「 直感との付き合い方のすゝめ 」
「直感」ってとてもすごい力をもっていると思っている。
「なんとなくこっちな気がする」「何か違う気がする」って大抵その通りにピッタリ重なると思う。
ひとつひとつの選択をなるべく大切にしたいと強く思う。
頑なになりすぎてしまうことの危険性もはらんでいると思っている。一度直感に反する選択をしてしまったから、すべてがどんどんずれていくような恐怖。
もう戻れないという焦りで必要以上に苦しくなってしまうことがある。
「直感」に従うことと、囚われすぎない、そのバランスについて考える。
小説「西の魔女が死んだ」の中にこのような一説がある。
「直感を大事にしなければなりません。
でも、その直感に取りつかれてはなりません。
そうなると、それはもう、激しい思い込み、妄想となって、その人自身を支配してしまうのです。
直感は直感として、心のどこかにしまっておきなさい。
そのうち、それが真実であるかどうかわかるときがくるでしょう。
そして、そういう経験を幾度となくするうちに、本当の直感を受けたときの感じを体得するでしょう。」
直感の力を感じれば感じるほどに、強く取りつかれてしまっている自分にはっとする。
「直感は直感として、心のどこかにしまっておく」そんなしなやかな思考を、
「とりあえずまあいいか」そんなのんびり遠回りも楽しめる豊かさを、もっていられる自分でいたい。
どうしようもなく、もしくは抗って、「直感と違う方」を選択したとしても、「直感」は何度だって静かな不思議な力でそちらの方へ呼び戻してくるような気がする。すとんと、しっくりなじむ場所へ。きっとどこからでも巻き返せる!そう思う。
だから安心して、必要以上に恐れずに、日々の選択を繰り返していけばいい。
すんなりと直感に気づけな時も山ほどある。
例えば、私は「何か違う」と「未知への恐怖」の区別が難しいと感じている。
選択に尻込みしてしまうのが、直感の作用のせいなのか、それとも「未知への恐怖」のせいなのか。
もしかしたら、迷うくらい、揺らぐくらいだったら、その直感もまだ強い力を帯びてないのかもしれない。
強い直感はそのほかの選択肢が視野に入ってこないくらい、とても自然に、でも力強く導いてくれる。その力を宿すまでには、自分の心や体が吟味する時間も必要なのかもしれない。
だから、安心してまずは自分の足で確かに、ゆっくりと歩みを進めることが必要なのだと思う。
直感に委ね過ぎず、囚われすぎない。まずは自分で決める訓練を。
自分で決めるを繰り返していくと力を有するようになるのかもしれない。
まずは、「誰にでも当てはまる正解」を追いかけることをやめてみる。それが第一歩。
最近自分の中が濁っているような滞っているようなモヤモヤと苦しい感覚があった。恋人ができて、将来の働き方等、今後のことを悩んでいる時期だった。
私は決断が早くて、「決断」よりもその先の道をいかに楽しむか、そういうことに思いを馳せるタイプだった。迷うことはほとんどなかった。
今回調子がくるってしまったのは「恋人」を巻き込んでしまうという申し訳なさであった。大好きで大好きで仕方ないからこそ。
でも私が一番苦手なのは「普通」とか「当たり前」とかそういうものだった。恋人のため、と言い聞かしてどうにか納得させようと努めたものの、私の心と体は明らかに拒絶した。人知れず涙は出るし、過呼吸で眠れない夜が続いた。明らかに心が濁ってしまった。
吉本ばななさんのエッセイ「違うことをしないこと」にこんな質疑応答のページがあった。
Q ばななさんが「今、自分は違うことをしている」と気づくフラグにしていることは、何ですか?
A 頭だけで自分が納得しようとしているときです。「この肉、高いんだから、この脂、おいしいはず!」「この人、皆に好かれているんだから好きにならなくちゃ!」「人は皆いいところがあるんだから、大目に見なきゃ」「こんなに人気があるんだからきっと美人なんだ!」みたいな。首が凝る感じというか。
ああまさに私は恋人の為と言い聞かせるように、色んな事を「頭だけで理解しようと」してきたんだ、と気づいた。反省。私の一番苦手なことじゃないか。自分が一番息苦しくなってしまうと誰より自分が分かっていたはずで、それだけは避けようと思っていたはずなのに。
心のときめきと。ルンルンと。ワクワクと。
恋人よりも、大切にするべきだと今の私は思う。
「誰にでも当てはまる正解」「一般的」「普通」って想像以上に根強く自分を支配している。「手放す」と決めても、その枷はなかなか取れない。軽やかに進んでいきたいを私の足どりをずんと重くする。
外しても外しても、ふと足元の枷の存在に気づく。一個一個手放していけたら。
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