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#21 リーダーシップの陥穽~鷲田清一『しんがりの思想』より~|学校づくりのスパイス

 学校のリーダー養成が強調されています。チーム学校、社会に開かれた教育課程、コミュニティ・スクール等々、今日の学校の抱える課題は、教員個人の力量だけでは手に負えないことは明白です。そして学校が組織として機能するためには、学校管理職等がリーダーシップを発揮しマネジメント体制を強化していくことが必要である、というわけです。

 さて、リーダーの重要性は言うまでもありませんが、それだけでただちに学校がよくなるというものでもありません。児童・生徒と直接関係するのが個々の教員である以上、結局は彼らがその気にならなければ教育の改善は期待できないからです。校長ががんばるほどに教員は醒めて管理職任せになっていくということもあり得ます。

 このリーダーとフォロワーのジレンマ解決の糸口はどこに見出せるのでしょうか? 今回は哲学者である鷲田清一氏の『しんがりの思想――反リーダーシップ論』(KADOKAWA、2015年)からそのヒントを探ってみたいと思います。

「どうすればいいか教えてください」

 筆者がスクールリーダー対象の研修等をする際に、一番閉口するのが「どうすればいいか教えてください」という要望です。個々の学校で何をすべきかについては、そこに身を置く当事者が一番正確に判断できるはずで、それを考えることこそがリーダーの仕事であると筆者は考えているからです。

 主体的な子どもを育てなければならないはずの教員のリーダーが、指示待ち体質になってしまっているとしたら、それは日本の教育にとって由々しき事態ですが、鷲田氏はこのように依存体質が社会的に生産されてきた背景を次のように説明します。「高度成長期から高度消費社会への移行のなかで、それら日常生活で必ずこなさなければならないことが、行政の公共サービスや企業によるサービス業務にとって代わられるようになった。みずからの体で憶え、果たすのではなく、サービスを選ぶのがわたしたちのいとなみとなった。金はかかるが“楽になった”のである。そしてちょうどそのぶん、私たちは無能力になっていった。世代から世代へ《いのちの世話》の知恵とわざを伝える義務を免除されてきたその代価として、私たちは《いのちの世話》を自らの手で行う能力を失った」(64~65頁)。

 この鷲田氏の指摘は、今日の学校にこそぴたりと当てはまるのではないでしょうか。戦後の半世紀以上にわたって学校が機能を一途に拡大してきた結果、子どもの教育をもっぱら学校に頼る構図が社会的に形成され、学校負担が増大し続けた結果として学校だけでは手に負えないところまで来てしまいました。

 そしてこの指摘のあとには次の一節が続きます。「では、トラブルが起こったとき、サービスが劣化したとき私たちにできることは何か。皮肉にも行政やサービス企業の担当者にクレームをつけることだけなのである」(65頁)。

 近年保護者や地域からの風当たりに苦労している学校も増えていますが、問題の本質は学校のサービスの不備・不足ということ以前に、学校に過剰なまでに依存する体質が社会全体に浸透してしまっている、というところにあるのかもしれません。

しんがり

鷲田 清一『しんがりの思想 反リーダーシップ論』KADOKAWA/角川新書

フォロワーシップの視点

 教育の機能不全の背景にこのような社会全体の「責任意識の喪失」という問題があるとすると、そこでリーダーシップを強調するだけでは解決にならないことは明らかです。鷲田氏が焦点化しているのは、次のようにリーダーシップよりもむしろフォロワーシップの問題です。

 「ふだんはリーダーに推されたひとの足を引っ張ることなく、よほどのことがないかぎり従順に行動するが、場合によってはすぐに主役の交代もできる、そういう可塑性(しなり)のある集団であろう。リーダーに、そしてシステムに全部をあずけず、しかし全部を自分が丸ごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いのできるところで責任を負う、そんな伸縮自在のかかわり方――『上意下達』『指示待ち』の対極である――で維持されてゆく集団であろう」(147~148頁)。 

 氏はこのように集団を後ろから見守る機能を表題の「しんがり」に例えていますが、現在の学校でリーダーシップを強調しなければならないのは、フォロワーシップが弱体化していることの裏返しである、という逆説も成り立ちます。社会は学校に、教員は管理職に、そして管理職は教育委員会にと、リーダーシップを依存する体質のなかで、社会全体が公教育のビジョンを喪失し、フォロワーとしての責務が後回しにされる状態がつくられてきてしまいました。 

 けれども一度できあがってしまった依存体質を元の状態に戻すのは、簡単ではないでしょう。現在の学校の状態を踏まえるとき、一体どこからアプローチしたら、鷲田氏の指摘する「可塑性のある集団」が公教育の舞台で実現できるのでしょうか? 

 実行するにはたくさんの障害を乗り越えなければならないことを承知で、あえて筆者の考えを述べますが、多様な人々が公教育に責任をもって参画することができるようにしていくためには、やはり教員も含めた教育関係者の雇用や報酬の仕組みに手を加えるよりほかに、有効な手立ては少ないように思います。 

 現在の学校では教員が専門職として授業を中心とする教育活動の中核を担う一方で、それ以外の参画者は無償か、きわめて低い報酬で協力するシステムになっています。これでは教員以外のスタッフやボランティはが、リスクと責任を伴う教育活動を実質的に担保するのには無理があります。

 しかし本当に社会総がかりで公教育を担う体制を実現しようとするなら、教員の人件費に極端に集中している現在の公教育に対する資源配分を、参画・責任の度合いとより整合したかたちへと分散していくのが筋であり、それによって教員も過負担から解放されて創造的に仕事ができるようになるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

【Tips】
▼鷲田氏はさまざまな今日的話題に積極的に発信されています。
(下の画像をクリックすると、YouTube「鷲田清一とともに考える(1) 物語る/できごとを伝えていく」が見られます)

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。


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