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登場人物

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京都を中心にした人物に関する地歴ポイントを紹介しています。全国の関連する史跡も掲載しています。
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記事一覧

第95代 花園天皇

❶一代限りの天皇として即位花園天皇の時代には、天皇を譲位した上皇、または上皇になって出家した法王がまつりごとを行う”院政”が慣例となっていた。さらに、先々代から持明院統と大覚寺統の2つの系統が交互に天皇となるようになり、大覚寺統の第94代後二条天皇の急死を受けて、兄と兄の皇子の間を繋ぐ一代限りの天皇(自分の皇子を天皇にしない・自分が院政をしかない)として花園天皇は12歳で即位した。 ❷学問を修めた背景24歳で後醍醐天皇に譲位するまで、5年間は父の伏見上皇が、後半の5年間は

北朝初代 光厳天皇

❶光厳天皇の生まれた時代光厳天皇は、鎌倉幕府滅亡の20年前の1313年に生まれた。両統迭立になってから40年、持明院統を継ぐ者として帝となるべく育てられ、特に叔父の第95代 花園天皇から、厳しくも手厚い教育を受けた。 ❷1333年5月9日 20歳での壮絶な体験叔父の花園天皇は大覚寺統の第94代後二条天皇が早くに亡くなり天皇となった(実際の政は院政により上皇が執り行った)。花園天皇が譲位した第96代後醍醐天皇は12年天皇の座にあったが、譲位するのを渋り、1331年三種の神器

最澄

❶比叡山の西麓に生まれる生源寺(滋賀県大津市坂本) 誕生した三津氏の館に、最澄が自ら建立した寺。最澄は14歳で近江国分寺で得度して、奈良の東大寺戒壇院で受戒し僧になった。 ❷比叡山を拠点にする延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) 最澄は20歳で比叡山に草庵を結び、一乗止観院と名付けた。遣唐使で渡った唐から帰国した後も、第50代 桓武天皇の許可を得て比叡山を拠点に、唐から持ち帰った天台宗を広める活動をした。亡くなった後に、開創した時の年号をとって延暦寺とされた。 ❸4か所目の戒壇

菅原 道真

第59代 宇多天皇・第60代 醍醐天皇の代に文官を務めた。右大臣を務めるが、昌泰の変で大宰府外帥に降格され、九州で亡くなった。同時に菅原一門も流罪とされ、古代から官職にあった菅原氏は、鎌倉時代まで中心的な官職には就くことがなかった。 ❶住んでいた場所菅原院天満宮神社(京都市上京区堀松町) 菅原道真の曾祖父から4代にわたって住んだと伝わる邸宅跡。 ❷ 清涼殿落雷事件後に祀られた北野天満宮(京都市上京区御前通今出川上る馬喰町) ❸醍醐寺の隣にある菅公衣装塚醍醐山を開いた理源

坂上 田村麻呂

坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えた。第50代 桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられて陸奥鎮守府に赴き、蝦夷の首長・阿弖流為を連れ帰京した。 ❶ 田村麻呂の氏寺、清水寺にある阿弖流為の碑(京都市東山区清水) ❷ 山科の墓所(京都市山科区勧修寺東栗栖野町) 平安京を守るように立ったまま東を向いて埋葬されたと伝わる。 【全国の史跡】 ❶ 鎮守府兼陸奥国府 多賀城政庁跡 (宮城県多賀城市市川城前) 724年築城。 ❷ 伝 阿弖流為・母禮の塚 (大阪府枚方市牧野阪) 片埜神社隣

空海

空海は讃岐国から都に出て、おじの元で勉強し官僚になるため大学に入るが、中途で辞め私度僧になる。東大寺戒壇院で得度し、遣唐使となった。 ❶ 唐から帰国し逗留した神護寺(京都市右京区梅ヶ畑高雄町) 809年、京に入ることを許された空海は和気氏の氏寺・高雄山寺に逗留した。第52代 嵯峨天皇との距離も近く、交流が始まる。先にここで講義をした最澄とのやりとりの舞台ともなった。824年に寺名を高雄山寺から神護寺に改める。 ❷ 乙訓寺の別当を命じられる(京都府長岡京市今里) 811年、

和気 清麻呂

武官だった和気清麻呂は、769年道鏡が皇位に就こうとした際、否定する信託を宇佐神宮から持ち帰り、流罪となった。道鏡失脚後に呼び戻され、光仁天皇・桓武天皇に仕え長岡京・平安京の造営などに携わった。 ❶ 氏寺の神護寺と墓所神護寺(京都市右京区梅ヶ畑高雄町) 和気清麻呂は781年、河内国(推定)に神護寺を建立。清麻呂は京都の愛宕神社を中興する際、愛宕五坊として現在の神護寺の場所に高雄山寺を建立した。亡くなると高雄山中に埋葬され、824年に高雄山寺を神護寺とし、和気氏の菩提寺とな

