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#47「死」という発明~スティーヴン・ケイヴ『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』より~|学校づくりのスパイス

 前回の連載では、私たちの人生の文脈を無視して訪れる「死」の意味について考えました。本連載の50回目となる今回は、『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』(日経BP、2021年)を足がかりに「死」というものの存在が、生きている人と社会に対して果たしてきた役割とその可能性について考えてみたいと思います。

「死」と人類の進歩

 生物が個体の死からできるだけ免れようとするのはごく自然な現象です。叩こうとすれば虫は逃げ、植物は光に向かって伸びます。けれども死を日頃から意識して「不死」を追求しようとするのは人間のみに見られる特徴で、本書はそこに注目します。

 人類は文明の誕生以来不死を追求し続けてきましたが、歴史を通じてこの追求の道は次の四つしかないことが、本書では指摘されています。

 第一に「生き残り」シナリオで、文字どおり肉体を維持して不老不死を追求することです。本書では秦の始皇帝が引かれていますが、始皇帝に限らず、古今東西の権力者は皆不死を追求してきました。現代のアンチエイジング等もその一つと言えるでしょう。

 第二に「蘇り」シナリオです。古くはイエスキリストの復活から、人体冷凍保存技術、脳の情報をすべて記憶装置に移し替えることで永遠に生きようとする「マインドアップローディング」もここに分類されます。

 第三に「霊魂」シナリオで、肉体は滅んでも非物質的な魂が生き続けるという考え方です。現在でも魂の存在を信じる人は魂を否定する人よりも圧倒的に多く、しばしばそれは生まれ変わりというストーリーを生み出します。

 第四に「遺産(レガシー)」シナリオです。私の人生の痕跡が記憶として人の心に生き続けるという願望や、遺伝子を残して子孫に引き継がれるという信念がここに含まれるといいます。

 これらの四つのシナリオは、人類の文明にはかなり普遍的なもので、たとえば古代エジプト神話のなかには、これらすべてのシナリオが編み込まれているといいます。

 そのうえでケイヴ氏は、これら4つのうち、どのアプローチをとろうとも、「私」という意識が肉体の死を乗り越える見込みはないと断じます。

 くわしくは本書に当たってほしいのですが、意識の発生について現在の科学では説明されているわけではないものの、それが肉体から生じる現象であるということ自体はほぼ疑う余地のないことであり、身体が朽ちるときには「私」も終わる、という運命から逃れる見込みはないと結論づけています。

 私達はこれまで目にしてきた他の人々や生き物同様に、「人はいつかは死すべき運命にある」という事実から目を逸らし続けることはできません。

スティーヴン・ケイヴ著、柴田裕之訳『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』日経BP

パラドクスの進化推進力

 一方で、私たちの存在のリアリティは意識の側にあります。生まれてから現在までの自分史を通して、それを見続けてきた「私」という存在は、意識というリアリティのなかではまぎれもない現実であり、「いつの日か自分が存在しなくなることなど、考えられない」(36頁)と感覚的には感じています。

 もちろんそうではないと答える人もいるとは思いますが、では「あなたの完全なコピーを制作したのであなた自身は死んでください」と提案をされたらどうでしょう。この提案を受け入れられる人はまずいないのではないでしょうか。

 この、自分が死ぬということは理解できるけれど自分が存在していない状態は想像できない、という矛盾をケイヴ氏は「死のパラドクス」(31頁)と呼んでいます。このパラドクスのために、死は得体の知れない恐怖として自覚され、人はそこから逃れるためにありとあらゆる努力を傾け、結果的に文明や科学を発達させてきました。

 不死とは「人類に進歩と幻想をもたらした壮大な『幻想』」(328頁)であったと本書では述べられています。

 しかし、もしそうであるとするならば、逆に肉体としての命と意識としての命という、人類に特有の二重の生を創り出し、それによって飛躍的な進歩を創造してきた「生命」とは、実に驚嘆すべき存在であると言えるのではないでしょうか?

 エジプトのファラオや秦の始皇帝から現代のシンギュラリティ論者まで、「生命」というシステムの前では「お釈迦様の手のひらの上の孫悟空」に過ぎなかったことになります。「死とはおそらく生命の唯一無二の発明であるに違いない」(death is very likely thesingle best invention of life)とはアップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏が有名な講演のなかで語った言葉ですが、「死のパラドクス」のおかげで成長してきた(いる)のが社会であり人間です。

死の恩寵

 「個体発生は系統発生を繰り返す」と言いますが、死が人類の歴史を創造してきたのと同様に、死が存在することによって私たち自身の人生にも、固有の意味や張りが生まれていると言えるのではないでしょうか。

 もし私たちに死が存在せず、無限の時間があったなら勉強もする必要はなく、嫌なことは先延ばしし放題ですが、そのようななかで生きることは、はたして幸せでしょうか。ケイヴ氏が指摘するように「未来が永遠に続くことによって生じる無気力」(346頁)を生きる結果になることは想像に難かたくありません。

 上で述べたように不死への挑戦は、ほとんど勝つ見込みのない絶望的な戦いですが、そのときが訪れるまで、そうしたトリックを生み出してきた生命の偉大さを目の当たりにしながら生きていられるというのは、ある意味で幸せなことに違いありません。

 そしていつの日か訪れる敗北のときには、すべてを次に続く人々に明け渡して、自らは無に帰る……。「教育」とは、そのような生命のバトンタッチの営みとして考えることができると思うのですが、いかがでしょうか。

【Tips】
▼ケイヴ氏はTEDにも登場しています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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