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❶「音」だけだった日本の言葉

古来日本の言葉に文字はなく、音だけが存在しました。すべての音は母音が5つで子音が10のほぼ完全なマトリックス(縦横の表)で示すことができ、表現に必要な約50の最小限な音になっています。もともとの言葉は1音や2音、3音の短いものが主流で、類似する要素や意味合いを持つものが同じ音で表現されました(例:ワ(輪・和)、ヒ(日・火)、ウミ(海・生み)など)(※諸説あり)。

漢字が入ってきた当初は、本来の漢字の意味に関係なく言葉の音に合った字(当て字)が使われました(例:稲荷山古墳出土鉄剣や木簡などの埋蔵文化財や万葉集など古い和歌集に見られます)。

時代が下って人が増え多くの価値観をさばき記録する必要が生まれると、文字を使うようになります。600年頃から、中国の政治システムを導入する必要があると考えられるようになり、漢文を習得して公的機関では漢文で記録するようになりました。歴史書なども作られますが、文字には事実を伝える便利な面と、改ざんして伝えられる面がありました。また漢文には理知的・断定的・批判的な要素やスピード感をもたらしました。

一方900年頃には、漢字が簡略化され、音を現す「平がな」が生み出され使われるようになりました。和歌は、かなという表音文字を得て、さらに興隆しました。

❷五・七調について

五・七調は、起源を遡れない程古くから日本にあったものです。短い日本の言葉と五・七語で区切る手法はしっくり合い、呼吸をするリズムにも合っており音の響きを重視しながら発声されました。

五・七・五・七・七の和歌(短歌)は、朝廷・公家だけでなく、学者・僧・武士なども詠みました。人の職業のカテゴリが増えていき立場が違っても、共通の表現手段でした。和歌を詠み合うことで、考えの深さ・正しさ・広さなどを平和的に競い合い磨き合うことができました。また、和歌のやり取りは交渉の手立てにもなりました。

❸勅撰和歌集とは

朝廷のまつりごとは、実務を多くの役人が担当するようになります。天皇の命のみでできる仕事は次第に少なくなっていきますが、『勅撰和歌集の編纂』がこれに新しく加わりました。勅撰和歌集にはその朝廷の時代を表現し、朝廷のまつりごとが成功している様子を全国に伝えるという目的もありました。

勅撰和歌集は時の天皇の選んだ編集人を立てて、過去およびその時代の和歌を集めて編纂されました。905年から1439年までにその数は21になります。勅撰和歌集には仮名序(かなによる序文)と真名序(漢文による序文)がつけられ、和歌とは何か、この和歌集は何を目的に編纂されたかなどが述べられました。中でも1349年 風雅和歌集の花園院による序にはどうあるべきかが強く述べられています。

和歌集に記された和歌はほとんどが創られた原形のまま伝わっています。そのため歴史上の人物がどう伝わり捉えられてこようと、和歌からはその人の考え方などの一部をダイレクトに読み取ることができます。

❹百人一首の背景

百人一首は、後鳥羽上皇の勅撰和歌集の撰者だった藤原 定家が、1235年頃 鎌倉幕府の御家人で親族の宇都宮 蓮生の求めに応じて選んだ和歌に始まると言われています。表題の写真は、現場と伝わる小倉山です。

後鳥羽上皇と藤原 定家は、1220年に和歌への意見が合わず決裂します。1221年 承久の乱で後鳥羽上皇は隠岐の島へ、息子の順徳上皇は佐渡が島へ流されます。1205年に勅撰和歌集は披露されましたが、1235年に後鳥羽上皇は隠岐の島で400首ほどを削って完成としました。

百人一首には8人の天皇の和歌が入っています。高名な天皇の和歌もありますが、非運や失意の立場にあった天皇の和歌も入っており、99・100首目は後鳥羽上皇と順徳上皇の和歌となっています。また、定家が手ほどきをした、鎌倉幕府 最後の源氏の征夷大将軍 第3代 源 実朝の和歌も入っています。

『京都遠足』
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