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意味がないから夢は夢なんだ(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
突然ですが、みなさんは夢を見ますか?
そして、覚えてますか?
僕はほとんど見ません。だから、寝て起きたら朝が来てます。ときどき、二度寝しているときや昼寝をしているときは夢を見ます。
※夢で精神分析ができるみたいな小難しい話がありますが、ここでは抜きします。
みなさんの見る夢は、楽しいですか? 悲しいですか?
僕は夢を見て起きたあとに切ない気持ちになります。
それは、だいたい女性と恋仲になったり、元カノと元さやに戻ったり、付き合っている時代戻ったとき夢を見るからです。
※もう一度いいます。ここでは、夢での精神分析ということは抜きにします。
それでも先に書いた通り僕は女性を、ステディな女性を求めているというのは、承知して頂けると思います。
夢から起きたらとき、これは夢だったというときの絶望感は半端ない。もっと夢の中にいたかったと思ってしまう。それの気持ちを小説のネタにできないかと思って必死に思い出すが思い出せないのです。
所詮は夢なのです。
僕の夢はまだ良い方だと思う。夏目漱石の『夢十夜』の夢には救いある話もあるが、その逆の怖い話もある。夢で良かったと思える話も出てくる。
短い話の連続だが、そこに関連性はなく、本当に夢だと言える。ただこれは屁理屈なのだがこの本の夢を十日間連続して見ていたら、気が狂いそうな気がする。
十日間以上夢を見ない僕にはキツいことだと思うし、夢にしてはリアルな部分が多い。
個人的に好きな話は護国寺で運慶が仁王を彫っていて、それを真似て家で薪から仁王を彫り出す話だ。結局、ダメだったのだが、そりゃ当然だろ、素人に簡単に仁王が彫れるとツッコミを入れたくなるような笑い話だ。
また、盲の子供を捨てようと思って森に向かっておぶって歩いて行ったら、盲の子供が「百年前にお前に捨てられた子供だ」と言って子供の重さが一気に重くなる話だ。
順番は前後しているがこれらの話が好きだ。オチらしきものは書いてあるが、余韻を残している。それからどうした? という続きがない。また、その続きがそんなに気にならない。
それが夢だからかもしれない。
夢は途中で終わる。必ずしも全部が完結したものではない。
その余韻を楽しむのがこの作品の楽しみなのだし、醍醐味なのだと思う。
仁王の話では夢ならではのことがある。それは自分にはできるかもしれない。いや、できるという過信ともいうべきものがある。夢には独特のものがある。自分のおかれたシチュエーションを自然と受け入れるということだ。それを見事に体現しているように思える。
夢とは儚いものだ。必ずしも今まで見た夢を全部覚えている人間なんていない。
その脆さが夢の良いところだし悪いところなのかもしれない。
当然ながらこの作品はフィクションだ。ただ完全に夢というものをトレースしているように思える。小説的な想像力は夢を超えられるかもしれない。それを実証した作品だと僕は思う。そのせいか、この小説には余計な描写や説明が省かれているように思える。どんどんどんどんと物語は転がっていく。それに読者は惹かれていく。いつの間にか、『夢十夜』という夢の世界に入っている。
以前、この小説の朗読を聴いたことがある。聞いているだけでも世界は歪んで聞こえて、そこが夢なのか現実なのかわからなかった記憶があった。
ただ、最後に夢のデタラメさだけはお笑いに勝てないとは思っている。いくらナンセンスなコントでも、夢のデタラメさにはかなわない。いつ何時なにが出てくるかわからない。それは、客であり演者である自分にもさっぱり検討がつかないからだ。先に言った通り夢に出てきたことは、当然に受け取ってしまう。だから、それが面白いポイントだとしても、笑えない。
そういえば、夢で笑ったことがない。大笑いだ。大爆笑だ。そんな夢を一度は見てみたい。
だれか見たことある人はコメントをして欲しい。
でも、夢とは言葉にしてしまった時点で世界が壊れてしまうような気がするが.......。
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