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802-853年(従三位・参議)
父:小野岑守(参議)
妻:藤原三守(右大臣)の娘
孫(伝):小野 小町・小野 道風

小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。

小野神社(滋賀県大津市小野)
応神天皇に餅を献上した米餅搗大使主命を祀る
和珥(和邇)の地名も見える

小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学問に向かい20歳頃大学寮に合格した。学生時代に後の右大臣・藤原 三守に漢詩を送り、その娘を妻とした。

父と篁が守となった陸奥国府 多賀城政庁跡(宮城県多賀城市市川城前)

遣唐副使として3度目の航海(いずれも渡唐には至らず)で遣唐大使のやり方に反発して乗船を拒否し、朝廷を批判する漢詩を詠んだことで嵯峨上皇に流罪にされる(百人一首の小野 篁の歌はこの時に詠んだもの)。

2年後に許されて帰京し、参議まで勤めた。昼間は役人、夜は冥府の裁判官を司ったという伝説があり、京都の風葬地だった場所にゆかりの寺院がある。

六道珍皇寺(京都市東山区小松町)
境内に冥府への入り口として篁が使用したと伝わる井戸がある
小野篁開基と伝わる千本ゑんま堂(引接寺)(京都市上京区閻魔前町)
平安宮の北側の千本通りは葬送の地だった
ここに精霊迎え・送りを伝えて寺院を建てたと伝わる
小野篁卿墓・紫式部墓所(京都市北区紫野西御所田町)
雲林院跡地に地獄に堕ちたと云われた紫式部とそれを助けると云う篁の墓が並ぶ
清涼寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)
篁が使ったという井戸のあった廃寺が合祀されている

関東の八王子を拠点とした武蔵七党の横山党は、小野篁の子孫とされる。その他全国に伝承がある。

崇道神社(京都市左京区上高野)
小野神社が合祀され、山腹に小野妹子の息子・毛人の墓がある
比叡山を挟んで大津市小野の反対側に位置する

『京都遠足』P18・35
https://www.worec.jp/03kyoto.html