり」と。

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 西洋人は鼻をかむ際、一度使った紙をすぐに捨てるが、日本人はその代わりに布を使用し、それを洗って再利用する習慣がある。ある論者たちは、この点を取り上げて経済の観点から分析し、次のように主張するかもしれない。「資本が少ない国である日本では、人々が無意識に節約の方法を取り入れているのは当然だ。もし日本の人々が西洋のように使い捨てのティッシュを使用するようになれば、国の財産の一部が浪費されるだろう。それに対して、布を使用することは、資本の少なさから自然に節約を選ぶ結果だ」と。また、日本の女性が耳に金のピアスをつけたり、コルセットをしてウエストを細く見せることについて、ある論者たちは身体の健康や理性の観点から批判し、次のように述べるかもしれない。「これは本当に理解しがたい。未開の人々は、自然の摂理に従うことを知らないだけでなく、わざわざ自らの体を傷つける行為をしている。耳に重たいピアスをつけたり、女性の重要な部分であるウエストを締め付けて、妊娠や出産にリスクを持ち込む行為は、最悪の場合、家族の不幸や国の人口の減少という結果をもたらす可能性がある」と。

 西洋人は家の内外に錠を用うること少なく、旅中に人足を雇うて荷物を持たしめ、その行李《こうり》に慥《たし》かなる錠前なきものといえども常に物を盗まるることなく、あるいは大工、左官等のごとき職人に命じて普請を請け負わしむるに、約定書の密なるものを用いずして、後日に至り、その約定につき公事《くじ》訴訟を起こすことまれなれども、日本人は家内の一室ごとに締りを設けて座右《ざゆう》の手箱に至るまでも錠を卸し、普請請負いの約定書等には一字一句を争うて紙に記せども、なおかつ物を盗まれ、あるいは違約等の事につき、裁判所に訴うること多き風ならば、論者また歎息していわん。「ありがたきかな耶蘇《やそ》の聖教、気の毒なるかなパガン外教の人民、日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし、これをかの西洋諸国自由正直の風俗に比すれば万々同日の論にあらず、実に聖教の行なわるる国土こそ道に遺を拾わずと言うべけれ」と。日本人が煙草を咬《か》み、巻煙草を吹かして、西洋人が煙管《きせる》を用うることあらば、「日本人は器械の術に乏しくしていまだ煙管の発明もあらず」と言わん。日本人が靴を用いて西洋人が下駄をはくことあらば、「日本人は足の指の用法を知らず」と言わん。味噌も舶来品ならばかくまでに軽蔑を受くることもなからん。豆腐も洋人のテーブルに上《のぼ》らばいっそうの声価を増さん。鰻《うなぎ》の蒲焼き、茶碗蒸し等に至りては世界第一美味の飛び切りとて評判を得《う》ることなるべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 西洋の人々は、自宅や外出時に鍵を使用することが少ない。彼らは旅行中、人を雇って荷物を持たせても、鍵のない荷物が盗まれることはほとんどない。また、大工や塗装工などの職人を雇って仕事を任せても、詳細な契約書を作成せずに、後でその契約に関して裁判所に訴えることは稀である。しかし、日本では家の各部屋に鍵をかけ、さらに手元の小物入れまで鍵を使用する。建築の契約に関しても、詳細に書かれた契約書があっても、物が盗まれたり、契約違反などのトラブルで裁判所に訴えることが多い。このような日本の状況を、西洋の誠実で自由な文化と比較すると、全く異なるものとして語られることもある。日本人がたばこを吸う一方で、西洋人がパイプを使用することをもって、「日本人はテクノロジーに乏しく、パイプの発明さえしていない」と評されることもある。また、日本人が靴を履くのに対して、西洋人が下駄を使用することを指摘して、「日本人は足の指の使い方を知らない」と主張する者もいる。もし、味噌や豆腐が外国産だったならば、このような軽蔑されることもなかったかもしれない。鰻の蒲焼きや茶碗蒸しなどは、実際には世界中で非常に評価される美味しさを持っているのだから。

