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ふと抱く...線香臭いお盆への違和感ー柳田國男を読む_07(「先祖の話」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集13』 ちくま文庫(1990)

序論

 立秋が過ぎ、秋の気配を感じるかと思いきや、間隙なき酷暑と湿気and台風接近…気が収まる収まらないというより、先に体がくたばってしまいそうです。。。
そんな中でも、線香の香りとともにあの鬱々、寂寥といった雰囲気を持つお盆がやってきます。
ガキの頃は、あの雰囲気が苦手で、ましてや線香臭くなるなど以ての外、などと胸中に秘めていたものです。
幼い頃は先天的に気管支が弱かったという事情もありましたが、まぁ、ガキらしい反抗期というか、「罰当たりだ」と笑いながら度々指摘されたこともありましたね。この文面だと周りがサイコパスと勘違いされそうですが、先述の事情の他に、同じ思いを抱いていたからだということもあったのでしょう。
今では線香でも無煙タイプ、香りも多様なものが出ていますが、安物に縋るのはわが家(厳密にいうと違うが)の先天的な遺伝なのか。
現在では、別の事情で線香が嫌いですが…(お盆にも容赦なく労働させる強欲資本主義()の下、消しにくい香りのする線香は、どうしても毛嫌いしてしまう)
いつの間に社畜根性が?

与太話の長談議はこれぐらいにして、今回はそんなお盆における民俗学的な解剖を行った柳田氏による論文のメモ録になります。
どこぞのガキのような反抗期からの疑義()ではなく、民俗学の泰斗による紳士的又は基層を掘り起こすような熱意からの疑義で解剖を行っています。この後の本論にある通り、線香臭いお盆への懐疑という一点だけは、不肖低学歴境界人ジュニアと柳田氏で共通するのですが、やはり質が違います。何よりこの論文を執筆した状況がその緊迫感を与えているのでしょう。

さて連日の警報の下において、ともかくもこの長話をまとめあげることができたのは、私にとっても一つのしあわせであった。…ただ忘れてしまうといけないからというような、簡単なことだけではない。もとは他国へ出て行って働くにも、やがては成功して故郷へ還り、再び親類や故旧の間に住もうという者が多かったようであるが、最近になって人の心持はよほど改まり、何でもその行く先の土地に根を生やして、新たに一つの家を創立しようという念願から、困苦と闘っている人たちが日に加わっている。

同書 207頁

大戦で亡くなった多くの彷徨える魂と移転者の祖先崇拝の変容。社会的事情の変化に悩まされるのは現代人だけの宿痾ではなく、近代人ないしその時代ごとの常民の宿命なのかもしれません。少なくとも柳田氏が書き起こしていた時期は、あまりにもその変化が著しかったのであり、その緊迫感に加え、我々に何らかの試金石を与えてくれるのではないかという一抹の期待を抱かせるものでもありましょう。

民俗学泰斗の示す考えを少し覗いてみましょう。

本論

そもそも盆とは?

 そもそもお盆とは何ぞ?と疑問に思われる方が多いはず。周知されている説では、仏者の言うところの盂蘭盆会という法会が、わが国では旧暦7月15日に執り行われ、その前後の数日をお盆と言われるようになった…というもの。しかし、柳田氏は梵語のウラブンナをボンと訳される語法の素地があったか、将又、音訳の盂蘭盆会を盆と書くかなどいくつか疑問に呈した上で、中古の記録に、盆を瓫と記されていることから、少なくとも、字句としては、土器から発していることは確かめられるが、音としてはやはり不明瞭な所があるという。「ボニする」という古来から広範に知られる言葉の他に、いわゆるお盆の時期で、各地で似たような発音をするもの、例えば、土佐では家々の門口で焚く火をホーカイ、大和地方では、提灯を灯して縁先にかけるものをホウカイ火と読んだり、同地方で、ホウカイ様の箸を持って疣を三度挟んでから流すと疣が落ちるという言い伝え、お盆の外精霊の供養としてのホウカイ飯は、江戸人が忌み嫌って非人乞食に渡した等々…食物と関係した民俗的事象へ嗅覚を鋭くしながら、さらに深化させ、『笈埃随筆』の宮崎県山村の風俗事例から、お酒やお茶をすする前に、まず神にお供えをするホカイという儀式など、食物ないしいわゆる神人供食を匂わす例を数多く列挙しています。

