京都の修学旅行【テーマ別】グループ学習 コース作り 資料集
京都に関係する自然を、史実とともに紹介します。
京都を中心にした人物に関する地歴ポイントを紹介しています。全国の関連する史跡も掲載しています。
平安京では、先住の渡来人や大陸から入ってきた習わしに、天変地異や疫病を鎮める工夫が重ねられ、都と国を護るためさまざまなマツリが行われました。現在でも年間を通し粛々と行われています。
京都の修学旅行のコース作りに役立つ地歴情報をテーマ別にしました。 【テーマ】登場人物京都の地歴は朝廷を中心に蓄積していきました。変革期に在位した天皇や、周辺の文官・武官・僧などの活動を観ると、京都という空間を存続させるためにどうバランスを取ろうとしたか、試行錯誤の様子がわかります。 その上で土地を主人公にして観て歩くと、カテゴリごとに歴史が形作られたのでなく、様々な要素がからみあっていたことが実感できます。また、都と関連する各地の史跡も掲載していますので、地元の地歴も意
❶京都盆地の北西に位置する衣笠山衣笠山は京都盆地の北西に位置する、南から見るときれいな放物線状の山容を持つ標高201mの低山です。 西の桂川に向かってなだらかで同じような形の200m級の山々が続き、そのすぐ後ろに500m級の山々が二重に聳え、その奥に険しい800m級の北山・丹波高地の山並みが見え隠れします。 この低山の地質はチャート岩という堆積岩で、海底において放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が堆積してできた固い層状の岩です。それがプレートに乗って地表に現
小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。 小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学
藤原 穏子が42歳で生んだ第60代 醍醐天皇の第十四皇子で、兄の第61代 朱雀天皇とは3歳違いだった。兄弟とも聖宝の安産祈願を受けて生誕した。兄は病弱だったため母の勧めで17年で退位し、弟の村上天皇が21歳で即位した。 朱雀天皇の代に起きた承平天慶の乱への対応で朝廷の財政がひっ迫したため倹約政治が行われた。それまで律令制度に戻そうとさまざまな施策がされたが、村上天皇の治世頃には土地や税の制度が破綻し、戻せなくなっていった。一方、和歌や音楽などが振興された。 960年、平安
❶「音」だけだった日本の言葉古来日本の言葉に文字はなく、音だけが存在しました。すべての音は母音が5つで子音が10のほぼ完全なマトリックス(縦横の表)で示すことができ、表現に必要な約50の最小限な音になっています。もともとの言葉は1音や2音、3音の短いものが主流で、類似する要素や意味合いを持つものが同じ音で表現されました(例:ワ(輪・和)、ヒ(日・火)、ウミ(海・生み)など)(※諸説あり)。 漢字が入ってきた当初は、本来の漢字の意味に関係なく言葉の音に合った字(当て字)が使
❶出生朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子で、中宮の藤原 穏子が39歳で生んだ。朱雀天皇と村上天皇は、醍醐山を開山した聖宝によって安産祈願された。年の離れた兄と皇太子に立てられていたその皇子が早世し、醍醐天皇が崩御したため、わずか8歳で即位することとなった。藤原 忠平が摂関として政治を取り仕切った。 ❷時代の変わり目と天災第50代 桓武天皇の子孫が臣籍降下して平氏を名乗り、関東に根付いた一族である平将門が935年から5年間、身内の争いから始まり、新しい国王を名乗るまでの反乱が起
❶臣籍から復帰臣籍降下していた源 定省(後の宇多天皇)の長男・源 維城として生まれる。父の即位とともに皇籍に復帰した。 ❷突然の即位897年 藤原氏の要職の専横を抑えたいという理由などから、宇多天皇が突然退位し第60代 醍醐天皇として即位。父の希望通り、藤原 時平と菅原 道真を左右大臣にまつりごとを開始する。 律令制に戻そうと荘園整理令を発布したり、試みを次々と打ち出した。ただ、政治システムが律令制に完全に戻ることはなかった。 この頃より平仮名が広まり、初めての勅撰和
❶即位までの経緯第55代 文徳天皇-第56代 清和天皇-第57代 陽成天皇と続いたが、陽成天皇の母・藤原高子と兄で摂政・藤原基経の不仲などから、陽成天皇は退位させられ、第58代 光孝天皇が即位した。光孝天皇は自分の譲位後の皇統は陽成天皇の子孫に戻ると予測して、自身は一代の天皇であるという表明で子供達を臣籍降下させた。 しかし光孝天皇が崩御まぢかになった際、藤原基経らは光孝天皇の第7皇子の源 定省(みなもとのさだみ)を推挙。20歳の定省は出家を願っていたところ急遽皇族に復帰
