見出し画像

妄想の中の『エルサレム』

 ポルトガルの小説家ゴンサロ・M・ダヴァレスが描いた小説『エルサレム』(木下真穂訳)はこんな話だ。

 自称「統合失調症」を患うミリアは、患者として精神科医のテオドールと知り合い、結婚する。その後、病状が悪化して精神病院に長期入院するのだが、そこで患者のひとり、エルンストと知り合い、恋仲になる。病院では、何が重要で重要でないのかは精神科医によって決められ、患者たちは常に監視され、厳しく統制され、治療の一環として、自分の思考や行動、習慣を棄てなければならない。患者たちはいつか本当の自分の戻るため、自分の思考を病院のルールに沿って導くことを学習する。決まり事さえ守っていれば、狂人の扱いを受けずにすむのだから。

 エルンストとの一件があって、ミリアとテオドールは離婚する。ミリアとエルンストも一緒にはならず、退院後は自分らしさを取り戻すためにそれぞれの道を歩む。だが、三人は同じ街で暮らしている。

 その同じ街にもうひとり、帰還兵のヒンネルクが住んでいる。戦争中は人を殺すという規律を守らねばならなかったせいか、彼は銃に異常な興奮を覚えるようになり、殺人を崇高な行為だと思い込んでいる。それに比べると、空腹を満たすために食べる行為はつまらないことだと蔑視している。やがて、この二つの行為はヒンネルクの頭の中でねじれだし、彼は危険な欲望を抱えるようになる。

 そしてある日の午前四時、まだ辺りが暗い時間に、ミリア、テオドール、エルンスト、そしてヒンネルクが、それぞれに街を彷徨いはじめる。彼らはみな何かに突き動かされて家を出る。重病におかされ何度も手術を受けたミリアは、その痛みに耐えかね外へ出た。教会に向かうが、中には入れてもらえない。エルンストは自殺を図ろうとしていたところへ、ある電話をとったばかりに慌てて外へ出た。ヒンネルクは銃を懐に忍ばせ、テオドールは娼婦を求め、それぞれに歩いている。

 作者ダヴァレスは、冒頭のたった三行でエルンストを夜の街に放り出したかと思いきや、次には、やたらと教会に入りたがるミリアを描きだす。ミリアは、夜明け前の開いているはずのない教会の前に行き、中に入りたくてうろついている。病からくる痛み、尿意、空腹にもだえ苦しみながら、「おかしな人だと思われたくない」と固い決意を持って。なぜミリアはそこまでして、教会に入りたいのだろうか。奇跡が起きると信じている? 人恋しい? 救いを求めている?

 ダヴァレスは、夜明けまでの短い間に、登場人物たちに様々な社会のルールを破らせる。ミリアにも。そんなミリアに、やっと教会の扉が開かれようとする。扉の向こうには、誰かの目。その目が、ミリアが教会に入れるかどうかを決めるのだ。

 そこで、読者は最後のページをめくる。表紙をもう一度確認する。あっという間に読めてしまった小説のタイトルは『エルサレム』。エルサレムとは何を指しているのか、読者はその後ずっと考え続けることになる。


(約1230文字。想定媒体:翻訳者個人のnote)

++++++++++++++

書評講座では、講師の豊崎さんから「前提を回収していない」「段落がぼつぼつしていてつながりがないから流れていない」「何かしてほしい」という言葉をもらいました。実は、最初こんな出だしだったのです。

私たちは毎日ルールを確認して生きている。ルールは明文化されていないけれど、違反者の耳には「空気を読め!」の怒声が響く。なのに、誰一人として「何がどう間違っているのか」を公式として明らかにはしてくれない。違反を恐れ、過敏になるばかりだ。
 やがて私たちは眠れなくなり、疲れやすくなり、精神が不安定になっていく。自分らしくいられるのは頭の中だけで、自由が約束されている。私たちは妄想のなかで暮らしはじめる。生きる目的などわからないし、どうでもいい。はっきりしているのは、「決まり事さえ守っていれば、違反者や狂人の扱いを受けずにすむ」という事実のみだ。

結局、回収できませんでした。ばっさり削除。

他の受講者さんたちから、「他の人と違うところに焦点を当てている」と肯定的な意見をもらったので、そこは変えませんでした。むしろ強調するように心がけました。

実は、この書評を最初に書いたとき、ネットで他の人たちの感想を読んでしまい、自分の声を見失いました。『エルサレム』を初読したとき、自分が強く感じとったものがあったのに、「もしかして自分の読みはおかしい?」と自分を疑ったのでした。迷走して、自分を貫けずに書いたものを提出したところ、受講者どうしの採点でも、私のは中の下というか、かなり下でした。

この講座で大事に持ち帰りたいと思った学びは、「自分の声を大切にする」ということでした。自分の見方が人には新鮮に思えるのなら、それもいいか。万人に受けなくてもいいか。人の目にさらけ出すのが怖くて、ついついありきたりのこと書いてしまうけれど、勇気を出して、最後まで自分の視点で書ききればいいんだなと。

ほかにもたくさん金言があったのですが、ここには書ききれない。二回目もやるぞー!


この記事が参加している募集

読書感想文

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?