…ホカイがただ一座の神または霊のみに、供御を進めるだけの式ではなく、周囲になお不定数の参加者、目に見えぬ均霑者ともいうべきものを、予期していたらしいことが推測せられる。…誰とも知れぬ者やわが仲間でない者にまで分配せられるということは、食物の第一次の目的からは外へ出ている。これがあるいは今日の盆の無縁仏、外精霊などという思想の基くところの、別に国内にも何かあったこと、いわゆる三界万霊の外来教義などは、たまたまこれと習合しかかっていまだ遂げざるものであることを、明らかにし得る手掛りではないかと私は思う。

同書 115頁

乞食が供物に群がるとは昔の書物でよく出る事象ですよね。それで僧侶がなくなったという都近くのお話があったような、なかったような…有識者の方で知っている方がおりましたら、ご教示ください,,,,,

正月行事とお盆行事はそもそも一つだった?

近頃はあまり聞かなくなりましたが、正月の16日ごろになると仏の正月といって、仏壇に供物をしたり、お墓参りを行うというのは割と広く行われていたように思えます(私が田舎者なだけか?)。奄美群島などの南の島々では、16日のことを先祖正月と呼び、先祖の墓の前に集うという風習があったそう。四国でもやはりこの日にお墓参りを行う風習が普及していて、越後では、後生始めと呼んでいたそうです。
柳田氏の「線香臭いお盆」に関連した批判文句が、ここで早速確認することができますw

…先祖を祭るのも後生ごとには相違ないが、家が永続し子孫が長生して、遠い親々を訪らうというのは、不吉な事でも何でもない。正月松の内にはこれを嫌って、あるいは鉦起しだの念仏の口あげだの称し、十六日からでないとこの祭をしなかったのは、まったくその式があまりに仏教くさく、新たに喪に入った場合とあまりにもよく似た祭り方だったからで、ことに故人の霊を何の理由もなく、ホトケなどと呼んでいたのが悪かったのである。…日本人の志としては、たとえ肉体は朽ちて跡なくなってしまおうとも、この世に出て働く様子を見たいと思っていたろうのに、最後は成仏であり、出て来るのは心得ちがいででもあるかのごとく、しきりに遠い処へ送り付けようとする態度を僧たちが示したのは、あまりにも一つの民族の感情に反した話であった。

同書 71頁

そもそも、魂や霊などを招聘するなどのいわゆる魂祭なるものの分化は、中古より発生していたことは徒然草の一節から確認できるという。

晦日の夜いとう暗きに……亡き人の来る夜とて、魂祭るわざはこの頃都にはなきを、東の方に猶することにてありしこそ哀れなりしか。

同書 80頁

もうこの時には、暮から正月松の内にかけて祭るという行事は、晴れやかな元日前までに済ますものとされ、わずか、東国だけにその風習が窺えるという嘆きが聞こえてきます。
暮の霊は晦日の午時にきて、元日の卯の時に還るなどの各地方の村落の風習では、まだその分化を蒙ることはなかったそう(東京付近でいえば、正月様信仰か)ですが、それも新暦導入などにより、地方が思い思いに儀式作法に変更を加えていった結果、魂祭が本来先祖祭りであったことを見失ったと柳田氏は分析しています。

盆が元来は死に対する我々の怖れを、鎮め和めるための式だったことは確かだが、結果はやや意外にも一段と死ということを忌み嫌わしめた。すなわち魂祭はまったくの凶礼のごとくなって、正月と併立させられぬはもちろん、…その半分の原因は新精霊、すなわち死んでまもない身うちの者の祭のみに、あまりに力を傾け過ぎたことにもあるのだが、それも間接には統御せられぬ亡霊というものの、怖ろしさを教えられた結果であった。…ほかいをしただけではまだ十分でないと感じた場合に、これを祭りにすればまた追い攘いもした。そうしてこれがまた盆の踊りの、本来の目的でもあったのである。

