#76 それでも、打って出よう|学校づくりのスパイス(武井敦史)
今回取り上げるのは投資に関する本、チャールズ・エリス氏の『敗者のゲーム』(日本経済新聞出版、2022年)です。今年から新NISAがスタートし、株式投資が加熱していたところに、日本の株価が史上最大の暴落を記録し、その後も株価の乱高下が続きました。本書はこうした気まぐれな市場に対する対応の指針をデータに基づいて提示するとともに、私たち個人が市場にどう向き合うかについても示唆に富む一冊です。
「敗者のゲーム」と「勝者のゲーム」
タイトルにある「敗者のゲーム」とは、プロのテニスとアマチュアのテニスとが全く異なるゲームであるというエピソードに由来するものです。
本書ではプロのテニスではポイントの80%が自ら勝ち取ったものであったのに対し、アマチュアのテニスでは逆にポイントの80%が敵失によるものであったという研究成果が紹介され(17〜18頁)、今日の投資環境ではアマチュアのテニス同様に、勝とうとすることではなく「失敗しないこと」こそが投資の成否を分ける、と述べられています。
このように考えるのは、今日のファンドマネージャーはきわめて優秀であり、投資の手立てはすでに分析されつくしているためであるとエリス氏はいいます。
そしてそうした優秀なファンドマネージャーをもってしても、「長期的にみて、全体の90%のアクティブ・マネージャーは市場平均に勝てず、どのマネージャーがトップ10%に属するかを事前に見つけるのは、ほとんど不可能だ」(69頁)というのです。ましてや「個人がプロに勝とうとするなんて、100年早い」(57頁)とエリス氏は喝破します。
ではどうしたらいいのでしょうか……? 本書が推奨するのは、リスクを許容できる範囲内で市場平均に連動するインデックスファンドに投資する、というきわめてシンプルな解決策です。今日の投資の世界では、市場を出し抜こうとなどせず、手数料が安く、リスクが分散され、長期的に高いリターンが期待できる「平均への投資」こそが、投資判断としてもっとも合理的である、というのです。
本書にあげられている「個人投資家の十戒」の一つに次のような言葉があります。
「うまくいって有頂天の時は、大火傷がまっていると思った方がよい。落ち込んだ時は、夜明け前が一番暗いことを思い出そう。そして何もしないことだ。運用に売買は不要。売買はしなければしないほどよい」(179頁)。
「敗者のゲーム」化する学校
学校教育の目的や課題を考える場合に、それが本書でいうところの「勝者のゲーム」であるか「敗者のゲーム」であるか、という視点で検討されたことは、これまでの日本では(学術研究も含めて)ほとんどなかったように思います。しかし、この視点は実は相当有効に活用できる切り口なのではないか、と本書を読んで筆者は思いました。
たとえば、今日注目されているプロジェクトベースの学びや「探究」「エージェンシー」の概念などは「勝者のゲーム」としての側面が強いでしょう。そこでは、失敗をくり返しながらも、新たな価値を創造しうる想像力や創造性を発揮していくことが期待されます。
一方で防災訓練や安全教育、学校保健、暗記に重点の置かれた学習などは「敗者のゲーム」としての性格が強いでしょう。これらの学びにおいては特別なアイデアや独創性はそれほど強調されない一方で、ちょっとしたミスが命取りになることもあります。
過去も現在も、そしてこれからも、両者の視点が必要なことは間違いないのですが、今後の社会における教育のニーズ、という視点からするならば、より強調されるのが「勝者のゲーム」の視点であることは、さまざまな調査やレポート、答申等を見ても明らかです。そして今後、AIによる定型化された業務のサポートが進めば、その傾向はさらにはっきりとしていくはずです。
一方で、学校の制度環境、とりわけ学校管理職や教育行政関係者を取り巻く状況はまったくその逆です。「成功することよりもミスをしないこと」が重要となるような環境変化を「敗者のゲーム化」と呼ぶならば、それこそが今日の学校環境で進行しつある変化を特徴づけるキーワードの一つなのではないかと筆者は感じています。
一大決心をしてリーダーシップを発揮し、大きな改革を成し遂げても、その努力が個人的に報われることは少ない一方、そこに潜んでいる落とし穴に気づかなかったり、課題対応が後手に回ったりすれば組織活動に大きな支障となり、自身のキャリアにも影響します。
教育の目的として求められるものが「勝者のゲーム」であっても、学校関係者の職業環境が「敗者のゲーム」化しつつあるとすれば、平均的な判断・行動に徹し、そこからブレないようにすることは学校教員や管理職としてある意味合理的です。
そして実際、そのような基準で物事を判断・行動をする教員や指導主事、管理職の割合は学校種によらず増加しているように思います。
けれども筆者は、自分の指導する学生にも、また研修会などでも改革に乗り出すように呼びかけていますし、自分自身でも打って出ようと考えています。そうした姿勢こそがこれからの混沌の時代を生きていく子どもにとっても必要であり、何より「ミスをしないこと」ばかりを気にかけて仕事をしても、そこに喜びはないと考えるからです。
人類学者のクリフォード・ギアーツは、バリ島の闘鶏を観察し、そこで賭けられるものがあまりにも大きく、それにかかわるのは非合理的であるような遊びに現地の人々が熱狂する様子を分析して、これを「深い遊び(DeepPlay)」と呼びました。
人は非合理的な生き物です。「深い遊び」……皆さんもご一緒にいかがですか?
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)