聖宝(理源大師)はもともとの名を恒蔭王(つねかげおう)と言い、讃岐国(現 香川県)の塩飽諸島本島で出生したとの伝承がある。第38代 天智天皇の子で吉野の盟約に参加した志貴皇子の子、第49代 光仁天皇の玄孫と伝わる。 16歳で京の貞観寺(現在の京都市伏見区深草にあった)で空海の実弟・真雅のもとで出家した。東大寺など南都(奈良)で円宗・三論宗・法相宗・華厳宗を学び、真雅から密教を学び、大峰に入って山岳宗教を学んだ。 44歳の時に、貞観寺から見える醍醐山に庵を建立する(上醍醐)
❶一代限りの天皇として即位花園天皇の時代には、天皇を譲位した上皇、または上皇になって出家した法王がまつりごとを行う”院政”が慣例となっていた。さらに、先々代から持明院統と大覚寺統の2つの系統が交互に天皇となるようになり、大覚寺統の第94代後二条天皇の急死を受けて、兄と兄の皇子の間を繋ぐ一代限りの天皇(自分の皇子を天皇にしない・自分が院政をしかない)として花園天皇は12歳で即位した。 ❷学問を修めた背景24歳で後醍醐天皇に譲位するまで、5年間は父の伏見上皇が、後半の5年間は
❶光厳天皇の生まれた時代光厳天皇は、鎌倉幕府滅亡の20年前の1313年に生まれた。両統迭立になってから40年、持明院統を継ぐ者として帝となるべく育てられ、特に叔父の第95代 花園天皇から、厳しくも手厚い教育を受けた。 ❷1333年5月9日 20歳での壮絶な体験叔父の花園天皇は大覚寺統の第94代後二条天皇が早くに亡くなり天皇となった(実際の政は院政により上皇が執り行った)。花園天皇が譲位した第96代後醍醐天皇は12年天皇の座にあったが、譲位するのを渋り、1331年三種の神器
愛宕山は、南面の急な傾斜と山頂のコブが特徴的な山です。背後に亀岡市があり、山裾には桂川が流れます。愛宕山から雲が湧き都の天候が急変する事象や、都と外との境界にあることなどから、様々な史実と結びつけられてきました。 930年の清涼殿落雷事件での雷雲の発生や、1156年の保元の乱で讃岐国に配流となった第75代崇徳天皇が亡くなった後の舞台とされたり、法然と親鸞が1207年の承元の法難で配流される前に九条兼実と会ったという言い伝え、1582年の本能寺の変では亀山城を出陣した明智光秀
❶比叡山の西麓に生まれる生源寺(滋賀県大津市坂本) 誕生した三津氏の館に、最澄が自ら建立した寺。最澄は14歳で近江国分寺で得度して、奈良の東大寺戒壇院で受戒し僧になった。 ❷比叡山を拠点にする延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) 最澄は20歳で比叡山に草庵を結び、一乗止観院と名付けた。遣唐使で渡った唐から帰国した後も、第50代 桓武天皇の許可を得て比叡山を拠点に、唐から持ち帰った天台宗を広める活動をした。亡くなった後に、開創した時の年号をとって延暦寺とされた。 ❸4か所目の戒壇
567年(第29代 欽明天皇の時代)国内で風水被害と飢饉が起こり、占いの結果、賀茂大神の祟りとされた。勅命(天皇の命令)で盛大に祭礼を行ったところ収まり豊穣になったことから、朝廷の祭祀に準じた祭として催行されるようになった。 ❶葵の葉❷賀茂競馬(5/5)上賀茂神社(賀茂別雷神社:京都市北区上賀茂本山) 宮中で行われていた競馬会が上賀茂神社で毎年5月5日に行われる(かもくらべうま)。現在では葵祭の前儀のひとつとなっている。 ❸御蔭祭(5/12)御蔭神社(京都市左京区上高野東
菅原氏は大王の喪葬儀礼に従事した土師氏一族であったが、住んでいた地にちなみ改名した。道真の3代前から中国史を中心とした学者の家系となり、「菅家廊下」という私塾を運営。菅原 道真は藤原家の勢力に対抗する第59代 宇多天皇の信任を受け、多くの官職を歴任した。第60代 醍醐天皇の代では右大臣を務めるが、昌泰の変で大宰府外帥に降格され、2年後の903年、大宰府で亡くなった。連座して子息や関連の文官が処罰を受けた。 ❶住んでいた場所菅原院天満宮神社(京都市上京区堀松町) 菅原 道真
朝堂院の正門・応天門が放火され、藤原良房は第56代清和天皇に奏上し、伴善男に犯人とされた源信を擁護する。その後、密告から伴善男親子が逮捕され、伴氏・紀氏らが流罪となった。官職に携わってきた伴氏・紀氏が排斥され、藤原北家に権力が集中するきっかけとなった。 ❶再現された応天門(京都市左京区岡崎西天王町) 平安遷都1100年で創建された平安神宮に、8分の5の大きさで復元された応天門がある。 ❷平安宮朝堂院跡(京都市中京区聚楽廻東町) 応天門は平安京平安宮朝堂院の南門。現在の千本