同書 127-128頁

あの葬式のような鬱々とした雰囲気への抵抗感。ガキ特有の反抗期根性とばかり思い耽っていましたが、強ち間違いではなかったようです。少なくとも純白だった当時(?)の感性を侮ってはいけなかった…今ではこのざま(小声

…盆は田の水や草取の労苦も一応かたづいて、静かに稲の花の盛りを待つ楽しい休息の時であったはずなのに、これを寂しい感傷の日としてしまったのは、必ずしも単なる季節のためではない。いわばこの日の大切な訪問者の中に、現世の絆のなお絶ちきれず、別離の涙のまだ乾かぬ人々が、まじり加わってしかも正座を占めるように、考える人が多くなった結果であって、忌と祭との古来の関係を思い合せると、これはおそらくはまた一つの近世の変化であった。

同書 130頁

降臨する先祖と霊山信仰

盆の13日のいわゆる魂迎えの行事には、まだ仏教圏外の影響が大きいと柳田氏は捉えていました。というのも、墓・石塔の前で焚く、門口、岸、丘の頂上など、昔は大きい火を焚いていたそうですが、今でも、提灯はなくとも神道であれば蝋燭、仏教であれば、あの忌々しき線香…といった物を欠かすことがないのは、以上の背景があるからと考えてもよさそうですね。
昔は、これに唱え文句を添えていたそうで、同書でもいくつかの事例を紹介しています。

・島根、鳥取の村落

盆さん盆さん
このあかりでございやあし

同書 153頁

・『奥民図彙』の事例

七月十三日の魂祭するを、ほかいするという。樺火とて桜の木の皮を門ごとに焚く。その焚くときの詞、
おんじいな、おんばうな
べここうまに乗って
来とうらい、来とうらい

同書 153-154頁

昔は盆になると盆路を刈り払い、山から盆花を取ってくるという風習は広く行われており、いわゆる仏教の修験道以前に、我が国の霊山信仰は根強かったと指摘されています。
5月の田植え前に、つまり卯月八日に山登りを行い、それを実施した女性らは早乙女として神格化され、田植えの主役を務める云々…どこかでみた山の神=田の神()という話につながってくるわけですが、半ば釈迦誕生会と絡めて研究していた折口信夫を否定しかかっていたのも、このような傍証があったからこそだったのですね。

…五月田植えの日、田人・早乙女がいっせいに振り仰いで、山の姿を礼賛する歌をうたうような峰々は、いずれも農作の豊穣のために、無限の関心を寄せたまう田の神の宿りであった。春は降り冬は昇りたまうという百姓の守護者が、遠い大昔の共同の先祖であって、その最初の家督の効果が末永く収められることを、見守っていて下さるというような考え方が、あるいは今よりももっとはっきりとしていたのかも知れない。

同書 171頁

この話、四月の先祖祭りの仮説に関係してくるのですが、もう息きれっきれなので、気になる方は購読してみてください(他力本願
いや、散文的ではあるのですが、興味深い考察が今回取り上げた箇所以外にいくつかあるので、真面目にオススメします。一応、柳田作品の中でも名の知れた論文ではあるので…

お墓は祭場

両墓制の研究というのも柳田氏によって大きく進展した事象ですが、これはそもそも、骨を収める所とお参りする所の二箇所があるということです。前者について、多くは山野だったり海岸、やがては不明になることがあり、後者はいわゆるお墓としてお寺などが参り墓を設備するといった感じでしょうか。この中古前後には、二種の単墓制があるとし、一つは、葬送のみで、碑を立てぬもので、木を植えたり、石を置く程度の標示があったかもしれないもの、今一つは現代的な個々の廟所をもって直接収容するもの。とりわけ後者は、年代を重ねるうちに、整理しがたいものになり、本来の先祖祭りの在り様を不明にした原因であるとのこと。