秦 河勝

秦氏は4世紀頃に秦国から百済を経由して日本に渡り帰化した弓月君を中心とする氏族。養蚕や土木技術などに秀で、秦酒公は第21代 織絹雄略天皇に禹都萬佐(うつまさ=太秦)の姓を賜った。 秦河勝は聖徳太子に仕え、四天王寺の建立や悲田院などの慈善事業に携わったと伝わる。丁未の乱では物部守屋との戦いに寄与し、聖徳太子に随行して山城国(京都)に拠点を築いた。 ❶ 本拠地・太秦広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町) 603年または622年、秦河勝創建の秦氏の氏寺。本尊は聖徳太子。 木嶋坐天照

第55代 文徳天皇

文徳天皇は 842年 伴氏・橘氏が排斥された『承和の変』の後に、藤原良房に推され天皇となった。良房の娘・明子との皇子は、3人の兄達を退け第56代 清和天皇となる。文徳天皇は祖父・藤原冬嗣の願った藤原北家の興隆に立ち会うこととなった。 ❶ 大原野神社(京都市西京区大原野南春日町) 850年、文徳天皇は祖父・藤原冬嗣の願いを思い、藤原氏のため大原野神社に壮麗な社殿を造営した。大原野神社は750年創建で、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である

第56代 清和天皇

清和天皇は9歳で即位し、祖父・藤原 良房が摂政として政務を行った。876年、第1皇子である9歳の第57代 陽成天皇に譲位した後、27歳で出家し畿内の寺院を托鉢巡行した。愛宕山麓の水尾で苦行をして隠遁地とするが、寺院建立中に粟田の円覚寺で病のため崩御した。 ❶生誕地宗像神社(京都市上京区京都御苑) 現在の京都御苑内にある。曾祖父・藤原 冬嗣の頃より藤原氏の邸宅だった。 ❷御霊会を開催神泉苑(京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町) 858年に京都で洪水があり、862年には干

第50代 桓武天皇

❶平安京 大極殿遺跡碑(京都市中京区聚楽廻東町) ❷平安神宮(京都市左京区岡崎西天王町) 1895年、内国勧業博覧会開催に際し、平安遷都1100年を記念して桓武天皇を御祭神に創建。大内裏の朝堂院や応天門が、8分の5の大きさで復元された。 ❸桓武天皇 柏原陵(京都市伏見区桃山町永井久太郎) 桓武天皇は 775年 父・光仁天皇の後継者問題を経て781年皇位に就く。784年長岡京へ遷都するが、藤原種継暗殺事件で和気清麻呂らの提言で 794年 平安京に遷都。蝦夷征討では坂上田村

早良親王(祟道天皇)

早良親王は第50代 桓武天皇の弟。781年に皇太子となったが、長岡京造営の際、藤原種継暗殺に連座したという疑いを受け幽閉された。淡路国に配流の途中49歳で薨去。後に『御霊』という考えのもととなった。 ❶幽閉場所乙訓寺(京都府長岡京市今里) 早良親王は長岡京のそばの乙訓寺に幽閉され、無実を訴えて絶食したと伝わる。 811年 第52代 嵯峨天皇により別当に空海が任じられ、乙訓寺に逗留した。 ❷薨去の場所高瀬神社(大阪府守口市馬場町) 淡路島に配流される途中、この辺りで亡くな

第52代 嵯峨天皇

❶離宮 大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町) 嵯峨天皇と皇后の離宮。親交の深かった空海が持仏堂として五大明王を安置し五覚院を建立。のちに第91代 後宇多法王がここで院政を行い、両統迭立の際には「大覚寺統」の拠点となった。 ❷仙洞御所 清凉寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町) 嵯峨天皇の仙洞御所(上皇になってからの御所)が前身。第12皇子の源融が賜り別荘とした。その後、華厳宗として開山し、天台宗・真言宗から念仏宗となり、現在浄土宗。御陵に埋葬される前の嵯峨天皇・皇后(橘嘉智子)の

藤原 冬嗣

❶屋敷跡宗像神社(京都市上京区京都御苑) 冬嗣が父・内麻呂より与えられた東京一条第と呼ばれる邸宅に、795年桓武天皇の許しを得て平安京鎮護のため福岡県の宗像神社から勧請した。850年に曾孫の清和天皇が生誕した場所でもある。現在の京都御苑内にある。 ❷藤原北家の興隆祈願興福寺 南円堂(奈良市登大路町) 藤原氏の氏寺である興福寺に、813年父・内麻呂の追善のために創建。独特な八角堂は空海によって進言・設計され鎮壇法が修された。これにより冬嗣が内麻呂の後継とみなされるようになった