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#24 なぜ数値化しないと気がすまないのか?~ ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』より~|学校づくりのスパイス

 今回はジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(みすず書房、2019年)を通して、学校教員を悩ませ続けてきた数値評価について考えてみたいと思います。ミュラー氏はヨーロッパの知性史や資本主義の歴史を研究する歴史学者ですが、医療、警察、軍、ビジネス、慈善事業などのさまざまな領域において、数値測定の圧力が強まった背景と影響について、歴史的な視点も踏まえつつ横断的に迫っているのが、この本の特徴です。

「測定執着」という視点

 「学校が子どもの全人的成長を扱う以上、学校のパフォーマンスや教育成果は簡単に測定などできない」「いや、きちんと成果を数値化して測定しようとしないから学校はいつまでも精神論から抜け出せないのだ」……こうした論争は筆者が大学で学びはじめた頃にはすでに盛んにされていました。そして周知のとおり近年では後者の主張が市民権を得ています。

 ミュラー氏によれば、実はこの議論の起源ははるか昔のビクトリア朝時代のイギリスにさかのぼるといいます。1856年に自由党議員のロバート・ロウが「公教育に対する国家の義務は……最大数に対して最大限な品質の読み書き算数を提供することである」という前提に基づいた計画を策定し、これに対して文化評論家のアーノルドが「知的に読むことのできる能力は狭量であり合わせの読解授業によってではなく、より全般的な育成によってはぐくまれるもの」という反論をしたそうです(30~31頁)。そしてこの議論が今日諸分野で議論されている能力給の起源のひとつでもあるというのです。

 この議論を見ると、論点とは測定に関する論点は、150年以上の時間が経っているにもかかわらず大きく違わないように思います。

 本書の原題は“The Tyranny of Metrics”です。そのまま訳すと「メートル法(数値測定)の暴政」といったところでしょうか? 本書には無理に測定しようとした結果、かえって大きな副作用をもたらしてしまった事例が横断的にあげられています。たとえば、企業では測定可能な目標を事前に設定することで起業家精神が損なわれたこと(62頁)、大学では学術的生産性を測定しようとした結果、つまらない論文が大量発表されることになったこと( 81 頁)、医療現場では測定基準公表制度が導入されて以降、心臓外科医が症状の深刻な患者の手術を忌避する傾向が出たこと(117頁)、警察では犯罪率の低下を演出するために犯罪の深刻度を過小評価する傾向が生じたこと(128頁)等です。

 学校教育の分野ではブッシュ政権下で導入された「落ちこぼれ防止法(NCLB)」を取り上げています。生徒の学術能力調査をもとに学校のパフォーマンスを評価し、段階的に罰則や制裁措置を科していくこの法律は、効果があまり上がらなかったばかりか、長期的な視野が必要な非認知的特性の伸長に関心を払わなくなったり、独創的な教員は私学に流れたりといった副作用を招いたことが指摘されています(92~102頁)。

 もっとも、ミュラー氏は原理主義的な測定反対論者ではありません。多くの場合に数値評価が有効であることも認めています。また先に述べたものも含めて、数値化に伴う副作用についてはこれまで学術的にも指摘されてきました。

 にもかかわらず、数値化しなければならないという信念が社会的に持続・強化されてきたことこそが問題なのです。これを氏は「測定執着」と呼び、そこにはカルト的な要素がある(21頁)ことを指摘します。

ジェリー・Z・ミュラー 『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』みすず書房

説明責任の要請にどう向き合うか?

 ではなぜ昨今の教育現場では「測定執着」が強化されてきてしまったのでしょうか? ミュラー氏は次のように述べています。「信頼が失われるにつれ、測定された説明と透明性への要求が高まっていく。相当な社会的流動性および大きな民族的異種混交が見られる民主的社会と、測定の説明責任との文化との間には選択的親和力がある」(40頁)。

 現代社会では社会的流動性や成員の多様化は疑う余地もなく高まっています。そして信頼が失われるほどに数値測定への依存が強まるということは、われわれの生活実感としても理解できるところなのではないでしょうか。

 ところが一方で、今日強調されている基礎的・汎用的能力といった領域横断的に培われる能力は、数値化することが困難で長期的視野に立って育む必要のある課題です。とすれば、保護者等の学校関係者が数値指標に対して寛容である分だけ、広い視野で教育活動が行いやすくなり、結果的に子どもの成長に貢献できる可能性が高まる、という推論も成り立ちます。

 では教育関係者は、こうした盲目的な数値化圧力にどう向き合っていったらよいのでしょうか。

 数値化は状況を把握して信頼を得るための一つの方法ではありますが、信頼を高める方法は数値を示すことだけではありません。学校の情報発信を活発化させる、組織活動のマイナス面も含めて常日頃から地域や保護者と話し合っておくなど、さまざまな回路を通じて信頼を構築しておけば、相対的に数値評価の圧力は軽減することができるはずです。そしてこうした個人的信頼と寛容の蓄積は、日本の学校の強みといえるのではないでしょうか?

 つまり、学校や教育をとりまくさまざまな状況を多角的に捉えて熟議を重ねていく努力が、地味ではあっても不合理な数値化に対応する手段になるのではないかと筆者は考えます。

 もう一つ、より本質的な問題提起をしておきたいと思います。もし仮に、副作用なく人間の成長を数値化して可視化することが可能であるならば、本当にすべて数値化したほうがいいのでしょうか?

 この問題に対してミュラー氏も「自分の考えていることが額にでかでかと書かれていて、見る者すべてに丸見えだったとしたら、内面と外面の境は消え失せ、それとともに個体性も喪失する」という哲学者モシュの指摘を敷衍し、私たちの社会や組織がうまく機能するためには一定の「不透明性」を確保する必要があると述べています(162~163頁)。教育基本法が教育の目的として掲げている「人格の完成」が、数値で測られて可視化される社会のことを想像してみてください。

 また機会をみて紹介してみたいと思いますが、この個体同士が相互に見えない性質――「不透明性」は人間の集合的知性にとっては不可欠であり、これがAIの知との本質的な違いではないかとする考え方もあります。

 人間(社会)における知の「透明性」の是非に関する議論はまだ緒に就いたばかりです。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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