…石碑はもともと墳墓ではなかったのだが、両者を一つにする習わしが偶然に盛んになったために、古来の葬法が何か粗暴なもののように感じられ、孝子貞女の墓に対する考え方が、よっぽど支那などの風に近くなって来た。そうして死の聯想からできるだけ早く離脱して、清い安らかな心で故人の霊に対したいというような、願いを抱く者が昔は多かったことまでが、もうだんだんと不可解な話になろうとしている。神と先祖との間には、越えがたい境の溝、または幾つもの段階ができた。

同書 146-147頁

線香臭いお盆批判とその先にあった違和感

…我々の精霊さまは、毎年たしかな約束があって来られ、また決してよその家へは行かれない。行く所が決まらぬのでうろつきまごつき、はからず立ち寄られるのだと思った者などは一人もいなかった。それにもかかわらず往生安楽国、早くあちらへ往っておしまいなさいと、勧め励ますことが果して懇ろな御あしらいであったろうか。…あの棚経の珍紛漢で、死者にも生者にもよく通じなかったので、せめて気まずい思いをすることが少なかったからよいが、詳しく意味が判ったらびっくりせずにはいられなかったろう、と思ってもよいほどに、寺と在家との計画はちがっていたのである。

同書 161頁

「線香臭いお盆」に関連した批判がまた出てきましたが、これについては、確かに言い得て妙でしょう。『般若心経』『法華経』などの内容を事細かく理解されていたら、確かに反発する声も多かったことでしょう。内容がさっぱし分からんという人が大半ですし、そのおかげで葬式仏教なる信仰を今日まで根強く張らすことができたことは否定できません。
まぁ、悪評高き廃仏毀釈運動についても、最近ではむしろ庶民が進んで打ちこわしにいって政府が制止する様だったとの説がありますし、やはり江戸から続く葬式仏教への不和があったことは容易に想像がつきます。

家が永続して先祖の霊が増加していくとともに、だんだんに粗末になるかもしれぬおそれのある祭り方、または年とともに追善が間遠になって、末には忘れたり思い出さぬようになったりする年忌というものが、もしも仏法の本からの教えでも何でもなく、日本に入って来た後に在来の慣行を認めて、それと折合いを付けてこうきめたものだとしたら、それは遺憾ながら改悪と評してもよいものであった。せっかく我々の間にはいつまでも先祖を思慕し、年々欠かさずに子孫が寄り集まって、一定の期間生活を共にするという良い風習があったものを、なまじいにある少数の個人の記念に力を注いだばかりに、かえって他の多くのものを粗略にする結果になった。

同書 64頁

まぁ、こんな感じで、いわゆる祖先崇拝における仏教の悪影響を節々に説くわけですが、仏教側とて、葬式仏教の形骸化に声を上げる僧侶もいるわけですし、昔は貴族・武家の要請により、家々で死者供養を行うにあたって菩提寺と祈禱寺に分けて、仏教の涅槃への模索と哲学を行ったという努力を看過してはならないでしょう。有名な明遍僧正の年忌批判の話はなんだかんだ柳田氏が取り上げてくれていますがw

…昔高野の明遍僧正という高僧は、父の十三年忌の追善をしようという兄弟の勧めに、断乎として反対したという有名な話がある。死んで五年も七年も六道の巷に流転し、仏果を得ることもならぬように心得るのは、仏の御心にも背くことだというのが理由で、彼等の信仰ではもう夙くのむかしに、浄土に往生していなければならぬのであった。盆の場合でも同じことだが、一方に念仏供養の功徳によって、必ず極楽に行くということを請け合っておきながら、なお毎年毎年この世に戻って来て、棚経を読んでもらわぬと浮かばれぬように、思わせようとしたのは自信のないことだった。

同書 61頁

浄土教系だとお盆の法要を行わなかったり、割とこの話に近しい教理を今でも持っていることは当事者の方々なら、周知のことでしょう。浄土真宗では往生即成仏という考え方から追善という考えの下の法要は行わないと聞いたことがあります。
やはり、仏教でもその布教においてだいぶ苦労されたことが窺えます。これを引き込む我が国の祖先崇拝の観念が強かったというのは論を俟ちませんが。