 これらの箇条を枚挙すれば際限あることなし。今少しく高尚に進みて宗旨のことに及ばん。四百年前西洋に親鸞《しんらん》上人を生じ、日本にマルチン・ルーザを生じ、上人は西洋に行なわるる仏法を改革して浄土真宗を弘《ひろ》め、ルーザは日本のローマ宗教に敵してプロテスタントの教えを開きたることあらば、論者必ず評して言わん、「宗教の大趣意は衆生済度《しゅじょうさいど》にありて人を殺すにあらず。いやしくもこの趣意を誤ればその余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野に臥《ふ》し、石を枕にし、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至りては全国人民の大半を教化《きょうげ》したり。その教化の広大なることかくのごとしといえども、上人の死後、その門徒なる者、宗教の事につき、あえて他宗の人を殺したることなくまた殺されたることもなきは、もっぱら宗徳をもって人を化したるものと言うべし。

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 このような事例を列挙するのに終わりはない。もう少し高いレベルで、宗教の目的について考えてみよう。もし400年前に西洋が親鸞上人を生み出し、日本がマルチン・ルーザを生み出したと仮定し、親鸞上人が西洋での仏教を改革して浄土真宗を広め、ルーザが日本のカトリック教会に立ち向かい、プロテスタントの教えを始めたとしたら、評論家はこう言うだろう。「宗教の主な目的は人々の救済にあり、人を殺すものではない。この大事な目的を見失うと、残りの部分は取るに足らない。西洋の親鸞上人はこの意味をしっかりと理解しており、厳しい環境での修行や様々な困難に立ち向かい、その地域の宗教を改革し、今日ではその国の多くの人々を啓発している。このような広範な啓発を考えると驚異的だが、親鸞上人の死後、彼の弟子たちは他の宗派の人々を殺したり、殺されたりすることなく、純粋にその教義の徳を通じて人々を導いてきたと言えるだろう。」

 顧みて日本の有様を見れば、ルーザひとたび世に出でてローマの旧教に敵対したりといえども、ローマの宗徒容易にこれに服するにあらず、旧教は虎のごとく新教は狼のごとく、虎狼相闘い食肉流血、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費やし、師《いくさ》を起こし国を滅ぼしたるその禍は、筆もって記すべからず、口もって語るべからず、殺伐なるかな、野蛮の日本人は、衆生済度の教えをもって生霊を塗炭に陥《おとしい》れ、敵を愛するの宗旨によりて無辜《むこ》の同類を屠《ほふ》り、今日に至りてその成跡如何いかんを問えば、ルーザの新教はいまだ日本人民の半ばを化すること能わずと言えり。東西の宗教その趣を異にすることかくのごとし。余輩ここに疑いを容《い》るること日すでに久しといえども、いまだその原因の確かなるものを得ず。竊《ひそか》に按《あん》ずるに日本の耶蘇教も西洋の仏法も、その性質は同一なれども、野蛮の国土に行なわるればおのずから殺伐の気を促し、文明の国に行なわるればおのずから温厚の風を存するによりて然るものか、あるいは東方の耶蘇教と西方の仏法とは、はじめよりその元素を異にするによりて然るものか、あるいは改革の始祖たる日本のルーザと西洋の親鸞上人とその徳義に優劣ありて然るものか、みだりに浅見をもって臆断すべからず。ただ後世博識家の確説を待つのみ」と。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 日本の歴史を振り返ると、ルターがカトリック教会に対抗してプロテスタンティズムを立ち上げたとはいえ、カトリックの信者たちは簡単に彼の教えを受け入れなかった。カトリックは獰猛な虎のように、プロテスタンティズムは凶暴な狼のように、激しい戦いが繰り広げられた。ルターの死後、宗教の名の下に多くの日本人が命を失い、国の財産が浪費され、戦争が勃発し、国が混乱に陥った。これらの悲惨な出来事を書き記すのも、口にするのも憚られるほどだ。さらに、今日までの影響を考えると、ルターの教えは日本の人々の半数を改宗させることができていない。東洋と西洋の宗教は、その核となる教えが異なるようだ。長いことこの疑問を持ち続けているが、まだ明確な答えは見つかっていない。私の考えでは、日本のキリスト教と西洋の仏教は、本質的には同じかもしれない。しかし、野蛮とされる地域では、これらの宗教も暴力的な性格を持ちやすい。一方、文明的な地域では、平和的な性質を持つ可能性がある。東洋のキリスト教と西洋の仏教が元々異なる性質を持っていたのか、それとも日本のルターと西洋の親鸞上人の教えに違いがあったのか、断定は難しい。これについての答えは、将来の研究者に期待するしかない。

