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#49「思い出に残る作家はいますか?」

 こんばんは。霹靂火・秦明です。(へきれきか・しんめい。霹靂火は稲妻のように短気な男、という意味。元軍人。割と早い段階で梁山泊入り。その経緯はけっこうひどい。「狼牙棒」と呼ばれる、トゲを植えこんだ長い棍棒の遣い手。強いのに不遇な人だった)

 2月のアタマに樋口さんの訃報を数か月遅れで知って、この数日間、noteでどんな風に思いを書こうか、と考えていた。

 樋口有介さんの小説と出会ったのは、1990年、高校一年生の夏だったように思う。処女作の「ぼくと、ぼくらの夏」を図書館で借りたのだ。で、まだ自分が読んでないのは?そう思って電脳まがい辞書(ウィキペディア)を使って調べると、9冊あった。
 「ぼくと、ぼくらの夏」を読み返してみると、自分が、高校生の主人公の父親と同じ年齢になっていた。衝撃だ。でもやっぱり、今読み返してみても大好きな作品。何回も図書館で借りて、全部声に出して読んでみたこともあったっけ。それは「八月の舟」でもやってみたな。

 さて、自分の日記は、無駄な英語、横文字を禁止にしているのだが、今回樋口さんの小説について触れてみることにして、難問にぶち当たった。

 「ハードボイルド」て日本語に訳すと何なのだろう?

 前回の日記から二週間。樋口さんの小説について語る時には「ハードボイルド」という概念がどうしても外せない。しかし樋口さんの「ハードボイルド」は、なんかちょっと、違う気がするのだ。

 あれこれ悩んで2週間。今、なんとなくひらめいた。
「固ゆでの屈託」と訳すのはどうでしょうか。いや、正しい訳があるのかもしれないけど。だけどあえて調べない。オレはもうこれで行く。

 「ゆで卵なんて、食えりゃどんな固さでもいいじゃん?半熟だってうまいぜ?食べてみりゃいいだろ?好きに食えばいいだろ?」

 そういう世間に対して、くたびれたり、呆れたりしながらも「いいんだ。固ゆでの屈託で」と、樋口さんのお話の主人公たちは言い続けている気がする。その矜持が例えば大事な友達を殺されたり、いい女や男に惚れたりした時に、ぐらりとゆらいで、自分の屈託を疎ましく思いながらも、事態に向かい合っていく。その過程が、好きなのだ。望まずして「固ゆでの屈託」を抱えてるというところが。

 ぜんぜんうまく書けないな。まあいいか。なぜ、ハードボイルド直訳の「固ゆで」が出てきたのか。樋口さんの話には、ご飯を食べる情景や、洗濯物を片づける場面、農作業をしたりする場面、日常の生活に基づいた場面がよく出てくる。そこを読むのも好きだ。

 私の大好きな場面をひとつ、挙げてみる。

 「彼女はたぶん、魔法を使う」で、記者兼私立探偵の柚木草平が、殺された被害者の友達を慰める台詞。あのコが秘密を抱えていたとは知らなかった、と嘆く彼女に、柚木はこう言う。

 「人間が勝手な生き物でないとは、俺だって思わない<中略>それぞれ勝手なことを考えて、それぞれが勝手に生きている。だからって、人間に対して必要以上に懐疑的になることもないさ。お互いに言えないことの一つや二つあったとしても、由美さんが君の親友だったことに変わりはない。打ち明けられない問題が一つか二つしかない友達だったことのほうがずっと意味があるんじゃないか」

 ……本当に。思ったように書けなかったけれど。

 樋口有介さんはおすすめです。図書館や本屋で見かけた際には、ぜひ、手に取って読んでみて。

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