さて、明治になり、いわゆる国家神道なるものが少なくとも形式上は大成され、柳田氏はその時代を生きていた訳ですが、「線香臭い」仏教ないしお盆もなくなった、万々歳!…とはならなかったようです。

…私の生家などでは幸いに盆の魂祭を中止せず、七月十三日の日の入りには、村の群童とともに白地のさっぱりとした晴着などで、墓所へ精霊さんの御迎えに行き、よその樒や線香の香の中にまじって、自分のみは榊の枝をささげ御洗米を供えて、提灯をともしていっしょに還って来ることができたが、それでもなお隣近所の棚経の声や鉦の音を聴くと、何だか取り残された感じがないでもなかった。ましてや盆にこの祭を営むことが、まだ仏法に囚われているような疚しさがあるために、祭を春秋の皇霊祭の日に振り替えて、盆には休むばかりで何もせぬという風が、地方によってはもうかなり広まっているようで、これが祖霊を粗略にする無関心派の増加を、間接に助けていることも争われぬのである。

同書 108頁

結局は同じ穴の狢と感じですかね。神仏習合なり・多神教の国(そもそも仏は神なのか…実際に古代インドで論争になっていたような)と自負する裏で、換骨堕胎したツケはこの長い歴史で積りに積もっている…それがガキなりに感じたあの雰囲気を醸し出してしまった…柳田氏はこの日本人の死後の観念を提起したわけですが、「なお古くからの習わしが正月にも盆にも、その他幾つとなく無意識に保存せられている」意義を十三日の線香が香りがするお盆供養前に一度哲学してみるのも決して手遅れではないように思います。

つかコッカシントウ批判を血眼になって展開されている方が管見の限り、当該箇所をご指摘なさらないのはなぜ is なぜ?
ガキの頃の記憶を便りに、当該箇所を「血眼」になって探した低学歴のワシを少しはお褒めになっていただいても(小声….このぐらいにしておこう

結論

 さて、さる数か月前にお約束したはず()の『先祖の話』をなんとかメモ録として残すことができました。
当論文はおそらく高校時代、学業不振だったワシが必死こいて机の下に隠しながら読んだものです。そのため、チェックした箇所が大変判別しずらく、結局、読み返しながらのメモ録という形になってしまいました。低学歴しぐさがここにも…(呆

閑話休題。
「線香臭い」お盆をテーマにいろいろと死後の観念を掘り下げていったわけですが、案外、死の近しさを感じたようにも思えます。
それは、テレビでやる心霊スポットに突撃!とかそういった類のものではなく(柳田氏は女々しく、けちくさい、また個人的なものを過度に気味悪がせる風潮に批判を加えていますが)、もっとそれこそ土俗的ながらも哲学的なものであります。
柳田氏は、清国人は幽霊が出るとなっては、これを尊貴なことと捉え、むしろ、幽霊にもさえ成らぬことは賤しいという考えがあると中島広足の研究を引用してご指摘なさった上で、むしろこうした観念こそ、我が国の痕跡に見いだせるのではないか?と問いかけています。

終戦直前の動乱に際して、何より戦没者の供養を、また、国の晴れ場に委任するのではなく、家々の構造を確固たるものとし、これを祀るのは家の責任だと最後のページに綴っております。それも直系子孫という変に凝り固まった観念の下ではなく、我が国古来より続く多様な相続法よりこれを支え、「もう一度この固有の生死観を振作せしめる一つの機会」に期待を寄せていたことが文面より窺うことはできます。「私等の学問の外ではあるが」と親の顔より見た常套句を倒置していますが、当時からこのような疑問と哲学をしていた人がいたというのは心に留めておきたいものです。

とはいうものの、台風直撃で線香臭いなどなんなの言っている暇はないようにも思えますが….雰囲気壊したくないので、心の中にそっとしまっておきます。ではでは。

メモ

暮の魂祭における、いわゆるみたま飯について。
通常は、鉢または折敷に盛り上げるものと握飯に結ぶもの(12,3個)と二種ある。
箸を折って鉢のご飯ないし握飯に突き刺す。
少なくとも北陸や東北などで、正月に供せられるものであり、決して不吉なものではなかった。


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