 しからばすなわち今の改革者流が日本の旧習を厭《いと》うて西洋の事物を信ずるは、まったく軽信軽疑の譏《そしり》を免るべきものと言うべからず。いわゆる旧を信ずるの信をもって新を信じ、西洋の文明を慕うのあまりに兼ねてその顰蹙朝寝の癖をも学ぶものと言うべし。なおはなはだしきはいまだ新の信ずべきものを探り得ずして早くすでに旧物を放却し、一身あたかも空虚なるがごとくにして安心立命の地位を失い、これがためついには発狂する者あるに至れり。憐れむべきにあらずや〔医師の話を聞くに、近来は神経病および発狂の病人多しという〕

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 それゆえ、現代の改革を求める人々が、日本の伝統を疎んじて西洋の文化や物事を盲目的に信じるのは、完全に安易な信念と疑いを避けられるものとは言えない。伝統を信じる信念を持ちながら、西洋の文明を強く慕い、その中の悪習も学んでしまうのだ。さらに悪いことに、新しいものを信じるべきかを理解せずに急いで伝統的なものを放棄する人々がいる。彼らはまるで何も持たないような状態となり、安定した生活の基盤を失ってしまう。結果として、精神的に不安定となり、狂気に陥る者すら出てくる。それは本当に悲しい事態である。(医者たちによれば、最近は神経系の疾患や精神的な問題を抱える人々が増えているという)。

 西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣《なら》わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若《し》かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈《ばっこ》して良人を窘《くる》しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。
 されば今の日本に行なわるるところの事物は、はたして今のごとくにしてその当を得たるものか、商売会社の法、今のごとくにして可ならんか、政府の体裁、今のごとくにして可ならんか、教育の制、今のごとくにして可ならんか、著書の風、今のごとくにして可ならんか、しかのみならず、現に余輩学問の法も今日の路に従いて可ならんか、これを思えば百疑並び生じてほとんど暗中に物を探るがごとし。この雑沓混乱の最中にいて、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きにあらずや。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 西洋の文明は確かに尊敬に値する。それに憧れ、模倣しようとして毎日努力しているが、単純にそれを信じるのは慎重さを欠く。確かに、彼らの経済的な強さや先進性は羨ましいが、貧富の差や社会的な不平等も目をつむるわけにはいかない。日本の税制は完璧ではないが、イギリスの下層階級が大地主に苦しんでいることを考えると、私たちの農民の生活を感謝しなければならない。西洋の国々での女性の地位向上は素晴らしいことだが、家庭での暴君や不従順な子供たちの振る舞いには心酔できない。

 だから、現在の日本のシステムや状態、商売や会社の法律、政府の構造、教育制度、書籍のトレンド、さらに私たちの学問の方法まで、本当に今のままでいいのだろうかと疑問を持つ。これらすべてを考えると、多くの疑念が浮かび、どこを向いてよいのか迷うような気分になる。この混沌とした状況の中で、東洋と西洋の要素を正確に比較し、何を信じ、何を疑い、何を取り入れ、何を捨てるべきかを明確にするのは容易ではないだろう。

 然りしこうして今この責《せ》めに任ずる者は、他なし、ただ一種わが党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。けだしこれを思うはこれを学ぶに若《し》かず。幾多の書を読み、幾多の事物に接し、虚心平気、活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん。学者勉めざるべからざるなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 現在、この責務を担っている者は、他にはいない。ただ我々のグループに属する学者だけである。学者としての努力は欠かせない。しかし、思考と学びは密接に関係している。多くの書籍を読み、様々な情報や現象に触れる中で、心を開いて真実を追求すれば、信念と疑問は常に変わるものである。昨日信じていたことが今日の疑問となり、今日疑問に思ったことが明日解決することもある。学者としての責任は避けられないものである。

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