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1297-1348年[在位 1308-1318年]
父:第92代 伏見天皇
母:洞院 季子(西園寺 公経の孫)
兄:第93代 後伏見天皇
妻子:正親町 実子-寿子内親王(光厳天皇後宮)
                      -直仁親王(崇光天皇皇太子)  他


❶一代限りの天皇として即位

花園天皇の時代には、天皇を譲位した上皇、または上皇になって出家した法王がまつりごとを行う”院政”が慣例となっていた。さらに、先々代から持明院統と大覚寺統の2つの系統が交互に天皇となるようになり、大覚寺統の第94代後二条天皇の急死を受けて、兄と兄の皇子の間を繋ぐ一代限りの天皇(自分の皇子を天皇にしない・自分が院政をしかない)として花園天皇は12歳で即位した。

第77代~第103代までの天皇系図

❷学問を修めた背景

24歳で後醍醐天皇に譲位するまで、5年間は父の伏見上皇が、後半の5年間は兄の後伏見上皇が院政をしいた。花園の天皇としての仕事は、主に祭事にあたることであった。花園天皇は体は決して強くなかったが、祭事の合間に進んで多くの学問を修めた。

持明院統では、皇族や仕える公卿が日記を記し後世にまつりごとの詳細を伝える教育方法が採られていた。花園天皇自身も日記を記し、多くの先人の日記を読んだ。宋学を深く学び、またあらゆる宗派の僧を呼んで仏教の教学を聞き伝法を受けた。

❸光厳天皇の教育係として

1318年父の伏見法皇の崩御から、次の大覚寺統の皇太子であった8歳年上の後醍醐天皇に譲位した。その後、花園上皇は持明院統の皇太子である兄の皇子・15歳年下の量仁親王(後の光厳天皇)の教育係となり、学問を中心に手厚く厳しく教えた。近い将来、鎌倉幕府の動向や皇族の状態などから大乱が起こるという予測が背景にあり、量仁親王に贈った『誡太子書』は、時代と価値の変革が続く中で帝が何に依ってバランスをとるかを記した文章で、現代まで読み継がれている。

大覚寺統の後醍醐天皇も一代限りの天皇であったが、自分の皇子に譲位して院政をしくことがかなわないことに不満を抱き、1333年元弘の乱を起こす。その際、六波羅探題の北条仲時は、後伏見上皇・花園上皇・光厳天皇を連れて鎌倉へ逃げようとしたが、番場宿の蓮華寺で行く手を阻まれる。3人は仲時以下432名が目前の本堂前で自刃する現場に直面した。

北条仲時公 従士四百三十余名の墓(滋賀県米原市番場 蓮華寺)

後醍醐天皇の建武の新政は3年で頓挫し、光厳上皇の院政の時代となった。光厳上皇は善政に邁進し、花園天皇の教育に応えた。

❹妙心寺開基

1335年出家した花園法王は、仏教(禅宗)を広める場所を作りたいと1342年住んでいた離宮を妙心寺とした。1348年11月、ここで崩御。光厳上皇はすぐに駆け付け5か月間喪に服した。妙心寺は現在、臨済宗妙心寺派の大本山となっている。

妙心寺 玉鳳院(京都市右京区花園妙心寺町)
花園天皇 十樂院上陵(京都市東山区粟田口三条坊町)

花園上皇は、仕えていた日野資朝が大覚寺統の後醍醐天皇に召し出された際には世と本人の為になればと快く認めるなど、公平公正な立場を守った。

花園が書いた文章は『誡太子書』がそうであるように、常にシンプルで力強く、必要・不必要を日頃より突き詰めた花園の考えが率直に反映されている。光厳上皇親撰・花園法王監修の『風雅和歌集』には、花鳥風月に流れる風潮を憂い、和歌のあるべき姿を強く追及した序文が記されている。

『京都遠足』
https://www.worec.jp/03kyoto.html

『阪神遠足』P41
https://www.worec.jp/04hanshin.html